太宰治の『きりぎりす』あらすじ考察 成功は人を醜くする

きりぎりす 散文のわだち
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太宰治の小説『きりぎりす』をご存知ですか?

1940年に発表された短編小説で、作品集『きりぎりす』に収録されています。太宰治のキャリアでは、比較的に精神が安定していた中期の作品になります。

物語は、太宰治が得意とする「女性一人称」で進行します。後期の傑作である「ヴィヨンの妻」や「斜陽」で発揮した彼の”強い”女性性が本作にも描かれています。

芸術家の妻である主人公が、成功によって変わりゆく夫の醜さをひたすら露呈する、太宰治にとって一種の自己批判のようなテーマが含まれています。

主人公の目線でしか描かれない、芸術家の夫の人間性を紐解きながら、妻の立場、夫の立場、という2つの側面から物語を考察していこうと思います。

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『きりぎりす』の作品概要

作者太宰治
発表時期1940年(昭和15年)
ジャンル短編小説
テーマ成功した芸術家の末路、
名声、権力、強欲、孤独

『きりぎりす』の300文字あらすじ

「私」は画家の夫との別れを決意します。原因は生き方に対するモラルの相違です。

親の反対を押し切って、しがない画家と結婚した「私」は、貧しさの中にも幸福を感じていました。何より、貧しくても俗世間に汚されず、自分勝手に絵を描く夫を愛していました。

しかし、画家として成功を収めた途端、夫の性格は180度変わってしまいます。おべんちゃらを口にするようになり、お金に執着し、陰口を叩くようになり、それでいて人前では謙虚を演じるのです。

人の世では、夫のような生き方が正しくて、順応できない自分が間違っていることは漠然と理解しています。しかし、自分のどの部分が間違っているのかは、「私」には毛頭判らないのでした。

『きりぎりす』のあらすじを詳しく

①画家である夫との出会い

おわかれ致します。

物語は妻である「私」が、別れを決意する場面から始まります。

自分にも悪いところがあるのかもしれないし、世間的には夫のような生き方が正しいのかもしれませんが、自分には夫のように醜くは生きれないと、主人公は夫とのモラルの相違を露呈します。

一体何があったのでしょうか?

当初、結婚に対して主人公の両親は反対していました。何せ、しがない貧乏な芸術家が相手だったからです。

主人公が芸術家の夫と結婚するに至ったきっかけは、骨董屋の「但馬」という男に紹介されたことでした。当初は関心がなかった主人公ですが、画家の作品を観ていたく感動します。「この絵は自分にしか分からない」という気持ちが起こり、無鉄砲に画家との結婚を決心します。熱意が冷めぬまま、両親の反対を押切り、身一つでしがない画家のアパートに嫁入りしたのです。

貧しい生活ではありましたが、主人公にとってアパートで暮らした2年間は幸福な日々でした。世間に嘲笑されても、自分の思う絵を描き続ける夫であるなら、いくら貧しくても一生仕える決心が彼女にはありました。俗世間に汚されない夫といるのが一番の幸福だったのです。

しかし、やがて夫は画家として偉くなり、性格が変わってしまいます。

②画家として成功する夫

日毎に夫が画家として有名になる様子を、当初は主人公も喜んでいました。しかし、成功によって夫の人間性は少しずつ変わっていきます。

身なりなど気にしない人だったのに、急にお洒落になりました。また、翌朝まで帰って来ないこともありましたが、翌日になって、後めたいことがないと証明するために妙にお喋りになる様子も惨めでした。あるいは、「こんなアパートに住んでいたら人が馬鹿にする」と言って、幸福な日々が染み付いたアパートを引越しすることになった時は、主人公は寂しくて堪りませんでした。

とかく、夫はそこら辺にいる無様な成金と大して変わらない人間になってしまったのです。

夫は俗な交際ができるタイプではなかったのですが、年賀状を300枚刷ったり、客を招いて陽気な笑い声をあげたりします。以前の無口な夫からは想像もできません。客から聞いた芸術論を、そのまま自分の意見のように別の場所で口にするなど、下品で恥ずかしいことさえするようになります。

