坂口安吾『不良少年とキリスト』あらすじ解説|太宰治の自殺理由

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不良少年とキリスト 散文のわだち

坂口安吾の『不良少年とキリスト』は、太宰治について書かれた代表的な随筆です。

同じ無瀬派の盟友・太宰治の死を聞かされた坂口安吾が、彼の死について独自の解釈を記しています。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者坂口安吾(48歳没)
発表時期  1948年(昭和23年)  
ジャンル随筆
エッセイ
ページ数26ページ
テーマ太宰治の自殺について
文学者の生と死

あらすじ

あらすじ

坂口安吾は、太宰治の自殺を「フツカヨイ的に死んだ」表現しています。

太宰治はM・C(マイ・コメディアン)と自称していましたが、結局は喜劇役者になり切ることができなかったようなのです。つまり、舞台の上ではなく、フツカヨイ的に死んでしまったと言うことです。

自責や後悔の苦しさなどは、フツカヨイの中で処理しなければいけない性質のものです。それを文学や人生の問題にしてはいけない、と安吾は主張します。ところが太宰の場合、普段はひと一倍常識人であるだけに、フツカヨイ的な苦悩に陥りがちだったようです。あらゆる恥が「赤面逆上的」に彼を苦しめていたと言うのです。もちろん『斜陽』など、本当のコメディアンとして作品を生み出すこともありましたが、それも長く続かず、すぐにフツカヨイ的に逆戻りしてしまうようです。

虚無は思想ではない、と安吾は主張します。虚無など人間に付随した生理的なものに過ぎないのです。本当の思想とは、個人がより良く生きていくための工夫のことを指します。太宰の作品には思想が欠落していたのでした。太宰ファンもまた、青臭い思想性を冷笑した彼のフツカヨイ的な自虐に喝采していました。太宰は歴史の中のコメディアンではなく、ファンだけのためのコメディアンとして自虐を続けていたのです。

太宰治は40歳になっても不良少年だったようです。何かに勝ち続けなければいけない、と自分を脅迫していたのです。腕力や理屈では勝てないから、キリストなどを引き合いに出して権威で自己主張をしようとする、支離滅裂な不良少年なのです。

坂口安吾は「死の勝利」など存在せず、生きることが全部だと主張します。人間は決して勝てないのですが、戦っている限りは負けないと言うのです。勝とうなんて思ってはいけないし、一体何者に勝つつもりなのかも判りはしないのです。

学問とは「限度」を発見するものだ、と安吾は主張します。原子爆弾を発見することなど学問ではありません。平和な秩序を考えて、戦争の限度を発見することが学問なのです。自殺だって学問ではないのです。学問とは限度の発見であり、そのために戦うのです。勝つためではないのです。そう言って、坂口安吾は太宰治の死を悼むのでした。

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個人的考察

個人的考察-(2)

舞台上のコメディアンとは?

太宰治はコメディアンになり切れなかった、という表現が作中に何度も登場します。ある種、文学とは生への執着を演出するための芸術であり、太宰治にはその生命力に満ちた喜劇を演出できなかったということでしょう。

喜劇を演出することで文学はより良くなる、と坂口安吾は記していました。これは決して陳腐な作り物語を書け、ということはではないでしょう。文学とは学問であり、学問とは個人の人生をより良くするために存在するのだから、自責や悔恨ばかりを持ち出して本当に死んでしまったら文学の本質から外れる、という考えが坂口安吾の芸術観の礎なのでしょう。

太宰治は「虚無」という人間の本質に付随する問題ばかりを文学で取り上げ、人生を良くするための思想(学問の本質)を青臭いと嘲笑していたようです。虚無に勝たなくてはいけない、という不良少年の気質が彼を破滅へと追い込んでいったのでしょう。本来はより良い人間になりたいという願望が強かったにも関わらず、どうしても思想の青臭さを素直に追求できなかったみたいです。幸福を願っているのに、幸福を嘲笑するような、彼の拗れた性格が原因なのだと思います。

