山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』あらすじ考察 自分が楽しければ相手も楽しいという愛の自惚れ

人のセックスを笑うな 散文のわだち
スポンサーリンク

山崎ナオコーラの小説『人のセックスを笑うな』をご存知ですか?

2004年に発表された中編小説で、作者にとって処女作かつ大ヒット作になります。2008年には、松山ケンイチと永作博美の主演で映画化され話題になりました。

新人作家の登竜門である文藝賞の選考では、「思わず嫉妬したくなる程の才能」と絶賛され、華々しい受賞を飾りました。その後、芥川賞候補作にも選ばれるなど、デビュー間も無く作家としての確かな才能を世間に知らしめました。

本作の強烈なタイトルは、同性愛の本が置かれた書店の棚の前でクスクス笑う人間を目にした時に思いついたと、作者は後に語っています。マイノリティな恋愛感を想起させるタイトル、そこに込められた意味とは何なのか、考察していきます。

スポンサーリンク

『人のセックスを笑うな』の作品概要

作者山崎ナオコーラ
発表時期2004年(平成16年)
受賞文藝賞
ジャンル中編小説、恋愛小説
テーマ特異な恋愛
男性性の中の女性性

『人のセックスを笑うな』の300字あらすじ

美術学校に通う19歳の主人公は特異な恋愛をしています。20歳年上で既婚の講師「ユリ」と交際しているのです。

飲み会の帰りに、ユリから好意を伝えられたのが発端でした。絵のモデルを務めるために彼女のアトリエを訪れるようになり、肉体関係へと発展します。恋とも愛ともつかない、執着に似た情熱によって、主人公はユリを求めます。

ところが最後のセックスの日に見せたユリの蟠りは、尾を引くように2人の関係を蝕みます。ユリは自身の芸術との葛藤に苦悩し、専門学校の講師を辞めます。「しばらく一人になりたいの」それ以降ユリと話すことはありませんでした。

移りゆく季節の真ん中で、主人公はユリを思い出してばかりいるのでした。

『人のセックスを笑うな』のあらすじを詳しく

①ユリに好意を告げられた

冬の寒空の下、主人公の磯貝はバスを待ちながら、今は側にいないユリのことを思い返しています。

ユリは、磯貝が通う美術の専門学校の講師でした。実に彼よりも20歳年上で、結婚だってしています。

美術の講師として優れているかはともかく、冗談が飛び交う彼女の授業は生徒たちから人気がありました。

秋の終わりに開かれた飲み会の帰り道、磯貝はユリに誘われて、2人で駅の周りを散歩します。夜風にくすぐられた心地良さの中で、ユリは唐突に磯貝のことが好きだと告白します。彼はそれほど本気には捉えず、その時は一種の社交辞令として受け流しました。

既婚者のユリは何か孤独を抱えているのではないかと、そんな同情すら感じていたのです。

②絵のモデルから肉体関係へ発展

飲み会の帰り道に告白されたものの、翌日からの学校ではユリの態度は普段通りの美術講師のままでした。

それから2週間程度が過ぎた頃に、磯貝はユリに絵のモデルを頼まれます。そう言うわけで、彼は週末にユリのアトリエを訪問します。

何かを期待していたわけではありませんが、言葉通りの絵のモデルだけをさせられた磯貝は、少しガッカリします。

飲み会の帰り道に好きだと言ったにもかかわらず、普段の学校生活でも、アトリエを訪問した際も、特別変わった雰囲気を出さない彼女にもどかしさを覚えます。

2回目のモデル以降は、毎週のように彼女のアトリエを訪問するようになります。そしてある日、彼女が自分を誘っていることを確信し、磯貝はユリにキスをします。ようやく2人はセックスをする関係に発展しました。

③ユリの葛藤と旦那の存在

ユリは専門学校の講師とは別に、画家としての活動にも熱を入れています。しかし、彼女の作品はとても内省的で、評価もしづらく、当然収入には繋がっていません。

芸術家気質な彼女は、39歳でも自分に自信がなく、病的に弱い側面を抱えています。

旦那とは常に戦乱状態で、決定的な大喧嘩にならない分、タチが悪い関係が続いています。それでもユリにとって旦那は、とても大事な存在なのです。磯貝はユリに旦那の話をされても、嫉妬することはありませんでした。彼女と一緒にいたい気持ちはあっても、若いせいか、その想いが結婚に結びつくことはなかったからです。

ユリは20個も歳上なのに、決して教えるような口調で話しません。彼女は自分の問題を抱えているせいか、年上の余裕がほとんどなく、磯貝のためになるようなことを1つもしてくれないのです。事実、彼女といても絵もセックスも一向に上手くなることはありませんでした。