主人公は、いつか夫に悪いことが起こるのではないかと不安で仕方ありません。しかし、彼女の心配とは裏腹に、夫は世間から最大級の賛辞を頂くような成功を収めるのでした。




③金に汚く、悪口ばかり言う夫

世間は夫を清貧だと称賛します。しかし、実際は金に汚く、口も悪くなっています。

客に絵を頼まれれば、お金の交渉をいち早く持ちかけるようになりました。通帳が仕舞ってある書棚の鍵を主人公がかけ忘れていると、それは不機嫌になります。

奥さんが病気になった友人が、お金を借りに訪ねて来た際には、自分も貧乏だと言ってお金を貸すのを渋ったりもしました。今の夫は、清貧でも孤高でもなく、憂愁の美しい影など持ち合わせていません。

夫は、立派な家具や、高級料理や、植木屋を呼ぶなどで浪費するのは厭わないくせに、友人へお金を貸すのは散々渋流のでした。主人公はそのような、ケチでわがままで楽天家な夫が恥ずかしくて堪りません。

取り巻きの人間のおべんちゃらだけで生きる夫は、無闇矢鱈に人の悪口を言うようになりました。悪口を言って、その場の客に賛成を得て気持ち良くなっているだけです。

ある友人といる時は別の友人の悪口を言って、別の友人といる時はある友人の悪口を言います。目の前の友人にはとても優しく、陰では非難するのでした。

夫の絵の熱心な支持者である有名な先生のお宅に訪れた際には、ペコペコしてインチキばかり並べます。しかし、一歩家を出れば陰口が止まりません。夫はほとんど卑劣なのです。

それでも世間が夫を清貧だの、孤高だの、憂愁だの称賛するのは、表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける、醜い手段の賜物なのでした。

④「私」には分からない

今では主人公は、夫に悪いことが起こればいいと思っています。夫のためにも、神の実証のためにも、悪いことが起こるべきなのです。

夫はかつての恩を忘れて、「但馬」さんのことを馬鹿呼ばわりして客の笑いを誘ったりもします。すると「但馬」さんも、自分で自分を馬鹿だと言って戯ける始末です。彼らには人間の誇りがまるでありません。

先日もラジオを聞いていたら、夫の声が聞こえてきました。不潔に濁った声でした。

私の、こんにち在るは・・・」と話し始めたところで、主人公はラジオを切りました。その恐ろしく無智な言葉に、早くつまずけばいいのだと嫌気が差してしまいます。

要するに、メディアという公の場所では、「今の私があるのは、先生のおかげ、妻のおかげ」など、白々しいセリフを口にする夫の二面性にうんざりしているのでしょう。

その夜、電気を決して仰向けで眠っていると、縁側の下でこうろぎが鳴いている声が聞こえてきました。主人公にはそれが、自分の背骨の中で「きりぎりす」が鳴いているように感じられました。彼女はこの小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きていこうと決心しました。

この世では、夫のような生き方が正しくて、自分のような考えは間違っているのでしょう。しかし、自分のどこが間違っているのか、彼女にはどうしても判らないのでした。

そして、物語は幕を閉じます。




『きりぎりす』の個人的考察

「きりぎりす」は何を指すのか?

成功した夫の醜い変わりように、別れを決意した主人公でした。

最後の場面では、仰向けで眠る主人公の背中の方から、こおろぎの鳴き声が聞こえてきます。それをあえて「きりぎりす」の鳴き声に例えて、内省的な心情を綴ります。

しかし、あまりにも抽象的過ぎる故に、何を表現しているのか理解できなかった方も多いのではないでしょうか?

事前知識として、昔から短歌などでは、きりぎりす」の鳴き声は、孤独感や寂しさを表現する場合に用いられてきました。芥川龍之介の小説においても、きりぎりす」の鳴き声は詫びしい雰囲気を際立たせる効果として使われています。

要するに、主人公があえて「きりぎりす」の鳴き声を用いたのは、夫の醜さに耐えかねた自分の孤独感や侘しさを表現するためだったのでしょう。ひいては、実際のきりぎりすではなく、こおろぎの鳴き声をきりぎりすに見立てたという演出も、さらなる報われなさ、儚さを演出しているように思われます。

「きりぎりす」に込められた決意とは?

きりぎりす」の鳴き声が孤独感や侘しさを象徴しているなら、主人公にとってはあまりよくない心情だったのでしょうか?

おそらく、本作では「きりぎりす」の鳴き声が表す孤独感や侘しさは、良い意味で用いられています。

「・・・なんだか私の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。」

『きりぎりす/太宰治』

このように、主人公は「きりぎりす」の鳴き声を一生忘れずに生きていこうと決心しています。つまり、孤独感や侘しさに特別な感情を抱いていることになります。

なぜ、主人公は孤独感や侘しさに強い愛着を持っているのでしょうか?