自虐的な作品をファンが喝采していたことも太宰の虚弱の原因だったようです。誠実な彼はファンに対する迎合を疎かにせず、ファンだけのコメディアンになって、どんどん学問の本質から外れていきました。民衆や女性たちが、ある面では彼の破滅を心待ちにしており、その期待に引づられるように太宰は堕ちるところまで堕ちていったようにも感じられます。

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「フツカヨイ」による「赤面逆上」

コメディアンになり切れない太宰治は、フツカヨイ的に作品を書いて、後に赤面逆上的に自責していた、と綴られています。

いわゆるヤケ酒のような精神状態で小説を執筆して、酔いが覚めてから後悔と恥に苛まれるような生き方をしていた、という意味ではないでしょうか。昨夜の粗相を、翌日に後悔する感覚で、太宰治は日々恥の上書きを繰り返していたのでしょう。

結局これら全ては太宰治の見栄であり、目前の人へのサービスに気を取られた結果だと言えます。自分を良く見せるために道化を演じて、その結果他人を欺くことになり、後になって恥や後悔に変わり苦しんでいたのでしょう。

太宰治は誠実である、と坂口安吾が主張するのは、こういった罪の意識に敏感な性質を指しているのだと思います。他人を欺こうが自責を感じない人間もいる中で、太宰は真面目すぎたから、「赤面逆上」によって酷く自責する羽目なったのでしょう。

学問とは限度の発見

「人間は生きることが、全部である」と坂口安吾は主張しています。そのためには「限度」を知ることが重要だと言っています。そして学問こそが限度を知る手段のようです。

具体例として、原爆を発明することは学問ではなく、争いを抑制し平和な秩序を考えることが学問だと記されています。つまり、際限ない争いに限度を設けることが学問の本質だということでしょう。

あるいは「人生の時間には限りがある」という意味での限度も意味しています。永久に時間が続くような夢想に陥るから、日常を疎かにしてしまうという考えも然り。虚無という限度のない敵と戦い続けるから、破滅してしまうというという考えも然り。

つまり、限度というのは平穏のための規定、秩序なのだと思います。

秩序がなければ世の中は荒廃し、争いに際限はなくなります。そこに限度を設けるからこそ、争いを食い止めることができるのです。

人生も同じで、いずれ100パーセントの確立で死ぬという限度を身近に実感できれば、否が応でもより良く生きるための思想を尊重するでしょう。あるいは見えない敵に限度を与えることで、世の中と和解することが出来るのです。我々はこういった考えを疎かにする故に、限度のない漠然とした不安に襲われ、フツカヨイ的な自責に苦しむ羽目になるのです。

とかく、永遠とは非常に荒んだもので、終わりがあるから我々は目的を、幸福を追求できるのだと思います。

学問とは限度の発見、つまり目的の認識、その目的ために生きるという強い執着、ひいては幸福を実感するための思想なのだと思います。

太宰治にはその考えが欠落していたからこそ、フツカヨイから抜け出せなかったのでしょう。

坂口安吾の主張からは文学のあるべき姿が見出せると同時に、そうなれなかった太宰治に対する惜別の意が感じられます。

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『太宰治情死考』でも言及する安吾

坂口安吾は『太宰治情死考』という随筆においても、太宰の死について言及しています。

こちらも同様に、太宰治の自殺を惜しむために、 芸術家の在り方や思想についての考えを力強く綴っています。 あるいは、山崎富栄との情死について騒ぎ立てる世間に対して、太宰は女のために死んだのではない、という鋭い視点での主張も多く含まれています。どうやら、坂口安吾は山崎冨栄の存在が気にくわなかったようで、作中でかなり扱き下ろしていて面白いです。

是非、 『不良少年とキリスト』 と併せてチェックしてみてください。

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映画『人間失格』がおすすめ

人間失格 太宰治と3人の女たち』は2019年に劇場公開され話題になった。

太宰が「人間失格」を完成させ、愛人の富栄と心中するまでの、怒涛の人生が描かれる。

監督は蜷川実花で、二階堂ふみ・沢尻エリカの大胆な濡れ場が魅力的である。

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