中村文則の小説『悪意の手記』は、芥川賞受賞後1発目に発表された作品です。
作者自身が、「マニアックな作品」と言及するように、他作品よりも文学的テーマの追求が著しく、やや難解とも言えるでしょう。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 中村文則 |
発表時期 | 2005年(平成17年) |
ジャンル | 長編小説 |
ページ数 | 190ページ |
テーマ | 殺人の是非 犯罪者に再生は許されるか |
あらすじ
不治の病に侵された主人公は、死の恐怖から逃避する過程で、世界を無価値と否定し、周囲に激しい憎悪を抱くようになります。
奇跡的に一命を取り留め、元の生活に戻った主人公は、病床で否定した「生活」に、再度魅力を感じることはできず、自殺を決意します。そして、自殺場所に向かう道中に鉢合わせた親友Kを発作的に殺してしまいます。Kは自殺と断定され、主人公が裁かれることはありませんでした。
罪の意識に苦悩しない、人間の屑になることを決意した主人公は、大学に進学すると、友人に勧められ悪事に手を染めます。その仕事の中で、祥子という女性と出逢いますが、人殺しには彼女との幸福を望むことは許されないという念慮に捉われます。堂々と生きるも卑怯、されど自殺するのも卑怯。主人公は優柔不断に、生き永らえることになります。
大学を中退した主人公は、過去に娘を殺された女店主が営む喫茶店でアルバイトを始めます。少年法が適用され出所予定の犯人に、彼女は復讐を企んでいました。主人公は自分が代わりに殺すことを約束します。ところが別の被害者の母親が、先に彼を殺してしまうのでした。
一連の出来事を経験した主人公は気持ちを抑えられず、母親にKを殺したと自白します。そして拘置所にて不治の病が再発します。集中治療室に入る前に、主人公はこの「悪意の手記」をしたためているのでした。
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個人的考察
「人殺しの是非」を問う文学
人殺しの是非を問う文学といえば、ドフトエフスキーの『罪と罰』が有名です。
天才は社会的道徳を踏み外しても構わない、世の中の発展と成長のために犠牲はやむを得ない、故に天才の殺人は許される。
中村文則氏はドフトエフスキーに影響を受けているため、『悪意の手記』を執筆するにあたって『罪と罰』が念頭にあったことが推測されます。いわば19世紀の問題提起を、氏なりに追求した作品と言えるでしょう。
「人殺しの是非」というテーマに向き合うにあたり、作者が注目したのは少年犯罪です。巻末の解説にも記される通り、執筆当時は猟奇的な少年犯罪が多発していました。
少年はなぜ殺人を犯すのか。少年法が適応された彼らは出所後の社会でどう生きるのか。あるいは罪の意識さえ感じない絶対的な悪に人間はなれるのか。そういった問題提起が作中で描かれています。
作者は大学卒業後の2年間フリーターで執筆活動に励んでいました。その傍らで、社会的興味であった少年犯罪にまつわる職業、法務教官の試験に合格しています。(合格通知が、新人賞の受賞と重なったため、小説家を選んだ)
そういった意味で『悪意の手記』は、影響を受けた文学と、社会的興味が最も色濃い、あまりに作者らしい小説かもしれません。
作者は本作を「自分の中でマニアックな作品」と称していますが、マニアックなだけ、本作を通して中村文則像がより浮かび上がります。代表作を読み飽きた頃におすすめの作品かもしれません。
なぜ人を殺してはいけないのか
『罪と罰』も『悪意の手記』も、主人公が罪の意識を否定しようと努め、その過程で恐ろしい苦しみを舐める点では共通しています。彼らは完璧なサイコパスにではなかったのです。
しかし、この二作品を比較して決定的に異なるのは、「神」の存在です。ドフトエフスキーの小説はキリスト教が大きなウェイトを占めています。一方で『悪意の手記』では、神を否定するところから物語が始まります。
「天国に行かせるんですか? そこで帳尻を合わせるんですか? 日本人の僕には、全然分かりませんよ。・・・死の恐怖を味わっている子供を取りあえず見捨てるような奴に、神の資格なんてあるんですか?(中略)不良品に責任をもつのは、それを作った会社にあるべきでしょう? 神の責任ですよ。違うんですか? そんなインチキな奴のことなんて、信じられるわけがない。」
『悪意の手記/中村文則』
不治の病に苦しむ主人公に、アメリカ人医師が信仰をちらつかせた時に、主人公がむきになって口にする台詞です。
キリスト教圏内では、明確な倫理基準が存在します。なぜ人を殺してはいけないのか。それは宗教的な倫理基準に反するからです。
宗教的な倫理基準を持たない日本人に同様の問いをした場合、答えに窮するでしょう。せいぜい、自分が殺されないため、という月並みな思案が関の山です。
では、我々日本人の倫理観を制する、「神」に変わる絶対的な存在とは何なのか。
それは、大衆です。世間です。
戦争映画が流れるラブホテルで、主人公はこんな台詞を口にします。
人殺しってのは、時と場合によって悩む必要のなくなるような、その程度のことなんだよ。問題なのは、多くの人間から非難されるのが嫌かどうかということなんだ、違うか?
『悪意の手記/中村文則』
大義名分があれば殺人は容認される。ともすれば、殺人の是非などは、人間の価値基準に左右される曖昧なものです。だからこそ、西洋人は人間を超越する「神」に問題を押し付けた。
神を知らぬ我々日本人は、世間に断罪される恐怖によってのみ制御されている、というのが残酷なくらい的を得た解答かもしれません。
主人公は無意識にKを殺した!?
