アラン『幸福論』要約解説|100分で名著で紹介された哲学書

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幸福論 フランス文学

アランの『幸福論』をご存じですか?

1925年に著された哲学書・表論文で、「フランス散文の傑作」と評されています。

現在も世界中で愛され、著名人が愛読書と公言するほど多くの人の人生に影響を与えた1冊です。

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作品概要

作者アラン
フランス
発表時期1925年
ページ数200ページ
ジャンル哲学書
プロポ(コラム)
テーマ  健全な身体と心の平静  

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哲学書だけど難しくない!

哲学書というだけで毛嫌いする人も多いかもしれません。

あるいは、「幸福の価値観なんて十人十色、一概に定義できるわけがない!なんだか胡散臭い!」と疑心暗鬼になる人も当然いるでしょう。

そんな疑り深いあなたのために先に断っておきますが、本作『幸福論』には、幸福になるための方法など記されていません。

始終「こんな奴は不幸だ」という、いわゆる「不幸がってる人間」の特徴を記しているのです。非常に面白い切り口ですよね。

各章ごとに様々な観点で「不幸がってる人」の特徴が列挙され、まるで自分のことを指摘されているような気分になります。幸福の定義を一般論で押し付けて来ないからこそ、自ずと自分にとっての幸福の在り方が見つかるわけです。

今回はアランの『幸福論』から不幸な人間の特徴をいくつかピックアップして紹介しますので、皆様にとっての幸福の価値観に落とし込んでいただければ幸いです。

はじめに、不幸な人間とは

アランは本作のプロローグで、「不幸な人間」について語っています。

「重大な理由もないのに不幸な人たち」

気分の善し悪しとは、一時的な体の出来事であるにも関わらず、我々人間はその一時的な状態を異様に拡大させる癖があります。アランはそういう人間を、「重大な理由もないのに不幸な人たち」と称しています。つまり、我々は大した理由もないのに必要以上に「不幸がっている」ということになります。

とかく不幸がった人間は意地が悪く、自分が不幸だということを何としてでも周囲に伝えようとします。挙句、他人の幸福な様子を見ては、「あいつらは馬鹿で、盲目だ」と非難さえする始末です。「不幸がってる人間」は、他人の考えを変えさせることに無我夢中なのです。

彼らは決して自分が救われるために謙虚な気持ちになることはありません。自分を俯瞰的に観察することができず、自己防衛のために他者を攻撃してばかりいるのです。自分の陰鬱とした感情の原因を一生知らない、知ろうともしない哀れな僕たちです。

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不安や恐怖の原因を知ることの重要性

アランは『幸福論』の序盤で、「名馬ブケファロス」という昔話を紹介しています。

昔話の舞台は古代ギリシャです。ある時ひとりの商人が、ブケファロスという美しい馬を王様の元へ売りにやって来ます。ところがブケファロスはその容貌とは裏腹にとんでもない荒馬で、宮廷内で乗りこなせる者は一人もいませんでした。そんな中、王子は「自分なら乗りこなせる」と豪語します。王子はブケファロスにゆっくり近づき、彼の鼻先を太陽の方角へ向けました。すると荒馬は途端に大人しくなり、王子は見事ブケファロスに跨ることに成功したのです。王子が言うには、ブケファロスは自分の影に怯えていたために暴れていたようなのです。

面白い話ですよね。つまり、不安や恐怖には必ず原因が存在し、それが分からない限りブケファロスのように怯え続け、周囲からも勘違いされると言うことです。

アランは、このように原因が分からない故に感じる不安や恐怖を「情念」と呼んでいます。

  • もしかしたらあの人は自分のことを嫌っているかもしれない
  • こんなことをしたら周囲に馬鹿にされるのではないか
  • 明日大地震が起きたらどうしよう
  • 自分の仕事は20年後には無くなっているのではないか

上記のような、不明確な想像に掻き立てられて生じる不安や恐怖が「情念」の正体です。

人間は、形・音・匂いがあるものからは意図して逃れることが可能です。一方で、情念のように姿を持たない過剰な想像は、激しい恐怖と悔恨を伴い、場合によってはブケファロスのように自分で自分の影に怯えるような状態に陥ってしまいます。

だからこそ、自分の影の正体を理解することが大切です。本当の原因を知らない限り、情念を癒すことは出来ないのです。

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「情念」という想像上の苦痛

人間の不幸の大方は、前述の情念、つまり想像上の苦痛によってもたらされます。とかく、現在だけの苦しみなどは無に等しく、苦悩を予感し、待ち受け、後悔する、こういった前後に引き伸ばされた余計な想像力によって、不安や恐怖が生じるのです。

人間は痛みを苦しむことよりも、痛みを恐れる気持ちの方が強い、とアランは主張します。

【情念1】転落事故の場合

例えば、車道を脱線した車が崖から落下する転落事故を想像すると、我々は耐え難い恐怖を感じるでしょう。車が崖の外へ飛び出し、落下し、地面に衝突し、肉体が飛び散る、このような光景を思い浮かべて恐ろしくなるのです。

