「人間失格」にはスピンオフがあった!? 太宰治の『道化の華』あらすじ考察

道化の華 散文のわだち
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太宰治の小説『道化の華』をご存知ですか?

1935年に発表された短編小説です。最初の作品集『晩年』に収録されています。

自殺願望があった太宰治は、最初の作品集が自分にとって遺著になる想定だったため、「晩年」という不吉なタイトルをつけたようです。

『道化の華』は、主人公の「大庭葉蔵」が女性と入水自殺を決行し、自分だけ助かる場面から物語が展開します。自殺に失敗した葉蔵の、入院生活に焦点を当てて描かれています。

もう、お気づきですよね?

かの名作『人間失格』のストーリーと同じなのです。主人公の名前も同一です。

つまり道化の華』は、『人間失格』では詳細に描かれなかった、入水自殺した直後のスピンオフのような物語です。

『人間失格』では、なぜ葉蔵が入水自殺を決行したのか、明確には記されていません。

一方『道化の華』では、葉蔵が自殺を試みた原因に焦点が当てられています。

さらに、本作はかなり実験的な文体で記されています。あるいは、『人間失格』とは異なる設定もちらほら含まれています。

ちなみに、『道化の華』は『人間失格』が出版される11年前に書かれた作品です。正確にはスピンオフと言うよりも、元ネタになった短編作品です。

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『道化の華』の作品概要

作者太宰治
発表時期1935年(昭和10年)
ジャンル短編小説、私小説
テーマ自殺直後の心境、人間の信用

※『道化の華』は作品集『晩年』に収録されています。

『道化の華』の300文あらすじ

葉蔵は入水自殺に失敗しました。

心中相手の女性は死に、自分だけが病院に搬送されます。

見舞いに来た友人たちや、看護師との交流で進行する入院生活は、どこか不自然な平坦さを秘めています。

実の兄の訪問や、父親に対する後ろめたさを感じながらも、葉蔵は友人たちと差し障りのない時間を過ごします。鬱屈とした雰囲気に飲み込まれないように、わざと平穏を装っているようです。

友人や家族は、葉蔵の自殺の原因をあれこれ憶測します。しかし、実際に葉蔵が口にした弁明は、「何もかもが原因のような気がする」でした。

退院の日、葉蔵は病院の裏山に登り、遥か先に見える海水の揺らめきを見つめていました。ただそれだけのことだったのです。

『道化の華』のあらすじを詳しく

①入水自殺後の真野との出会い

「園」という女性と入水自殺を決行した葉蔵は、帰帆の漁船に引き上げられ一命を取り留めます。

あいにく、園は遺体で発見され、葉蔵だけが生き延びます。「人間失格」と同じ展開です。

ちなみに「人間失格」での心中相手は「ツネ子」という名前なので、多少設定が異なります。園もツネ子も夫がいる女性と記されており、ほぼ同一人物のように思われます。しかし園の夫は教師、ツネ子の夫は詐欺罪で捕まった男と、微妙な違いがあります。

病院に搬送され、目を覚ました葉蔵は、「真野」という女性看護師に世話を受けます。

真野の顔には幼少の頃にランプをひっくり返してできた深い傷があります。そのことが原因で学生時代は周囲から酷い扱いを受けたようです。

真野の告白を聞いた葉蔵は、またしても不幸な者同士の親和を感じてしまいます。

それと言うのも、「人間失格」で心中相手ツネ子に対して、葉蔵が感じたシンパシーが、まさに「不幸な同士の親和」だったのです。

しかし、「道化の華」では、葉蔵がその親和感をあえて拒否しようと努力する描写が記されています。

園と情死を試みた直後なので、流石に他人を巻き込んではいけないという自制心が働いたのかもしれません。

②飛騨の訪問

葉蔵が病院に搬送された翌日に、中学時代の友人「飛騨」が見舞いに来ます。

飛騨にとって、葉蔵は学生時代から憧れの存在でした。そのため、飛騨は葉蔵の後を追うように、同じ美術学校に進学しました。葉蔵は無名の洋画家に、飛騨は無名の彫刻家になります。

飛騨は憧れの存在である葉蔵の真似ばかりしていたのですが、徐々に2人の人生は違う方に向かいます。葉蔵は哲学に心をそそられ、芸術を馬鹿にするようになります。一方、飛騨は芸術について有頂天になり、傑作を夢見る青年になります。