自然と苛立ちが募る原因が、自分がユリに惚れ過ぎていることだとは、磯貝はその時は気づきもしませんでした。




④えんちゃんとの出会い

夏休みの間中、ユリは個展の準備で忙しかったため、ほとんど顔を合わすことはありませんでした。

新学期が始まってすぐ、磯貝は友人の堂本に呼び出されて、えんちゃんという女の子を紹介されます。どうやら彼女は専門学校を辞めるか迷っているみたいでした。絵は趣味で留めて、実家の仕事を継ごうと考えているのです。将来のことを真剣に考えている彼女を目の前に、感心するばかりの男たちでした。

帰り道、堂本がトイレに行っている間に、磯貝はえんちゃんにキスをします。その夜、磯貝はとても失礼なことをしてしまったと後悔し、電話で彼女に謝ります。ユリと会えない時間が続いているため、彼は少しやけっぱちな気分になっていたのかもしれません。

その後も、えんちゃんとは親しい友人のままでした。

遂にえんちゃんが専門学校を辞めることが決定し、磯貝は彼女にお茶を誘われます。「キスがなくても好きになっていた」と磯貝は彼女に告白されたのですが、丁度その頃、ユリとの盛り上がりも復活し始めていたため、申し訳ない気持ち半分でキッパリ告白を断ります。

⑤旦那との遭遇

磯貝は、ユリに対する気持ちが恋なのかも分からなくなっていました。恋とも愛ともつかぬ、執着のような気持ちで、情熱的な愛しさを彼女に抱いています。

大晦日には旦那が実家に帰省したため、磯貝はアトリエではなく本当のユリの家で過ごしました。大晦日と正月を一緒に過ごし、セックスをした2人は、再び気持ちが盛り上がります。

2度目にユリの自宅にお邪魔した時には、誤って眠ってしまい、目覚めると旦那が帰宅していました。疑念や敵意をわざと表さずに、夕食を振る舞ってくれた旦那に対して、気後れと罪悪感を抱きつつも、可笑しな夫婦だと磯貝は好感すら抱いていました。

⑥最後のセックス

春になり、アトリエでセックスをした時には、ユリの中に迷いが生じている感じがしました。

無意識な抵抗と、蟠りを悟られることを恐れて、わざと吹っ切れたようにキスをする様子。磯貝は、これが最後のセックスになるとは想像もしていませんでした。

新学期が始まると、ユリは学校の講師を退職していました。事情を告げられていなかった磯貝は、慌ててユリに連絡し、その夜会うことになります。どうやら彼女は1ヶ月ほど旦那と2人でミャンマーへ旅に出るようでした。話の点と点が繋がらず、困惑しながらも涙が出そうな磯貝よりも先に、ユリが泣き出します。その涙が何を意味しているのか、磯貝には理解できたのですが、にわかに信じられずにいました。

1ヶ月のミャンマー旅行から帰国しても、ユリから電話がかかってくることはありませんでした。我慢できずに彼の方から発信しても、彼女は電話に出ません。

ユリから連絡が来たのは、夏になってからのことでした。絵について酷く悩んでいるみたいで、画家を辞めようと思うほど追い詰められていました。彼女の力になりたいと思い、会ってくれないかと伝えても、彼女は1人で考えたいと言って、避けられてしまいます。彼女が自分の助けを本当に必要としていないことが、受話器の温度から伝わってきました。

それ以降、磯貝はユリと話すことは二度とありませんでした。

⑦移りゆく冬の花火のように

秋になっても冬になっても、磯貝はユリのことを思い出してばかりいました。別の何かで悲しみを埋めようと考えても、結局悲しみとは自分が受け入れて可愛がってやるしかないのだと悟ります。

12月25日、磯貝の誕生日の日、堂本とえんちゃんがお祝いに来てくれます。ケーキを食べた後に、3人は駐車場で冬の手持ち花火をします。「卒業しても集まりたいな」と言う堂本に対して、磯貝はユリのことを思い浮かべながら、「会えなければ終わるなんて、そんなものじゃないだろう」と答えるのでした。

手持ち花火の火は気まぐれに変色しながら、次の花火へと移り変わっていくのでした。

そして物語は幕を閉じます。




『人のセックスを笑うな』の個人的考察

タイトルに込められた意味とは

文藝賞の審査において、評価が高かった本作。当時の審査員であった高橋源一郎は、作者の名前と作品タイトルを見た時点で、「今年の受賞作はこれだ」と確信したそうです。

それだけこのタイトルが持つ強烈なインパクトが、作品の善し悪しに影響していることは間違い無いでしょう。強烈なタイトルは一種の賭けみたいなもので、悪い方に転べば、奇抜なタイトルに内容が似合わない、いわゆる「タイトル落ち」してしまうことになります。ともすれば、本作はそれだけタイトルに見合った素晴らしい小説だったのかもしれません。

