太宰治の小説『きりぎりす』は、作品集の表題作にもなる中期の短編作品です。
『女生徒』『ヴィヨンの妻』『斜陽』と並ぶ、太宰が得意な女性一人称の傑作です。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 太宰治(38歳没) |
発表時期 | 1940年(昭和15年) |
ジャンル | 短編小説 |
ページ数 | 16ページ |
テーマ | 成功した芸術家の末路 名声・権力・強欲・孤独 |
収録 | 作品集『きりぎりす』 |
あらすじ
「おわかれ致します。」
画家の夫を持つ妻が、離婚を決意した告白文が綴られる。
親の反対を押し切って、売れない画家だった夫と結婚した。生活は貧しかったが、それでも俗世間に汚されず、自分の描きたい絵を描く夫との生活は幸福だった。
だが夫は画家として成功し、別人のように変わってしまう。
かつての貧しい暮らしを軽蔑し、お金に執着し、他者を侮辱し、体裁ばかりを気にする。人の世では、夫のような生き方が正しいのかもしれない。だがそんな醜さはどうしても受け入れられない。
その夜、布団で眠っていると、縁側の下からコウロギの鳴声が聞こえた。まるで自分の背骨の中で「きりぎりす」が鳴いているように感じられ、彼女はこの幽かな声を、一生忘れずに生きていこうと決心した。
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個人的考察
太宰の自虐的な物語?
太宰治の作品に破滅的なイメージを持つ人は多いだろう。
確かに精神病院にいた初期や、自殺を目前にした後期は、そのイメージ通りの作品が多い。
一方で中期の太宰は、比較的に精神が安定している。そのため、初期・後期のような破滅的な散文よりかは、芸術性を模索した作品、ユーモア溢れる作品、場合によっては非常に前向きな作品も存在する。
そして本作『きりぎりす』は、まさに中期に位置する作品なのだ。
太宰の精神が安定した理由のひとつに、収入面の好転が考えられる。それまでの太宰は、薬物の購入で借金を重ねる、根っからの精神・生活破綻者だった。ところが本作『きりぎりす』を発表した頃から、徐々に職業作家として収入を得られるようになった。
しかし職業作家として成功すると同時に、太宰の中には自戒の念も芽生えていた。自分が原稿料に取り憑かれた俗物作家になりかねない、という強迫観念である。そこで太宰は、成功によって低俗な画家に成り下がる芸術家の末路を、妻の目線から自虐的に描いたのだ。
つまり、本作『きりぎりす』は、自分の将来を自虐的に描いた作品であり、そうならないための自戒を表した作品と言えるだろう。
以上の背景を踏まえた上で物語を考察する。
夫はなぜ変わってしまったのか?
画家として成功した夫は、別人のように変わってしまった。
それまでは、貧乏や身形や世間体を気にせず、ひたすら描きたい絵を描き続けていた。ところが成功した途端に金や世間体に執着するようになった。
妻の言う通り、典型的な成金の末路と考えることもできる。しかし夫は夫で激しい葛藤に苦しんでいたのではないだろうか。
その証拠に、彼が最も気にかけたのは、世間にどう思われるか、という問題だった。貧しい家に住んでいては画家としての値打ちが下がるかも知れない。周りの芸術仲間に舐められるかも知れない。殊更に芸術仲間を侮辱したのは、そういった恐怖心からだろう。
かつての貧しい時代は失うものなどなかった。ところが一度名声を手に入れれば、それを失う恐怖が永久に着いて回る。
だから彼は虚勢を張り、受け売りの芸術論を耽美に語り、自分を陥れる可能性のある芸術仲間を非難せずにはいられなかったのだろう。
太宰自身、自らの作品を他者に非難されることに敏感だった。実際に芥川賞の選考会で川端康成に作品を侮辱され、その怒りから恐ろしい脅迫文をしたためている。自分という人間が周囲にどう思われるか、そのことに人一倍敏感だった太宰だからこそ、この物語の夫はひたすら虚勢を張り、自分を守ろう守ろうと必死になっていたのではないだろうか。
ともすれば、夫は虚勢を張ると同時に、そんな自分の醜さは自覚しており、その矛盾に苦しんでいたと考えられる。そしてその苦しみを妻には打ち明けられず、妻の目には高慢で醜い夫としか写っていなかったのではないだろうか。
夢追人を愛する妻のエゴ
成功した芸術家の醜い末路・・・
一方で本作は、妻の過剰な独占欲を描いた物語と捉えることもできる。
元より妻は、自分だけが夫の理解者、夫は自分だけを必要としている、という勘違いの自尊心が強かった。その証拠に、「自分じゃないとお嫁に行けないような人と結婚したい」という願望から夫と結婚した。
それはつまり、世間から相手にされない芸術家と一緒になることで、自分だけが夫の才能を理解し、自分だけが夫に必要とされている、と実感したかったのだろう。そんな風に自尊心や独占欲を満たしていたのだ。
実際に夫の作品を初めて見た時、「この絵は私でなくては分からない」と自負していた。
ところが夫の才能が世間に認められると、理解者は自分一人ではなくなった。きっと彼女は耐えられない嫉妬を感じていたのだろう。だから彼女は夫の初めての個展に足を運ばなかった。大勢の人間が夫の絵を褒めそやす様など、とてもじゃないが見ていられなかったのだ。
こんなことは現代でもありふれている。
アマチュア同然のアイドルやバンドを応援していたファン、パトロンとして支えていたファンは、往々にして売れた途端に離れていく。「あの人は変わった」という文句を残して。
だが人間は変化するものである。その変化を受け入れられず、あの頃の彼は純粋だった、あの頃の彼はもっと優れた作品を生み出していた。そんなものは独占欲から来る嫉妬心、単なるエゴに過ぎないのだ。
夫が自分の手中に収まらなくなり、その激しい憎悪から、徹底的に夫を悪者にし、自分を正当化する。少なからず妻の中には、そのような醜い感情があったのではないだろうか。
「きりぎりす」は何を意味するのか
最後の場面で、縁側の下から「こおろぎ」の声が聞こえる。布団の中にいる妻は、自分の背骨で「きりぎりす」が鳴いているように感じる。
タイトルにもなる、この「きりぎりす」の鳴き声は、一体何を暗示しているのか?
昔から和歌などで「きりぎりす」の鳴き声は、孤独感を表す言葉として用いられてきた。その名残で近代文学においても、詫びしい雰囲気の演出に使われることがある。
ともすれば、きりぎりすの声を感じた妻は、夫との別れを強く決心したものの、少なからず喪失感や寂寞の思いを抱いていたと考えられる。
しかし妻は感傷的になるばかりではない。この幽かな鳴き声を背骨にしまって生きていく、という強い信念を感じさせる。
「きりぎりす」の鳴き声が持つ孤独感は、離別の悲しみだけではなく、世間に相手にされずとも好きな絵を描いていた、かつての夫の孤高な生き方を想起させる。いくら孤独であろうとも必死に生きる美しさだ。それを背骨(=信念)にしまうということは、醜く変わり果てた夫とは違い、自分だけは慎ましく正直に生きていく決心を意味するのだろう。
そしてそれは、職業作家として前身する、太宰本人の信念だったとも考えられる。
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映画『人間失格』がおすすめ
『人間失格 太宰治と3人の女たち』は2019年に劇場公開され話題になった。
太宰が「人間失格」を完成させ、愛人の富栄と心中するまでの、怒涛の人生が描かれる。
監督は蜷川実花で、二階堂ふみ・沢尻エリカの大胆な濡れ場が魅力的である。
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