ここにも「人間失格」とは異なる設定が含まれています。まず、葉蔵は「人間失格」では親の意向により、本来入学したかった美術学校ではなく、高等学校に進学します。しかし本作では、葉蔵は美術学校に進学しています。さらに、「人間失格」では高等学校をボイコットして、画塾に通っているという設定はあったものの、無名の画家として活動していたかは定かではありません。

③小菅の訪問

次に病室にやってきたのは「小菅」です。

小菅は葉蔵の三つ年下の親戚ですが、隔てのない友達として付き合っています。

小菅の話では、葉蔵の自殺未遂によって実家では大騒ぎになっているようです。葉蔵の父は、「ほっとけ」とかなり冷酷な態度だったとも記されています。

やはり、父親との因縁は本作でもしっかり綴られています。

このように『道化の華』は、飛騨、小菅、真野の三人と過ごす、葉蔵の入院生活を綴った物語です。

④葉蔵の自殺の動機とは

看護師の真野と、見舞いに来た飛騨と小菅の3人は、葉蔵の自殺未遂について議論します。

葉蔵の実家では、女が原因で自殺したと決め付けているようです。小菅は左翼運動における思想の行き詰まりではないかと推測しています。飛騨は、芸術家である故にもっと別の理由が存在すると主張します。あるいは、後に登場する葉蔵の兄は、酒や女に耽って金に窮したからと推測しています。

勝手な憶測が飛び交う中、葉蔵の胸中には様々な原因が思い浮かびます。

虚傲、疲労、殺意、脆弱、欺瞞、病毒

しかし、彼が口にした弁明は次のようなセリフでした。

ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような気がして。

葉蔵自身も、決定的な理由が判らなかったのです。むしろ、決定的な理由が不在だったから死を決意したのかもしれません。

無数の細かい痛みが集まって、地獄のような痛苦になっていたのでしょう。

決定的な1つだけの痛みであれば、対処のしようがあります。歯が痛いのであれば歯医者へ行けばいいように。しかし無数の細かいな痛みでは、一体何から逃げればいいのか、シラミを潰すような絶望感が押し寄せるばかりです。

そういった出口のない絶望こそ、「なにもかも原因のような気がして」という言葉が暗に訴えるメッセージだと考えられます。




⑤葉蔵の兄の登場

翌日の昼過ぎに、兄が葉蔵の病室にやって来ます。

兄の登場により、幾分か和やかだった雰囲気は一気に張り詰めます。やはり、葉蔵にとって家族とは、後ろめたいものであり、自然と身構えてしまう存在なのでしょう。実際に兄が去った病室で、葉蔵は家族について言及します。

兄貴は、まだあれでいいのだ。親父が。

そう言いかけて葉蔵は口をつぐみます。

やはり「人間失格」同様に、葉蔵にとっては父の存在が全ての元凶なのでしょう。

「道化の華」では、葉蔵が母親に対して同情を示す場面があります。一方で「人間失格」においては、母親の存在を取り上げることはありません。

実際に、太宰治本人は、病弱な母の元に生まれたため、乳母や女中に世話をされ、実の母の愛情をほとんど受けずに育ったそうです。彼の中に相応しい対象が存在しなかったので、作中で母親について多くは触れられないのかもしれません。

⑥呑気に見える道化

「道化の華」は「人間失格」とは異なり、どこかしら穏やかで呑気な雰囲気が含まれています。

例えば、飛騨が警察から帰ってきて、葉蔵に自殺幇助罪になったことを告げる、本来であれば深刻な場面も、なぜか抑揚のない平坦な描写で綴られています。

人1人を死に導いた葉蔵が呑気な態度なら、世間も読者も怒りを感じるだろう」と、太宰治本人も注釈的に主張しています。では、なぜあえてそんな書き方をしたのか。

その理由は次のように綴られています。

「なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにいて、傷つき易い道化の華を風にもあてずつくっているこのもの悲しさを君が判って呉れたならば!」

『道化の華/太宰治』

つまり、葉蔵は内心では絶望的な悲しみを抱えつつ、あえて道化を演じているのです。

葉蔵の性格上、自分の感情を素直に表に出すことはできません。「人間失格」の場合は、彼の心情が内省的に綴られていました。しかし「道化の華」では、第三者目線で俯瞰的に描かれているため、読者は葉蔵を外側から見ることになります。外側から見た葉蔵は、道化故に、顰蹙を買うほど呑気なのです。