そもそも主人公は、俗世間に汚されず、自分の描きたい絵だけを描く夫の性格に強く惹かれていました。その性格を「美しい人」とさえ表現しています。

また、次のようにも綴られています。

「いいお仕事をなさって、そうして、誰にも知られず、貧乏で、つつましく暮して行く事ほど、楽しいものはありません。私は、お金も何も欲しくありません。心の中で、遠い大きいプライドを持って、こっそり生きていたいと思います。」

『きりぎりす/太宰治』

俗世間に媚びることなく、自分の美学だけを追求する人間には、貧しく孤独な運命が待っています。それでも、プライドを捨てずに慎ましく生きることが、主人公にとっての人生モラルだったのでしょう。

そして、「誰にも知られず、貧乏で、つつましく暮して行く」人生の美学を、「きりぎりす」の詫びしい鳴き声に例えたのだと思います。誰にも知られずひっそりと生きながらも、夜の縁側の下で確かに声を訴えているような、密かな美しさです。

きりぎりす」の鳴き声のような、美しいプライドを捨てた夫を寂しく思うと同時に、自分は自分の美学を捨てずに生きることを、主人公は強く誓ったのだと思います。

夢追人を好きになる女性の独占欲?

一見本作は、成功者がプライドを捨て、醜い人間になっていく様子を描いているように思われます。まさしく、世間と自己の葛藤の中で、芸術家が魂を捨てる様子が生々しく描かれていました。

しかし、もう一歩深読みするなら、妻の過剰な独占欲が冷笑的に描かれているようにも感じられます。

主人公は結婚におけるポリシーとして、「自分じゃないとお嫁に行けないような人と結婚したい」と綴っていました。つまり、世間から馬鹿にされている、誰にも相手にされない貧しい芸術家と結婚することが、主人公にとっての存在意義、自己肯定感だったのです。ある意味、夫を自分だけのものにしたい、ひいては自分だけを必要として欲しい、という所有欲の表れです。

事実、夫の作品を初めて見た時の感動を、「この絵は私でなくては分からない」と述べています。自分だけが夫の絵の良さを理解していると、強い独占欲がここに表れています。

夫が有名になり始めた頃の個展に主人公は足を運びませんでした。夫の絵を大勢の人が眺める様子を想像すると泣きそうになるからだそうです。それはもちろん嬉し涙であるのですが、良いことが起こりすぎては、後の不幸が怖いため、これ以上の幸福はいらないという本音も綴られています。

一見、謙虚な気持ちのように思われますが、やはりここにも独占欲が垣間見れます。自分だけが夫の絵の素晴らしさを理解していたのに、大勢の人が夫の絵を称賛するようになりました。少なからず、有名になった夫をもてはやす大勢の人間に嫉妬しているように思われます

もちろん有名になった夫の変化は、醜いものでした。

しかし、いずれの分野においても、成功した故に「かつての自分らしさのイメージ」と「今の自分のやりたいこと」にズレが生じるのは当然だと思います。

身近な例だと、インディーズの頃から応援していたバンドが、メジャーデビューした途端に離れていくチャチなファンが大勢います。挙句「あのバンドは売れ線になった」と非難まで付け加える始末です。

表現者は常に世間の杜撰な要求に悩まされるのでしょう。ともすれば、本作の主人公が勝手に抱く、かつての自分のやりたいことだけを貫いていた夫とは、ただのエゴに過ぎないのです。もし、今の夫がかつてやりたいと思っていたことを今はやりたいと思っていなかったとしても、妻は彼の内側にかつての姿だけを見出し続けるのだから自分勝手です。

要するに主人公は、かつて自分だけが独占していた夫が、自分のイメージから離れていくことに悲しさを感じて、このように批判的な独白を綴ったのかもしれません。

あくまで本作は、妻である「私」の目線でしか語られていないため、真相は定かではありません。成功者の天狗を描いたのか、売れた途端離れていくファンの利己的な独占欲を描いたのか、解釈は読者次第です。だからこそ小説は面白いのです。

このような反対の立場での考察も踏まえて再読すれば、本作の物語の深みがぐっと増すかもしれませんね。

以上、太宰治の短編小説『きりぎりす』のあらすじと考察の説明を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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