カミュ『幸福な死』あらすじ解説|「異邦人」読解の鍵となる作品

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幸福な死 フランス文学

カミュの『幸福な死』は、著者初の小説でありながら生前は未発表の作品です。

内容は『異邦人』の草稿であり、『異邦人』生誕の秘密を解き明かす作品と言われています。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者アルベール・カミュ(46歳没)
フランス
執筆時期1936年から1938年
発表時期1971年(死後に刊行)
ジャンル長編小説
ページ数235ページ
テーマ『異邦人』の秘密
幸福な死とは?

あらすじ

あらすじ

■自然な死
アルジェの貧困街で暮らす青年メルソーは、母親が死んで以来、孤独に貧しい生活を送っている。彼の唯一の遊戯は、マルトという女性と過ごす夜の時間だった。彼は公衆の面前でマルトがその美貌をひけらかすことに、ある種の優越感と喜びを覚え、同時に強烈な性的嫉妬に苦しんでいる。

メルソーはマルトを通じて、彼女の過去の恋人ザグルーと交際するようになる。ザグルーは脚を失った不具者の金持ちで、不幸の原因は貧困だと考えている。幸福には時間が必要で、その時間は金で買えると言うのだ。それを聞いたメルソーは、ザグルーを射殺し、金を奪って汽車に飛び乗った。

■意識された死
メルソーはプラハやウィーンを旅した末に、三人の女友達に会うためにアルジェに帰る。そして「世界をのぞむ家」での共同生活に至福を見出し後、彼は郊外に移住して何をするでもなく1人で暮らす。その孤独という名の自己放棄によって世界と一体化する感覚を覚え、そこにこそ幸福があるのだと気づく。

そうした幸福への意志の中で、彼はやがて病気を患い死を迎えるが、死それ自体も世界と一体化するという意味で幸福なのだった。

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個人的考察

個人的考察-(2)

『異邦人』解読の鍵となる作品

本作『幸福な死』は、カミュ初の小説の試みとして時間をかけて執筆されたが、生前は発表されることなく放棄された。

放棄された理由としては、物語に一貫性が欠けていたり、テーマが拡散していたり、章ごとのテンションが違ったり、要するにまとまりのない完成度だったからだろう。

その内容は事実上の処女作『異邦人』の原型であり、『異邦人』生誕の鍵となる資料的な作品として扱われている。

『幸福な死』と『異邦人』の類似性は様々な点で見られる。例えば、主人公の名前が「メルソー」と「ムルソー」で類似しているし、第1章で「殺人」を犯した主人公が、第2章でより想念的な内部の世界に入り込み、やがて死を経験する、という構成も共通している。

何より、死を目前に「幸福」を実感する点に重要な共通項が見られる。『異邦人』にてムルソーが死刑前に幸福を実感する理由を、『幸福な死』が補完する形になっているのだ。

私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。

『異邦人/カミュ』

『異邦人』では、殺人を犯したムルソーは、母の埋葬で涙を流さなかったせいで死刑になる。そんな不条理を前に彼は幸福を実感するのだ。

なぜムルソーは不条理な死を前に、幸福を実感できたのか?

それを解釈するには「幸福とは何か」を知る必要があるし、その答えは『幸福な死』を考察することで把握できるかも知れない。

そのため次章からは『幸福な死』の物語を詳しく考察していく。

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ザグルー殺害の理由(幸福と時間)

第1章の物語は、主人公メルソーが不具者のザグルーを銃殺する場面に始まり、続いて殺害までの経緯を回想する構成になっている。

ザグルーを殺害した動機は、彼の助言に従ったから、ということになるだろう。

メルソーはアルジェの貧困街で暮らす青年で、母の看病を理由に学校を辞めて働き出した。それでも母が生きている頃は、貧しさの中にも安らぎがあった。そして母が死んだ今、孤独の中の貧困は恐ろしく惨めであった。

メルソー自身、この惨めな生活から抜け出すことは可能だと考えている。ところが彼は貧困に執着することで、母と時間を共有した「かつての自分」と一体化を試みている。それは現在の自己を抹殺し、過去の自分に回帰したがる、仮死状態の生活とも言える。実際に彼は、個性をなくすことが関心ごとであり、そういった受動的な人生に幸福を見出そうとしている。それはやがて、第二章で語られる、何もしない孤独な時間に見出す、自然・世界と一体化する「自己放棄の幸福」へと発展する。

「何もしない孤独な幸福」には時間が必要だ。だがメルソーは1日8時間の労働に拘束され、そのせいで「何もしない孤独な時間」は奪われ、彼を疲弊させている。

こうしたメルソーの考えに対して、ザグルーは「幸福になるには時間が必要だ」と同意する。「時間を手に入れるには金が必要だが、人間は金を稼ぐことに時間を費やしてしまう」という矛盾を説くのだ。

これは単なる資産家の有閑な生活を説いたに過ぎないが、しかしメルソーにとっては「孤独に見出す幸福」と「時間の必要性」を一致させる契機になり、その実現には「金」が必要だと納得したのだ。

二人の思想は似て非になるものだが、幸福には金が必要、という点で一致していた。だからメルソーは、ザグルーを殺し金を奪って列車に乗り込んだ。幸福についてのザグルーの助言に従い、彼を殺したのだった。