また文中には、「青年たちは真面目に議論せず本音を口にしない」と綴られています。道化を演じる葉蔵と、友人たちとのコミュニケーションは、まるで表面をかすめるように差し障りなく交わされます。あえて不自然な平坦さで描くことで、青年たちのうらぶれた性格を表現しているのでしょう。

⑦自殺幇助罪の宣告

入水自殺を決行し、園を殺した葉蔵は、自殺幇助罪に問われます。

飛騨と兄が、葉蔵の尻拭いのために警察に出向いて、代わりに宣告を受けてきたのです。

飛騨の話によると、死んだ園の夫と葉蔵の兄が会って話をしたようです。

園の夫は「金はいらないから、葉蔵に会いたい」と主張します。しかし、兄は葉蔵が入院中であることを盾に、今後関わりを持たないように仕向けます。すると園の夫は情けない顔をして、「葉蔵に体を大事にするよう伝えてください」と言って東京へ帰っていきました。

この出来事に対して小菅が、葉蔵の兄はやり手だと称賛します。しかし飛騨は、葉蔵の兄ではなく、園の夫が偉いのだと、まるで美談として得意気に語るのでした。

⑧自殺した海岸にて

葉蔵は、飛騨と小菅と3人で、自分が情死を図った海岸へやってきます。

葉蔵は岩を指差して、あそこから飛び降りたのだと告白します。そしてこんなセリフを口にします。

「ほっとするよ。いま飛びこめば、もうなにもかも問題でない。借金も、アカデミイも、故郷も、後悔も、傑作も、恥も、マルキシズムも、それから友だちも、森も花も、もうどうだっていいのだ。それに気がついたときは、僕はあの岩のうえで笑ったな。ほっとするよ。」

『道化の華/太宰治』

葉蔵は無数の原因に苦しんでいました。その全てがどうでもよくなった結果、岩の上から海に身を投げたのです。つまり、葉蔵は無数の原因に殺されたわけではなかったのです。

むしろ、無数の痛みこそが自分と人の世を媒介する存在だったのでしょう

その葛藤すらどうでもよくなった瞬間、葉蔵と人の世を繋ぎ止めていた紐がぷつりと切れ、海に飛び込む結果に至ったのかもしれません。

葉蔵の告白によって、3人は窒息するような気まづさを感じます。

あえて「人間失格」を引き合いに出すと、飛騨と小菅は「道化の華」にしか登場しません。園とツネ子のように重複する別の存在がないのです。ともすれば、彼らの不自然な関係性はこの時ばかりで、後には完全に途絶えてしまうのでしょうか。あるいは、この3人は実は同一人物で、いずれも葉蔵の中に存在する複数の人格とも推測できます。深読みすればキリがありませんが、それくらい「道化の華」には、つい詮索したくなる不可解さが含まれています。

⑨退院

退院の前日の夜、真野の目の傷の告白を聞き、葉蔵は彼女に愛情を感じます。

不幸な者同士の親和」のせいで、真野が眠った後、葉蔵は葛藤します。沸き返る思いに堪えかねて、真野の方へ寝返りを打った途端、葉蔵の耳に激しい声が囁かれます。

やめろ!ほたるの信頼を裏切るな。

「ほたる」というのは、まぶたに深い傷を負った真野が子供の頃に学校でつけられたあだ名です。

信用を裏切るな」という圧倒的な重量を持つこの言葉。「人間失格」において、純粋無垢なヨシ子がレイプされた際に、葉蔵が訴えた、「ヨシ子を汚されたことよりも、ヨシ子の信頼を汚されたことが苦悩の種になった」という部分が想起されます。

