夏目漱石の小説『彼岸過迄』は、大病による1年半の空白の末に発表された作品です。
『行人』『こころ』へと続く、後期3部作の1作目に位置します。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 夏目漱石(49歳没) |
発表時期 | 1912年(明治45年) |
ジャンル | 長編小説 |
ページ数 | 392ページ |
テーマ | 近代知識人の自意識 軍国主義に対する批判 |
あらすじ
探偵趣味がある敬太郎は、友人・須永の叔父(田口)の依頼で、駅で男女を偵察することになる。女の方はいつか須永の家に出入りしていた、彼の従妹の千代子だった。
この偵察を機に敬太郎は田口家と懇意になる。そして須永と千代子の間に何か特別な関係があるような疑惑が浮上する。それは恋愛関係に見えたが、しかし二人の間には複雑なしがらみがあった。
須永の母は、生後間もない千代子を将来息子に嫁がせるよう田口家に依頼していた。大人になった千代子の方も、須永に好意を抱いていた。ところが須永は母の意向、千代子の好意をはねつけてしまう。母の期待に応えたい気持ちはある。だが自意識の強い須永は、自分のような人間に千代子が嫁げば、彼女の期待を裏切り失望させるだけだと、怖気付いていたのだ。
自意識が強く内向的な須永は、母のエゴに応えたい気持ちと、千代子を遠ざけたい気持ちとの狭間で、精神的に疲弊していく・・・
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個人的考察
大病後に書かれた後期3部作の1作目
本作『彼岸過迄』は、後期3部作の1作目に位置する作品で、後に『行人』『こころ』と続く。
前作『門』の発表から、本作の発表までに1年半の空白があった。その理由は、序文に記される通り、大病を患っていたからだ。
『門』の執筆途中に胃潰瘍を患った漱石は、伊豆の修繕寺で転地療養を行った。だが800グラムの大吐血を起こし、一時は生死を彷徨った。これが俗に言う「修善寺の大患」である。
さらに翌年には、2歳の娘・ひな子が死亡している。この出来事は、『彼岸過迄』の4章「雨の降る日」の題材になったと考えられている。
自分は死の瀬戸際に足を踏み入れ、続いて娘の死を経験した漱石は、前期3部作から一点して、生死・自意識・エゴなど、より深刻なテーマを追求するようになった。
また孤独というテーマも顕著に表れ出す。それは当時の漱石が文壇から孤立していた事実が関係していると言われている。
自分は自然派の作家でもなければ象徴派の作家でもない。近頃しばしば耳にするネオ浪漫派の作家では猶更ない。
『彼岸過迄-序文-/夏目漱石』
元より漱石は文壇の中で異端扱いされ、あまり評価されていなかった。それはいわゆる、上記引用の通り、当時の文壇における潮流や派閥から外れた存在だったからだ。一方で漱石の弟子たちは文壇に属しており、それが原因で孤立感を強く覚えたと言われている。
だが漱石は孤立しようとも信念を貫いた。
自分は凡ての文壇に濫用される空疎な流行語を藉て自分の作物の商標としたくない。ただ自分らしいものが書きたいだけである。
『彼岸過迄-序文-/夏目漱石』
生死を彷徨う大病、娘の死、そして文壇での孤立を経て、漱石が自分らしさを追求して書き上げた作品が、本作『彼岸過迄』ということだ。
原点回帰の探偵小説
本作『彼岸過迄』は、複数の短編を合わせ、その個々の繋がりから1つの長編小説を形成する、連作短編である。
「停留所」「雨の降る日」「須永の話」といった風に、登場人物は同じだが、半ば独立した短編で構成されている。
また本作のメインは須永の恋愛問題であり、実際の主人公は須永と言える。しかし、あえて主人公を友人の敬太郎に設定し、彼が見聞きした出来事によって物語が進行する。元より敬太郎は探偵趣味で、彼が須永近辺の人間を客観的に偵察することで、少しずつ須永の恋愛問題の謎に到達する仕組みになっている。ある意味、本当の探偵小説の趣向とも言える。
こうした独特な構造で思い出すのは、デビュー作『吾輩は猫である』だろう。
猫の目線で主人の日常が描かれる連作短編は、本作の敬太郎と須永の関係性に類似している。そういう意味で、本作『彼岸過迄』は、後期1作目にして原点回帰した作品と言える。
また客観視点の人間観察を経て、最終的に主観的な独白(須永の告白)が為される構成は、その後に発表された『こころ』でも、先生の独白という形で採用される。
以上の執筆背景や構造の仕組みを踏まえた上で、物語の考察に入る。
松本家・須永家・田口家の関係
須永の恋愛問題を考察するには、彼の家系図を理解する必要がある。
政略結婚で結ばれた三家
須永には二人の叔父がいる。一人は松本家で、もう一人は田口家だ。
松本家は実業家で、先代は事業を成功させるために須永家とタッグを組んだ。それがつまり、松本家の娘(須永の母)を、須永家(須永の父)に嫁がせた所以だ。こうして須永家とタッグを組んだ松本家は、事業を成功させ莫大な利益を得た。