Kを殺すという考えが浮かんだ主人公は、心臓に鈍い痛みを感じる一方で、心地良さや充足さえ感じていました。
川に突き落としたKを眺める間に、主人公は唐突に我に返ります。そしてKを助けなければいけないという考えが過ぎりますが、その感情を必死で押し殺します。親友が死んでいく非情な映像に耐えることで、世界が無価値なものだと否定できるような気がしたのです。
非情な映像に耐える行為は別として、そもそもなぜ主人公はKを殺す発作に見舞われたのか。Kを殺す必要性とは何だったのか。
終盤に主人公が回想する中で、まず浮かんだ殺人の動機は、「自分が助かるため」でした。
幻覚の中で主人公は、「君は、K君を殺していなかったら、あの時に死んでいたんだ」と責められます。事実、自殺を決意した主人公は、Kを殺した後に、首吊りに失敗し、結果的に生き延びました。
意識は無意識の奴隷と言うように、主人公は潜在的に死に逆らい、自分の現状を変えるために、自殺をやめるきっかけとして、無意識にKを殺したのかもしれないのです。
では自殺をほのめかしたいた主人公が、無意識に生に執着していたのはなぜか。
かつて不治の病という圧倒的な暴力を世界から受けた主人公は、「何も感じたくない」という虚無を呼び寄せました。その虚無は、やがて「善悪の間で悶える苦しみさえ感じたくない」という思いに発展します。人を殺して悪に徹することで、善悪を超越した次元まで堕ち、安心しようとしたのです。
主人公は、無価値な世界の中で、堕ちた先に居場所を見出そうとしていたのではないでしょうか。生きる意味も居場所も見出せない。ならば罪を犯せば現状が破壊され、人生に変化が訪れる。その変化の先には、警察や少年法といった最終的な受け皿がある。本当に絶望しているなら自殺すればいいが、僅かでも世界に求愛するが故に、殺人によって生に執着した。
あくまで主人公は意識上ではそんなことを考えていませんでした。しかし、本作のキーワードは「無意識」です。無意識のうちに主人公は自らの生を保証するためにKを殺したのかもしれません。睡眠薬自殺をした時も、主人公は無意識に玄関の鍵を開けっぱなしにしていました。無意識に助かろうとしたのです。
作中では、全く反省の色を見せない犯罪者は、精神を守るために「無意識」が機能して、自分の過ちを深く考えないようになっている、という見解が記されます。
友人にこの推測を伝えられた後、主人公は一晩中ベンチに座り続けます。おそらく主人公は、自分が生きるために無意識にKを殺し、その事実と向き合いたくない故に、悪意に徹し、深く考えない領域を目指していたことに気づいたのだと思います。
殺人者が償うべき罰とは
Kを殺した自分を、最後まで抱えていくということ。今の私にできることは、しかし、それだけしかない。
『悪意の手記/中村文則』
殺人者の自分はどうすればいいのか、を考え続けた主人公が最後に出した答えは、「どうすればいいのかという選択肢は存在しない」でした。それは、殺人を犯した事実を抱え続ける、ということの裏返しでしょう。
自殺をするのも卑怯、開き直って生きるのも卑怯。ただ事実を背負って生きることだけが、とりあえず成せる行為なのでしょう。(行為というよりも結果かもしれません)
これは決して犯罪者を擁護する主張ではないし、完璧な解答というわけでもありません。ただ、中村文則氏は、その人間と命は別物、という考えを持っています。
詳しくは氏の『何もかも憂鬱な夜に』という作品をチェックしてください。犯罪行為の一才はその人間の責任であるが、命にその責任をない、という思想のもと、氏は死刑の休止(廃止ではない)を主張しています。
「無意識」というキーワードからも、まるで命が独立して生を求めるようなニュアンスが感じられます。
ならば、犯罪者は事実を抱えて生きるしかないのかもしれません。だからといって主人公の行為は絶対的に許されるものではないし、肉親感情からすれば堪ったものではありません。
ただ一つだけ言えるのは(作者の主張だが)、殺人という行為に釣り合いをとれる解決策は存在しないし、たとえ復讐を行ってもその欠陥を埋めることはできないということです。
答えが存在しない問題である故に、読了後、腑に落ちない感覚を持つ人も多いと思います。
されどこの問題提起を前に、自分の価値観が僅かにでも崩れたのなら、読んだ甲斐があったと思います。それこそが文学の役割だからです。
ラストの注釈の意味
手記2からの名前は、アルファベットの混乱を避けるために、主に仮名を用いた。だが少し変えただけであるから、読む人が読めばわかるかもしれない。
『悪意の手記/中村文則』
これは決して、手記1と手記2の間に、何かトリックが仕掛けられているのではないです。
手記1では、登場人物がアルファベットで記されていましたが、手記2からは「武彦」や「祥子」といった名前を用いたのは、読み手の混乱を避けるためだ、と説明しているだけです。
おそらく違和感を持ったのは「だが少し変えただけであるから、読む人が読めばわかるかもしれない。」という文章のせいでしょう。
これは「メタフィクション」という、読者の居る現実世界と、物語の世界の境界を曖昧にする技法です。読者に語りかけるような表現を使うことで、あたかも小説の内容が現実世界で起きた出来事だと錯覚させる効果があります。
メタフィクションを駆使したサスペンス小説が『去年の冬、きみと別れ』です。岩田剛典と斎藤工主演で映画化され話題にもなりました。ぜひチェックしてみてください。
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映画『去年の冬、きみと別れ』
中村文則の代表作『去年の冬、きみと別れ』は2018年に映画化され、岩田剛典、山本美月、斎藤工ら、豪華俳優陣がキャストを務め話題になった。
小説ならではの予測不能なミステリーを、見事に映像で表現し、高く評価された。
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