芥川龍之介の小説『或阿呆の一生』は、自殺の直前に執筆された遺作のひとつです。
古典作品をモチーフに人間の深層心理を描く作風の印象が強い芥川龍之介ですが、晩年の作品は私小説の要素が加わり、殆ど自殺前の心情を吐露するような作品が増えていきます。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 芥川龍之介(35歳没) |
発表時期 | 1927年(昭和2年) ※死後に発表 |
ジャンル | 短編小説 私小説 自叙伝 |
ページ数 | 38ページ |
テーマ | 人生の回想 創作の敗北 ぼんやりした不安 |
あらすじ
僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
『或阿呆の一生/芥川龍之介』
親友の久米正雄に宛てた遺書形式によって、作品が始まります。
一貫した物語性は排除され、幻影的な51遍の短い断章が順番に綴られていきます。各章には芥川龍之介の半生の出来事が心象風景として描かれています。
幼少の記憶、気が狂った母親、師匠である夏目漱石の死、結婚、出産、義兄の自殺、生活苦、女性問題、など自殺のきっかけとなった「ぼんやりした不安」のあれこれです。
気狂いの母親を背中に抱え、芸術にのめり込んだ青年が、やがて死に魅せられていく、まさに芥川龍之介の生涯を端的に言い表したような物語です。
最後51遍目の小題は『敗北』です。睡眠薬を飲んだ後1時間程度しか頭がはっきりしないような、その日暮しの生活を露呈して幕を閉じるのでした。
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個人的考察
自殺の直前に書かれた物語
本作『或阿呆の一生』は芥川の晩年の作品で、一連の遺書的作品のひとつに当たります。
当時の芥川は、母親に関するトラウマ、親戚の自殺、執筆の苦悩、労働苦など、あらゆる問題に苦しめられていました。その結果、薬物中毒に陥り、最終的には自殺してしまいます。
そんな絶望的な状況の芥川が執筆した本作『或阿呆の一生』は、自殺を目前にして自らの人生を振り返った自伝的な文章の集合によって構成されています。小説としての物語性は排除され、ただ当時の芥川の破滅的な心象風景が詩的に描かれています。
本記事では、当時の芥川がどのような苦悩を抱えていたのか、51の各章から考察します。
ちなみに芥川の自殺の理由については、下の記事で詳しく解説しています。
登場人物の正体
実名が用いられないため、芥川龍之介の交友関係を知らない方は、登場人物が定まらず途方に暮れたと思います。取り立てて記す必要があるのは下記の3名です。
章 | 作中の人物 | 実際の人物 |
5章 | 先輩 | 谷崎潤一郎 |
10,11,13章 | 先生 | 夏目漱石 |
50章 | 発狂した友人 | 宇野浩二 |
作中には多くの女性が登場し、母や妻など身内は判別できます。それ以外の「月の光の中の女」「狂人の女」という表現で描かれる愛人たちは下記だと考えられています。
- 「月の光の中の女」野々口豊子
→妻の良き相談相手だった女性 - 「狂人の女」秀しげ子
→人妻との不倫が姦通罪だったため、断罪を恐れて一時的に芥川が中国に逃亡した有名な事件の浮気相手
先輩「谷崎潤一郎」
芥川龍之介にとって、谷崎潤一郎は東京帝国大学の先輩にあたります。同時代に活躍した作家として深く交流があったようです。
第5章の先輩(谷崎)とカフェで会話をする場面は、また別の「谷崎潤一郎氏」という短い随筆にも綴られているので、気になる方は読んでみてください。
ちなみに、比較的親交が深かった二人は、小説の芸術性に物語の要素は必要か否か、という歴史的に有名な論争で対立し、決着がつかないまま芥川が自殺してしまいます。詳しくは下記記事を参考にしてください。
論争の内容は『文芸的な、余りに文芸的な』に記されていますので、気になる人は読んでみてください。
先生「夏目漱石」
芥川龍之介が夏目漱石に弟子入りしていたのは有名な話です。そもそも芥川龍之介が文壇での地位を獲得したのは、夏目漱石の称賛があってのことでした。
芥川龍之介は、人間の利己主義に焦点を当てた作家です。夏目漱石が『鼻』を絶賛したのは、まさに利己主義的な主題が秀逸に描かれていたからです。
夏目漱石の作品は、明治時代の全体主義的な風潮の中で、個人主義を望む人間が社会に敗北するという構図で描かれることが多いです。とりわけ『三四郎』ではまさに全体主義に苦しめられる若者の恋愛観が表現されていました。
それに対して芥川龍之介は、生きるために老婆の着物を奪う『羅生門』や、傍観者の利己主義に苦しめられる『鼻』など、殆ど個人主義の人間の深層心理を描きました。
明治時代から大正時代に移る中で、全体主義的な風潮が個人主義へと変化する世相を誰よりも早く作品に落とし込んだ芥川龍之介。その才能に夏目漱石は目をつけ、次の時代の寵児になることを予測していたのでしょう。
発狂した友人「宇野浩二」
芥川龍之介と宇野浩二は同世代を生きた作家仲間です。作中で「友人」と綴られる通り、二人はかなり親交が深かったようです。
作中ではその友人が発狂したと綴られていますが、それも事実です。
1927年ごろから宇野浩二は精神に変調をきたし、今で言う躁状態を患っていました。50章には、「薔薇を食べた」という奇妙な逸話が綴られていますが、実際に静養に行く最中に料亭の2階で「腹が減った、腹が減った」と言って床の間に刺してあった薔薇の花をペロペロと食べたようなのです。
「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」
『或阿呆の一生/芥川龍之介』
宇野浩二が放ったこの台詞には、数年前に発生した関東大震災が関係していると言われています。当時の作家たちはこぞって関西に移住するなど、地震の影響をモロに受けており、世相的にも世紀末のような退廃的な雰囲気が漂っていたのでしょう。先の見えない陰鬱とした社会に心が荒み、薔薇を食うくらいに病んでしまったのかもしれません。
最終的に宇野浩二は70日間入院し、その間に芥川龍之介は自殺してしまいます。
私小説の完成形を試みた!?