ところが、想像上ではいつも時間がゆっくり流れていることに気がつきます。実際は思考の暇など無いくらい一瞬で過ぎ去るという事実を無視しているのです。

つまり、想像上の恐怖は常に時間を引き延ばし、苦痛を拡大させるということです。実際に自分が転落すれば、長々と各場面の恐怖を想像する暇などありはしないのです。

【情念2】タイタニック号の場合

あるいはタイタニック号の乗客の心境を想像しても、同様に恐ろしい気持ちになるでしょう。それは既に我々が、間もなく船が沈没するという結果を知っているからです。物語が着々と悲劇へ進んでいくという当時の乗客が知り得ない、別の拡大した恐怖を感じているのです。それは傍観者の想像の中だけに存在する、事実とは別物の恐怖なのです。

死の直前にどんな感情を抱いていたとしても、死は一切を消し去ってしまいます。ところが生き残った人たちの想像力の中では、死者は死の道を歩み続けている、とアランは主張します。既に存在しないタイタニック号の乗客たちが、今もなお苦しみ続けている、と我々は想像しがちなのです。

【情念3】痛みの傍観者

以上のように、恐怖はいつも当事者としてではなく、傍観者としての想像によってもたらされることが判りました。つまり、我々は他者の痛みに敏感なのです。

例えば、不慮の事故に遭った友人が病院で顔の皮膚を縫ってもらう場面を正気で見れる人間はそうそういないでしょう。あるいは、老人が認知症になる様や、友人がアルコール依存症で抜け殻のようになる様を見るのは辛いものです。ある種において、人間は自分の苦悩よりも他人の苦悩に敏感なのです。

ただし、悲運の重圧を受け止めることが出来るのは幸福な人間であり、我々は幸福である故に同胞の苦痛に敏感なのです。それは健康な人間にとって病気が耐えられないのと同じ理論です。

老いた人間というのは、老いを苦しんでいる若者ではない。死んだ人間というのは、死んでいる生者ではない。

『幸福論/アラン』

つまり、情念の虚偽がそこには存在します。
若い故に老いを苦しみ、生きている故に死を恐れるように、我々は大抵今現在の自分とは無関係な想像によって、「不幸がっている」ということになります。「現在だけの苦しみなどは無に等しい」とアランの主張する通りです。

おまけに情念は根拠のない確証を人間に与えます。チーズが嫌いな人は初めからチーズを味わうことをしないように、情念に囚われた人間は極端に恐怖に敏感である故に、ますます自己を閉塞的にしてしまうわけです。

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「情念」を掻き消すのは行動

アランは「王さまは退屈する」という例えによって、2種類の富について説明しています。1つは手に入れると座り込んでしまうような富、もう1つは次の計画や行動を求める富です。

アランは、前者のように手に入れると退屈してしまう種類の富の虚偽を露呈し、退屈こそが情念の発端であることを示唆しています。無意味にぼーっとしていると、途端に不安と悔恨が押し寄せてくる状況を、誰しもが経験したことがあると思います。

アランの面白い主張として、退屈の行きつく先は戦争であると記されています。戦争とは何にもまして退屈を癒す行為なのです。なぜなら死に対する恐怖とは、暇人の考える情念であるからです。戦争によって差し迫った状況になれば、人間は死について考えることも無くなるというのです。これは決して戦争を肯定してるわけではなく、退屈な人間は、最後には我々を争いへと導くことを揶揄しているのです。

以上のことから、情念から解放されるためには、後者の富、つまり知覚と行動よって得られる富が重要であることが判ります。行動する人間こそが、想像上の恐怖に打ち勝つことが出来るのです。

自分が支配者になることの重要性

「行動」こそが重要であると記すと、精神論のように感じられて嫌悪するかもしれません。しかし、その真意は「人間は何かを作り出す時にだけ幸福でいられる」ということです。

例えば、仕事とは自分が支配者である限りは面白いものですが、支配されるようになると途端に退屈になります。逆説的に言うなら、人間はもらい物の楽しみにはうんざりしますが、自分で勝ち取った楽しみはすごく好きなのです。

こういった意味での「行動」は自己を正当化する上に、時間に際限を与えます。他書からの引用になりますが、小説家の中島敦は代表作『山月記』で次のような文章を記しています。

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い

『山月記/中島敦』

つまり行動する人間は常に時間が差し迫った状況にあり、不安や悔恨に捕われるくらいぼーっとする時間など無いと言うことです。不幸になる余地がないのです。

アランは「音楽の楽しみも、ただ聞いているだけでは大したものは得られない」と主張します。自分が演奏しなければ本当の楽しみは得られないと言うのです。他人から与えられる楽しみは長く続かないため、どうしても自分で生み出さなければ意味がないのです。

前述の「情念は根拠のない確証を人間に与える」という主張が裏付けになるでしょう。情念によって極度に恐怖を抱く人間は、頑固な理由付けによって行動することを避けたがります。その結果、何もしない人間は何も好きになれず、他人から幸福を与えてもらうことばかりを望み、自己完結した本当の意味での幸福には一生辿り付けないのです。