葉蔵は他者の裏切りに敏感であると同時に、自分も加害者になる可能性があるという事実に葛藤していたのでしょう。

翌朝、つまり退院の日、葉蔵は真野と病院の裏山に登ります。

頂上に辿り着くと、富士山が見えないことに真野は嘆きます。対する葉蔵は、遥か先に見える海水の揺らめきを見つめていました。

ただそれだけのことだった」と、ここで物語は幕を閉じます。




『道化の華』の個人的考察

なぜ自ら注釈を加えたのか

この物語の文中には度々、太宰治本人の心の声が綴られています。

物語は、いわゆる神様の目線(第三者の目線)スタイルで書かれているのですが、なぜか途中で作者の心の声が不自然に挿入されます。

まず冒頭の、葉蔵が病院のベッドで心情を述べる場面で、「大庭葉蔵が自分の主人公にぴったりだ」と言う不自然な文章が挿入されています。初見だと、一体誰の主張なのか不可解です。

しかし、物語を読み進めていくと、「私を主人公にした小説をこの春に書いたばかりで、二度続けるのが歯痒いため、大庭葉蔵という名前を用いた」と説明されます。そこでようやく、太宰治の本作に対する注釈が、文中に組み込まれていることに気付きます。

そのことに対して、太宰治の主張が記されています。

「ほんとうは、僕はこの小説の一齣一齣の描写の間に、僕という男の顔を出させて、言わでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考えがあってのことのなのだ。僕はそれを読者に気づかせずに、あの僕でもって、こっそり特異なニュアンスを作品にもりたかったのである。それは日本にはまだないハイカラな作風であると自惚れていた。」

『道化の華/太宰治』

要するに、太宰治は前衛的な作品を作り出すために、あえて注釈を挿入していたのです。

しかしこの直後に、「その挑戦に敗北した」とも綴られています。

さらには、自分は卑怯な嘘をついていると自己嫌悪まで露呈します。太宰は執筆と葛藤する中で、自分がなぜ小説を書くのか判らなくなっているようです。しかし、最終的には、自分が小説を書く理由は「復讐」だと綴っています。その一言に読者は胸を打たれ、納得せざるを得ないのです。

物語が中盤に差し掛かれば、「この小説は面白くない」と自分の作品を批判し始めます。終いには、「自分の小説が古典になれば、読者は自分の注釈を邪魔に思うだろう」と行末の問題まで気にし始めます。

しかしそれは、「自分の作品をより多くの人に愛してもらいたい願望の現れであり、そのせいで駄作が生まれてしまうのだ」と個人的な芸術論が述べられます。そして挙句、「もうどうでもいい」とほとんど投げやりにさえなるのでした。

『人間失格』への伏線

太宰治が前衛的な手段を使ってまで、伝えたかったことは何だったのか。

それは、この小説を通して、葉蔵を救いたかったというです。

物語の中で自分自身を具現化して、その存在を救うことで、現実の自分に対して許しのようなものを求めていたのかもしれません。結局は、太宰治は「失敗に終わった」と言っています。葉蔵のことを救えなかったのです。それどころか、「後にこの小説を読んだなら、酷い自己嫌悪に陥るだろう」と過度に自己批判を繰り返しています。

しかし私は、最後の数ページに『人間失格』に繋がる伏線のようなものを感じて仕方ありません。

それは、「もいちど始めから、やり直そうか」という一文に始まり、「僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ」へと着地する、さらなる展望の香りのせいだと思います。

太宰治は、失敗だと投げやりな思いを露呈していますが、内心は諦めていなかったのでしょう。なぜなら、大庭葉蔵という自分の化身を物語の中で救うことこそが、現実世界で自分を救う行為に他ならないからです。

だからこそ、11年の時を経て、太宰治は再び『人間失格』という作品の中で、葉蔵という主人公を復活させたのではないでしょうか。

彼の人間に対する最後の求愛が、葉蔵に「続きの物語」を与えたのです。

そして、太宰治は最後まで、物語の中で大庭葉蔵を殺しませんでした。

「道化の華」でも「人間失格」でも、いくら破滅しても葉蔵は死にませんでした。太宰治はどうしても彼のことを救ってやりたかったのでしょう。

『人間失格』を映像で楽しむ

『人間失格』は約10年に1度のペースで必ず映像作品化等が為されます。いつの時代も人々が必要とする主題が描かれているからでしょう。

原作の物語に忠実な映像作品であれば、生田斗真主演の『人間失格』がおすすめです。

太宰治の女性関係に特化した映像作品であれば、小栗旬主演の『人間失格 太宰治と3人の女たち』がおすすめです。

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以上、『人間失格』のスピンオフであり、元ネタでもある『道化の華』の考察はこれで終了になります。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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