冒頭で綴ったように、作者がこのタイトルを思いついたのは、同性愛の本を前にして笑っている人を見たことがきっかけだったようです。そういった背景を知らずとも、タイトルを見ただけで、同性愛もそうですが、特異な性癖であったり、社会的なマイノリティの性がテーマであることを想像します。しかし、本作は19歳の大学生が、39歳の既婚者と恋愛をする、あえて今の時代に取り上げることでも無い、連続ドラマで放送されそうな普遍的な設定ではあります。そういう意味では、「タイトル落ち」だったのかもしれませんが、読み進めると落ちきらず、むしろ上昇するような感覚になります。

本作のヒロインであるユリは主人公より20個も歳上であるにも関わらず、年長者の余裕を持っていません。芸術家特有の、個人の葛藤、自己中心的な内省に囚われているからです。そのため、主人公の磯貝に対して、タメになるような、”教える行為”を完全に放棄しています。要するに、彼女とセックスをしても、何が正解で何が間違いか分からず、一向に行為が上手くならないのです。

こういったテーマは非常に盲点でした。性に関するコミュニケーションは非常にシビアになりやすく、できれば話したく無いと思う方も多いはずです。自己防衛の目的もありますし、相手の自尊心を傷つける恐れがあるため、包み隠さず話すのは難しいものです。疑心暗鬼になりながら愛撫する男の子、痛いの一言が喉の奥に詰まる女の子。体が繋がっても、心が一向に交わらないような感覚。誰しもが抱える重大な問題だと思います。

「社会的マイノリティ」ばかりが先行する昨今に、誰もが抱える性に対するマイノリティな感覚に焦点を当てたのは、感服せざるを得ません。

もし神様がベッドを覗くことがあって、誰かがありきたりな動作で自分たちに酔っているのを見たとしても、きっと真剣にやっていることだろうから、笑わないでやって欲しい。

『人のセックスを笑うな/山崎ナオコーラ』

性に対するマイノリティな感覚が過敏になったからといって、相手を尊重できるわけでもありません。(神経過敏な愛情が誰も救えないように。)

我々が抱えるシビアな性の問題を解決する方法はただ1つ、自分に酔うことだけなのです。ユリは作中でセックスに対して、「自分が楽しければ、相手も楽しいと信じること。絵と同じ」と言及します。

つまり、自分に酔うことができない人間は、相手を慈しむこともできないのです。

一口のウィスキーに頼ってでも演じること、戯けて見せても構わない、そんな彼らを、君を、僕を、笑うことができる奴なんていないのです。もし君を笑う奴がいたら、こう言ってやりなさい。

人のセックスを笑うな!

女性が描く男性性

太宰治は女性一人称の名手と言われています。「女生徒」「ヴィヨンの妻」「斜陽」、彼が主人公を女性にして、物語の中で女性性を発揮した作品は多く存在します。

本作の作者である山崎ナオコーラは、女性でありながら一人称を「オレ」で書きました。ユリではなく磯貝の目線で物語を進行させたのです。逆の立場でもそうですが、女性が男性を装う書き方は、文学において一種の挑戦と言えるでしょう。ましてや性の問題を題材にした小説で、異性の立場で描くのは、下手すれば的外れば描写の連続になりかねません。

個人的な意見で言えば、少し不可解な場面もあったのですが、大方は違和感なく磯貝のペルソナを受容することが出来ました。

同じように、男性の読者が本作の主人公の男性性に違和感を抱かずに読み切ったのであれば、おそらく「女性化する男性」という近年囁かれた現象を、もはや普遍的に許容していることを意味するでしょう。

「女々しい」という言葉が男性だけに用いられるように、男性の内には女性性のようなものが確実に存在します。太宰治をはじめ、多くの男性の文豪が女性一人称で執筆したのは、自分の中の女性性を表現するためだったのだと思います。ともすれば、山崎ナオコーラが描いた「逆の装い」は、女性が描く男性一人称を、違和感なく男性が受容するという今日のジェンダーレス的な社会のあり方を言い表す、”今の文学”だったのでしょう。

「山崎ナオコーラ」という名前から性別が想起できないように、そこに男性や女性という区別はもはや存在しないのです。

電子書籍での読書がおすすめ!

『人のセックスを笑うな』を読むにあたって、電子書籍「Kindle」がおすすめです。

「Kindle Unlimited」を登録すれば、多くの書籍が読み放題です。今なら30日間無料です!
是非、お得に読書してください!

当ブログの筆者は元々アンチ電子書籍でした。しかし紙の本より価格が安く、場所を取らず持ち運びが便利で、紙媒体と大差ない視覚感で読むことが出来る「Kindle」は、思わず買ってしまいました・・・

今ではもう手放せない状態です。

「Kindle」の魅力については下の記事にて紹介していますので、アンチ電子書籍の人は騙されたと思って読んでみてください。

以上で、山崎ナオコーラの小説『人のセックスを笑うな』のあらすじと考察の解説を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




コメント

タイトルとURLをコピーしました