芥川龍之介の後年の作品『歯車』『蜃気楼』『或阿呆の一生』などは、いわゆる私小説の形態で描かれています。
『或阿呆の一生』には元々「自伝的エスキス」という副題が付けられていたことから、芥川が意図して自伝的な要素を持つ私小説を創作しようとしていたことが判ります。
そもそも私小説は明治の終わり頃に、西洋の自然主義文学を誤って解釈した田山花袋が、自らの性の葛藤を赤裸々に描いたことが発端だと言われています。暴露的な性質が特徴で、当時は反対派の意見も多かったようです。ところが、大正後期に入ってから活発に話題に挙がるようになり、流行に後押しされて、文壇でも肯定されていくようになります。とは言っても、当時は「私小説」の明確な定義は存在せず、多くの文学者たちが評論の中で構築しているような段階でした。
こういった時代背景のもと、芥川龍之介は『或阿呆の一生』を執筆しました。つまり「私小説」の萌芽期に、その完成形を目指すために芥川も模索していたのだと考えられます。
事実、『或阿呆の一生』のように断片的な回想を記す手法、『歯車』のように精神的な連想を描く手法、『河童』は私小説ではありませんが、作り物語の中に自分が抱える問題を落とし込む手法など、様々な模索が見られます。
今日の「私小説」のあり方に、芥川龍之介は一躍買った作家の一人だと言えるでしょう。
私小説に敗北した芥川龍之介
「私」小説は嘘ではないという保証のついた小説である。もう一度念のために繰り返せば、「私」小説の「私」小説たる人の膨張による言葉ではありません。
『「私」小説小見 ー藤沢清造君にー /芥川龍之介』
芥川龍之介は評論の中で、私小説は真実性・実体験性に重点を置くものだと主張しています。あくまで自伝的な内容を嘘偽りなく描くのが私小説であり、一種の虚構的な創作が加われば、それは私小説に当てはまらないということでしょう。
ともすれば、副題の「自伝的エスキス」が削除され、最終章のタイトルが「敗北」と名付けられたのは、芥川が私小説の創作を断念したことを意味するのではないでしょうか。
実際の原稿は幾度となく加筆修正された形跡があり、最終的には章番号がズレているなど、不完全な状態だったようです。芥川が自殺したのは『或阿呆の一生』を執筆した1ヶ月後で、その間に『西方の人、続西方の人』という遺作を残しています。精度が不十分であるにもかかわらず、1ヶ月の間に『或阿呆の一生』を推敲しなかったこと、あるいは後半部分が集中的に書き直されている点から考えても、自伝的「私小説」の完成形を試みた結果、その不可能性を認め諦めたのだと考えられます。
具体的に書くとキリがないので割愛しますが、実際は51章の中には史実と異なる部分も含まれており、芥川の言う純粋な意味での真実性や実体験性からは多少逸脱しているとも言えます。
私小説の完成形を創作できなかった故に、「自伝的エスキス」という副題を削除して、広義な意味での小説に差し替えたのかもしれません。友人である久米正雄に発表の可否を託したのも、完成させられなかった敗北感から自ら世に晒すことが憚れていたのではないでしょうか。
8章「火花」
余談ですが、芸人であり芥川賞作家でもあるピースの又吉直樹さんは、『或阿呆の一生』を愛読しているようで、芥川賞受賞作の『火花』は8章の小題からインスパイアされたようです。
彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。
『或阿呆の一生/芥川龍之介』
芸術にのめり込んだ青年が、命と取り替えてでも手に入れたかった、火花のような刹那的な輝き。本当に美しい人生とは、一瞬だけの儚い輝きを追い求める、幻影に身惚れた夢想家の一生を指すのかもしれません。志すものがある人にとっては、胸を突き動かされる章であります。
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