葉山嘉樹『淫売婦』あらすじ解説|ヒロイックな精神の敗北

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淫売婦 散文のわだち

葉山嘉樹の小説『淫売婦』は、プロレタリア文学の代表作のひとつです。

教科書に掲載されたことがある『セメント樽の中の手紙』は有名ですが、その3年前に獄中で執筆され、彼が文壇で注目されるきっかけになったのがこの『淫売婦』という作品です。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者葉山嘉樹(51歳没)
発表時期  1923年(大正12年)  
ジャンル短編小説
プロレタリア文学
ページ数26ページ
テーマブルジョワ批判
ヒロイックな精神の敗北
収録『葉山嘉樹短篇集』

あらすじ

あらすじ

船員労働者である主人公が、酔っ払って横浜のメリケン波止場をふらついていると、突然男に声をかけられます。男は主人公の金を巻き上げて、その代償として「あるもの」を見物させてくれると言います。

男に連れられ南京町の倉庫のような建物に入ると、部屋の中は暗く、蒸し暑くて異臭が漂っています。腐った畳の上には、嘔吐物と血痕がこびりついた裸の女が死体のように寝転んでいました。男は「好きなようにして構わない」と言って席を外しました。ヒロイックな精神が働いた主人公は、淫売婦を救い出そうと、男たちに飛びかかり殴り倒します。そして彼女を連れ出そうとしますが、なんと彼女は「男たちは自分を養ってくれている」と主張するのでした。

主人公は再び真夜中に例の建物を尋ねます。するとあの男が現れて、自分たちが彼女を食い物にしているわけではなく、金持ちが彼女をあんな目に遭わせているのだと説明します。ブルジョワが生きるためにプロレタリアの生命が奪われているのです。ここにいる女や男たちは皆が病気を患っており、いつか何かの折があるかもしれない、という漠然とした空頼みだけで生きているのでした。主人公は淫売婦の代わりに殉教者を見て、涙を溢しました。

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個人的考察

個人的考察-(2)

葉山嘉樹の簡単なプロフィール

葉山嘉樹は、小林多喜二と並んでプロレタリア文学の旗手とされる作家です。初期プロレタリア文学の礎を築いた人物と言っても過言ではありません。

士族の生まれで比較的裕福な葉山嘉樹は、早稲田大学に進学しましたが、学費未納で中退になります。その後は貨物線やセメント工場など職を転々とします。労働組合立ち上げ失敗の経験など、労働運動に従事する傍ら、その実体験を題材に執筆活動を行います。

既存のプロレタリア文学が図式的・事実解説的であったのに対し、葉山嘉樹は人間の感情をのびのびと描きました。芸術的な完成度も高かったため、文壇の新進作家として評価されるようになります。

1923年には「名古屋共産党事件」を起こして投獄されています。獄中で『淫売婦』や『海にいくる人々』などの代表作を執筆し、数年後には傑作である「セメント樽の中の手紙」を発表します。

ところが思想統制が強まると、プロレタリア文学から転向し、翼賛体制への指示を強めます。植民地開拓にも積極的で満洲に移住しますが、敗戦後の帰国途中に脳溢血で死亡します。

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貧困な娼婦の実態

娼婦、遊郭という言葉を聞いて、ある面では煌びやかなイメージが想起されるのは、高級娼婦のサクセスストーリーや、実は純心というキャラクター性を強調したエンタメ作品が多いからかもしれません。

実際は最下層の人間が資本主義の歪みで体を売って、今日死ぬ命を明日まで延ばした、と言わんばかりの過酷な境遇を強いられていました。

芥川龍之介の後期の傑作『河童』では、次のような文章が綴られています。

あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になつてゐるではありませんか? 職工の肉を食ふことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ。」

『河童/芥川龍之介』

解雇になった職工が食肉にされる河童の国の残酷な仕組みを主人公が批判すると、人間の世界でも売春という同じような仕組みが存在することを揶揄していたのです。資本主義において職を失った者は自分の肉体を売る他なく、それは事実上の売春と違わないということでしょう。

資本家に都合のいい制度が作られ、貧しい人間、ひいては娘たちは自分の身体を売って生計を立てていたのが当時の実情でした。(今はどうであるかという愚問をここに記すのはやめにしようと思います。)

ブルジョワによってプロレタリアの肉が食われるという意味では、河童の共食いとなんら変わりませんね。

『淫売婦』においても、病気を患い労働力を失った女性が、なんとか社会生活に追いすがるために肉体を売っていました。華やかな高級娼婦のイメージを撤廃して、残酷で不潔で救いようのない側面に踏みこんだあたりが、プロレタリア文学の挑戦ですね。

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「六神丸」が表すものとは

作中に「六神丸」と呼ばれる中国の薬の名称が登場します。なんでもその薬には人間の生肝が使われているというのです。

宮沢賢治のマイナーな作品「山男の四月」でも同様に、山男が支那人に六神丸にされる夢を見るという物語が描かれています。

六神丸は万病にきく著効薬として、日本人も重用していたのですが、あまりに利き目があるので人間の肝で造っているという噂が流れていたようです。ひいては中国人が日本の子供を誘拐して造っているという噂にまで発展します。

これは日清戦争後の日本人が抱いていた、中国人に対する人種的偏見の象徴だと言われています。実際に中国では近代まで食肉文化が残っていたという記録もあるので、噂が広がるのも不思議ではなかったのかもしれません。

葉山嘉樹は、六神丸を引き合いに出して、「人間が生きるために人間の生肝を喰らう」という噂を、「ブルジョワが生きるためにプロレタリアを搾取する」という構造に隠喩的に当てはめていたのだと思われます。

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(文学的)ヒロイックな精神の敗北

葉山嘉樹の作品は思想啓蒙としての文学よりも、純粋な文学作品として優れているという解説を、以前『セメント樽の中の手紙』の考察記事に書きました。

『淫売婦』の場合は資本家批判の要素が強く、それもかなり過激で、売春婦の描写も生々しいので、受け付けない人も多いと思います。

その嫌悪感を差し置いてでも、文学的に評価したいのは、ヒロイックな精神が役に立たないという主題が描かれていることです。

正義感が芽生えた主人公が、売春婦を倉庫部屋から連れ出して男たちから救おうします。しかし「男たちは自分を養ってくれている」という彼女の言葉に主人公は困惑します。淫売の本質的な原因が資本家による搾取であることに気付かされたのです。途端に主人公の正義感は無価値なものへと変わり果てます。

他人を救い出そうとするヒロイックな精神が、時には救いにならず、むしろ致命的な痛手になり得る人の世の煩わしさが表現されています。事実、主人公は女性を救い出そうとする傍らで、次のような葛藤に悩まされていました。

自分の力で捧げ切れない重い物を持ち上げて、再び落した時はそれが愈々(いよいよ)壊れることになるのではないか。

『淫売婦/葉山嘉樹』

道徳や正義感を味方につけて他人を救う行為が、結果的にその人を破滅に追い込む可能性が示唆されています。

あるいは、主人公は自身を「英雄的な、人道的な、一人の禁欲的な青年」と言っているものの、どこか売春婦の裸体に欲情しかねない気持ちも抱えていました。されど、自分は他の男とは違うのだという意思によって正義感を保とうとします。

ヒロイックな精神には性欲の葛藤が付き纏います。さりとてヒロイックな精神で救える命など本当はないのかもしれません。

資本家に異議を申し立てるのがプロレタリア文学の特色であれば、葉山嘉樹の作品には、簡単に答えを導き出せない「あまりに文学的な」精神の葛藤が含まれているのです。

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