だが先代の死後、跡取りの松本恒三(須永の叔父)は事業に興味を示さなかった。無職の須永がこちらの叔父を慕っていたのは、自分と似た境遇だからだろう。しかしタッグを組んでいる須永家としては、跡取りの松本が事業に着手しないのは心配である。だからこそ、須永家(須永の父)は妻の妹(須永の母の妹)を、別の実業家である田口家に嫁がせたのだ。
こうして三家は事業の都合で結束していた。
だが須永の父が死んだ後、田口家はある選択に迫られた。一つは娘(千代子)を須永と結婚させて、三家の関係を維持する選択だ。しかし須永は大学を卒業しても就職するつもりはなかった。田口家からすれば無職の須永に千代子を嫁がせるよりも、事業の利益になる別の家に嫁がせた方が得である。だからこそ、鎌倉滞在中に、イギリス帰りの高木を千代子に近づけたのだろう。とはいえ、須永と結婚させた場合も、彼の後ろ盾には松本恒三(須永の叔父、松本家の正当相続人)がいるため、そこを切り捨てるのも惜しいわけだ。
こうした財界の都合によって、須永と千代子の将来は左右されていたのだ。
須永の母のエゴ
このように須永と千代子の将来は、事業上の都合で大きく左右される運命にあった。
しかし最も須永と千代子の結婚を願っていたのは、須永の母である。千代子が生まれた時点で、将来息子と結婚させるよう田口家にお願いしていた。ここには事業上の都合とは別の、須永の母の個人的なエゴが存在する。
須永と母には血の繋がりがない。須永の父と小間使いの間にできた子供を、母が本当の子供として育ててきたのだ。だからこそ、母は息子との血縁関係を望んだ。田口家に嫁いだ妹の子供・千代子と息子を結婚させれば、形式上は息子と血縁関係になれるのだ。
こうした母の深い愛、あるいはエゴによって、須永は苦しむ羽目になった。母の期待に応えなければいけないというプレッシャーである。だが須永は千代子と結婚することを拒んでいた。そこには恋愛感情以上の厄介なしがらみが絡んでいた。
須永が抱えるしがらみ
須永は軍人の子供で、裕福な家庭で育った。大学では法律を勉強したが、しかし彼は役人にも会社員にもなる気がなかった。そして無職であるゆえに、千代子が自分と結婚すれば、彼女を不幸にしてしまうという気後れがあった。
では、なぜ須永は就職に対して消極的なのか。そこには近代知識人の苦悩が隠されている。
物語の時代設定は、明治の終焉頃である。第一次世界大戦を目前に世界は混迷を深めていた。日本日露戦争による不況に見舞われ、暗澹の渦中に足を踏み入れ始めていた。敬太郎がそうであるように、大学を卒業してもなかなか就職先が見つからない不安定な時代だったのだ。
とは言え、須永の一族は裕福な実業家であるため、就職口の一つや二つ、簡単に斡旋してもらうことは可能だろう。それでも須永が無職であることを選んだのには理由がある。
須永は軍人の子供でありながら、軍人を嫌っていた。ここで言う軍人とは官僚クラスの身分だと考えられる。実業家の松本家が軍人官僚の須永家と手を組んだのは、軍需産業で大儲けしようという計画の元であろう。実際に日露戦争後の日本は中国や朝鮮半島の侵略を本格的に進めていた。この軍国主義の流れを契機に、実業家たちは軍需産業にビジネスチャンスを見出していたと考えられる。こうした背景から、須永が軍人を嫌っていた真意は、軍国主義や軍需産業に対する反感ではないだろうか。当時の社会動向に批判的な考えを持つ身としては、一族の戦争事業に加担したくなかったのだろう。だから彼は無職を貫いていたのかもしれない。
もし千代子と結婚すれば、それは一族の政略結婚というていになり、須永も一族の事業に加担する運命にある。だからこそ須永には、実際的な恋愛問題以上に、千代子との結婚を避けたい意志が働いたのかもしれない。
だが母は千代子との結婚を望んでおり、母思うゆえに期待に応えたい気持ちもあった。つまり、政略結婚から逃れたい思いと、母の期待に応えたい思いの狭間で、須永はどちらを決断することもできずにいたのだ。
仮に自然な成り行きで進めば、須永と千代子は恋に落ちていた可能性もある。だが事業上の都合や母のエゴに干渉され、その時点で二人の恋愛は破綻していたのだろう。
二人の運命はこの先どのように流転しいくか分からない、という文章で物語の幕は閉じる。
まさに二人の恋愛は、彼らの意思ではなく、周囲のエゴによって流転するしかないのだろう。
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2016年にNHKドラマ『夏目漱石の妻』が放送された。
頭脳明晰だが気難しい金之助と、社交的で明朗だがズボラな鏡子、まるで正反対な夫婦の生活がユニークに描かれる。(全四話)
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