アランはこれらの問題について、「ただドアを開いて幸福が入れるようにしているだけでは、入ってくるのは悲しみである」と主張しています。自ら行動しない限り、人間は情念から解放されることはないのです。

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ほほ笑みの重要性

アランは、情念から解放されるための行動は、ほとんど自らの所作にかかっているとも主張しています。それはまさに、礼儀作法としての「ほほ笑み」に集約されています。

不機嫌な人間というのは、不機嫌な表情をして、不機嫌な態度で、不機嫌な行動をするものです。あるいは、退屈な人間とは、退屈を維持するに相応しい振る舞いをしているものです。不幸という結果が下卑た所作をもたらすのではなく、下卑た振る舞いが自らを束縛し、結果的に自分を不幸へ導くわけです。

社交界にいる人間は誰とでも親しくできる才能を持っているのではなく、礼儀としての振る舞いが結果的に自分の幸福に繋がることを理解しているのです。つまり、我々は情念に囚われた場合、何よりもほほ笑むことを忘れてはいけません。

アランは「咳が止まらない時に飲むトローチは、出るという動作に対して全く逆の飲み込むという動作が作用し、その結果として咳が治まるのだ」という面白い具体例を挙げています。

気分とは自分の判断力ではどうにもならず、情念ともなれば意図して逃れることは不可能です。意識して咳を止めることができないのと同様です。だからこそ、あえて「ほほ笑む」という全く逆の行為が重要であり、悪い動作が悪い結果を導くように、「ほほ笑み」は幸福な結果をもたらすのです。

幸福にならなければいけない

ここまでくればアランの幸不幸に対する思想がほとんど理解できたのではないでしょうか。

つまり、周囲から与えられたり、偶然訪れる幸福を望んでいる人間はのろまで救いようのない不幸者だということです。大抵我々はそういった怠け切った考えで、存在しない情念に囚われて嘆いているわけです。一方で、自身の力で幸福を手に入れるために行動した人間は、真の幸福者と言えるでしょう。傍観者である限り人間は余計な想像をしてしまいますが、行動者になれば考える暇もなく自己を支配できます。

いささか楽観的な思想だと思うかもしれませんが、アランは「悲観主義は気分によるもので、楽観主義は意思によるもの」と主張しています。人間とは何もしなければ自然と不機嫌になってしまうものなのです。だからこそ、意思と自己支配が重要で、自分は幸福になるのだという強い意志がなければ、一生ぐずった不幸者のままです。

人間は何もしないでいると自ずと不幸を作り出すようにできているのです。幸福になる意思がなければ幸福になれません。

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同情は過ちである

アランは同情についても警笛を鳴らしています。他者に向けられた哀れみとは我々が知る限りで最も罪深い行為だと言うのです。

その理由は、不幸や情念というものは他者に伝染するからです。不幸な者に肩入れすれば、必ず自分も情念の餌食になります。あるいは、不幸者同士の親和も必ず共倒れに陥ります。溺れている人が溺れている人を助けられないように、不幸な人間が他人を幸福にすることは不可能なのです。

これらは決して苦悩する隣人を見捨てろと言っているのではなく、他者を救うために出来る最善の方法とは、自分が幸福になる以外ありえないということです。

幸福になるという強い意思は、自他ともに影響を与える慈しみの一種なのです。

アラン本人に見る幸福の在り方

本書『幸福論』で、散々不幸な人間の特徴を非難したアランですが、果たして彼は自分の思想に見合った人生を歩んだのでしょうか。

非常に面白いのが、アランは人生を通して自己の幸福の在り方を体現したようなのです。

『幸福論』には、2~3ページの文章が100篇程度収録されています。これはプロポと呼ばれる形式で、いわゆるコラムのような文章のことを指します。プロポという文章形式が確立されていなかった当時、アランの文章はかなり非難されたようです。体系がなっていないとか、無秩序だとか、薄っぺらいとか、散々周囲に扱き下ろされたみたいです。

ところがアランは、これが自分のやり方だという強い意志を持って、周囲の非難に臆せず、生涯において5000以上のプロポを残しました。つまり、彼は自分にとっての幸福が何かということを理解しており、その燃え上がる熱意によって、情念を掻き消したのでしょう。

結果的にアランの文章は「現代のソクラテス」「フランス散文の傑作」と称されるようになりました。他者にとっての幸福ではなく、自分にとっての幸福がいかなるものかを知ること、それをやり遂げる強い意志こそが、情念に打ち勝つ方法なのだと、アラン本人が体現しました。だからこそ、読者は信憑性を持って著書に共鳴できるわけです。

われわれが耐えねばならないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを押しつぶすことができない。なぜなら、過去はもう実在しないし、未来はまだ存在しないのだから。

『アラン/幸福論』

明日のまやかしを切り裂いて、今現在の幸福を追求しようじゃないか、なぜなら僕たちには幸福なる権利があり、ひいては幸福にならなければいけないという義務でもあるのだから。

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