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性的嫉妬の問題

物語の他方では、メルソーの性的嫉妬に関する問題が、それなりの比重で描かれる。

メルソーにはマルトという情婦がいて、彼女と過ごす時間が唯一の遊戯でもあった。メルソーが彼女のことを「アパランス(外見の女)」と呼ぶように、公衆の面前で彼女が自分の美貌を晒すことに、彼は優越感と甘美な喜びを感じている。そして同時に、彼女が他の男と関係を持つことに異常な嫉妬を感じている。

これは『異邦人』における、ムルソーの性格とは対照的である。ムルソーはマリーという女性に肉体的な関心以外は持たず、嫉妬心などは皆無で、マリーが不満を感じるほどだった。

それなのに『幸福な死』のメルソーは、マルトの過去の恋人を全員把握しなければ気が済まないほど嫉妬深い。

この相違については、性愛に臆病な男という点において根本的な共通が見られる。

だれか一人の女と互いの絆をつくる最初の動作をかわすそのたびに、愛と欲望はおなじやりかたで表現されるという不幸を意識して、相手を両腕に抱きしめるまえに、早くもその愛の破綻を想ってしまうのだった。

『幸福な死/カミュ』

メルソーは、性欲と愛情が共通することを極端に恐れている。肉体的な関心が相手への関心になれば、そこには嫉妬という情念が生まれ、彼を不幸にさせる。彼はその恐怖心から女性をアパランス(外見の女)としてのみ捉え、無関心に努めているのだろう。

ここにいたら、ぼくは、だれかに愛されてしまうかもしれない。カトリーヌ。そしてそうなったら、ぼくは幸福にはなれないだろう。

『幸福な死/カミュ』

メルソーは、幸福を最も高貴なものと考え、それを他者に期待すれば欺かれるから、自分にだけ期待すべきだと説く。

こうした厭世的な悟りは、やがて彼を「孤独な時間における自己追求」へ導くのだが、根本的には性愛に対して臆病な性格がネックになっているのだろう。だから性欲と愛情を切り離し、その成れの果てが『異邦人』におけるムルソーの無関心なのだと考えられる。

ちなみに『幸福な死』においては、マルトに対する性的嫉妬がザグルー殺害の契機となった。それが『異邦人』ではレイモンの性的スキャンダルに置き換えられ、アラブ人殺害へ繋がる。いずれにしても、カミュ文学の自己探求・幸福追求の背後には、性愛の問題が一つの鍵になっているのだろう。

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幸福な死とは

ザグルーを殺害して金を奪ったメルソーは、1日8時間の労働から解放され、「孤独な時間の幸福」へ足を踏み入れる。

ところがプラハで孤独を経験した彼は、1日の長さを実感し、無限に広がる時間の中で、孤独に消耗していく。

メルソーは再びアルジェに戻り、「世界をのぞむ家」で3人の娘と共同生活を始める。そこは四方八方が自然の風景に開かれた家で、3人の娘は自然に溶け込み、まるで自然の一部として現存している。そんな彼女たちを媒介にして、メルソーは自然(世界)と肉体が同一化する可能性を見出す。それを実現させるためには、改めて孤独が必要だった。

そこでメルソーはアルジェの郊外へ引っ越す。それは何もしない孤独な生活であり、そこで彼は時間の流れと意識の流れを一致させ、世界(自然)との一体化を試みる。まさに「何もしない孤独な時間の幸福」であった。

この世界(自然)との一体化は、肉体が土に還る死をも意味し、つまりこの時点で幸福への意志が、死と同一化していることが見てとれる。

人間は幸福と死を対極に捉え、幸福な生がやがて死に向かう矛盾に恐怖を抱き不幸を感じる。だがメルソーは、死それ自体が、生の源である自然に帰還することだと考え、それによって拮抗する生と死の矛盾を解消している。いわば、孤独な時間の中で自分と世界が一体化することに幸福を感じ、その延長線上に死が存在するということだ。

結局何が言いたいのかというと、メルソーは何もしない孤独な時間に、自分が自然に溶け込む感覚を覚える。それこそが幸福な生き方だと感じている。やがて病気を患い死が訪れるが、死すらも自然に溶け込む現象に過ぎず、だからこそ彼は死に対しても幸福を感じることができた、ということだろう。

それはまさに章題になる「意識された死」である。死を拒絶するのではなく、意識的に死を受け入れることで、メルソーは死の中に幸福を見出し、だから「幸福な死」を実現できたのだ。

これは単に生を放棄したわけではない。自然と一体化する生き方を望むことで、メルソーは自分の生を強く肯定している。そして死も自然と一体化する現象だとすれば、メルソーは死後も自分の生を永久に肯定できるのだ。

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『異邦人における幸福な死』

こうしたメルソーの幸福な死の概念を理解すれば、『異邦人』の結末も納得できる。

死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。

『異邦人/カミュ』

『異邦人』において、母の葬儀で涙を見せなかったムルソーは非情だと疑われる。しかしムルソーは、死が自然(生)に回帰すること、幸福なことだと考えているので、それを憐れみ泣く権利は誰にもないと感じていたのだろう。

そしてムルソーも死刑によって死を迎える時、自分が世界と同一化する幸福を感じる。

私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。

『異邦人/カミュ』

ムルソーは、世界と同一化する幸福な死を遂げることで、自分の生を強く肯定し、不条理な死を克服したのではないだろうか。

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映画『異邦人』がおすすめ

カミュの代表作『異邦人』は、1967年に巨匠ヴィスコンティ監督によって映画化された。

マストロヤンニと、アンナ・カリーナ共演の幻の名作と言われている。

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