川上未映子の小説『乳と卵』は、第138回芥川賞受賞作です。
独特な大阪弁の独白体で綴られる本作は、母と娘の女性「性」の問題を濃密に描いています。
日本文学の風景を変えてしまった問題作として、高く評価されています。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 川上未映子 |
発表時期 | 2007年(平成19年) |
ジャンル | 中編小説 |
ページ数 | 133ページ |
テーマ | 女性「性」に対する哀切 |
受賞 | 第138回芥川賞(2008年) |
あらすじ
大阪から姉の巻子と、その娘の緑子が、主人公の住む東京にやって来ました。大阪の京橋の場末なスナックで働く巻子は、シングルマザーという境遇など、度重なる生活苦の果てに、豊胸手術を受けることに取り憑かれています。一方、娘の緑子は、反抗期に差し掛かり、完全に口を閉ざしてしまい、コミュニケーション手段は「筆談」なのでした。
緑子は思春期に入り初潮を迎え、胸が膨らみ、陰毛が生えて来る自分の身体への不安や、豊胸手術を受けたがる母への批判を日記に書いています。自分を産んだことで失われた乳房を豊胸するなら、自分など産まなければよかったのだとさえ考えています。
東京に来て二日目の夜、巻子は豊胸手術のカウンセリングを受けに行ったきり連絡が途絶えます。ようやく帰宅した彼女は泥酔しており、元夫に会いに行ったのだと告白します。そして酒による感情の昂りは、一切口を閉ざしたままの娘の緑子へとぶつけられます。それがもとで、母子間で感情をぶつけあう葛藤劇に発展します。互いに卵を頭にぶつけあい、泣きながら口論する巻子と緑子。ここに来てようやく親子に邂逅があったのでした。
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個人的考察
豊胸手術と男根主義
その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもうわたしたち物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産物でしかないのよね
『乳と卵/川上未映子』
姉・巻子に豊胸手術の相談を持ちかけられた主人公は、いつか友人たちが話していた男根主義か否かの論争を思い出します。
胸を大きくしたい願望は、決して男性のためではなく、自分自身の肉体に対する自分だけの憧れだと主張する友人。一方でその話を聞いた別の友人は、その憧れこそ世界に蔓延る男根主義に侵された結果の価値感であると詰ります。
現代を生きる我々には非常に聞き馴染みのある論争だと思います。フェミニズムやジェンダーについて取り沙汰される昨今、ルッキズム的な観点の発言が炎上し、公的機関の役員が辞職に至る事件も珍しくありません。やはり作中で綴られるように、男根主義的な価値観は存在し、女性は消費される対象として軽んじられてきた歴史があるのは事実です。
とは言え、本作『乳と卵』では、男根主義を問題視し、文学的な観点から追求する訳ではありません。それよりも、なぜ巻子は豊胸手術に取り憑かれてしまったのか、その病的な執着にはいったいどのような意味背景があるのか、そして娘の緑子は母の豊胸手術に対してどのような感情を抱いているのかが描かれているのです。
それら母子の内的葛藤を順に考察します。
巻子が豊胸手術に取り憑かれた理由
あたしも子どもを生むまえはゆうてもここまでじゃなかった。そんなん変わらん云われるかもしれんけど、そら滅茶苦茶にきれいではなかったけど、そやけど、これ見て。これはないよ。
『乳と卵/川上未映子』
巻子は出産してから小さくなった胸に異常なコンプレックスを抱えていました。それは巻子が抱える女性的な尊厳の問題の象徴として描かれているのであって、彼女が胸にコンプレックスを抱くようになったのには、生活的な背景が関係していると考えられます。
詳細には語られませんが、巻子は夫と離婚し、シングルマザーとして緑子を育ててきました。大阪の京橋で、いわゆる雑多で場末なスナックのホステスとして過酷な家計をやりくりしています。その深刻な生活苦に苛まれた巻子は、どこか精神的に疲弊しているような描写が綴られます。肉体はやせ細り、風邪も引いていないの咳止めシロップを飲んでいるのです。
そして決定的な出来事は、主人公の家に遊びにきた二日目の夜、巻子は元夫に会いに行き、泥酔して帰宅したことです。なぜ会いに行ったのか、会って何をしたのかは明かされませんが、巻子が少なからず元夫に執着していることが分かります。それは言い換えれば、女性「性」としての自分に執着しているのでしょう。
元夫と離婚して以来、家計のために過酷で不安定な労働に刻苦し、恋愛や女性「性」というものと疎遠になり、自らの女性としての尊厳が失われていくことに、彼女は苦心していたのではないでしょうか。その尊厳の危機が、出産によって失われた乳房に象徴され、彼女は尊厳を取り戻したいあまり、豊胸手術に取り憑かれてしまったのだと考えられます。
緑子の抱える思春期の苦悩
言葉を閉ざし、筆談のみでコミュニケーションを図るようになった緑子は、ノートに日記をしたためています。そのノートには、彼女が抱える思春期の肉体の発達に対する苦悩が綴られています。
あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって、その体があたしの知らんところでどんどんどんどん変わっていく。
『乳と卵/川上未映子』
思春期特有の心と肉体の成長のスピードが伴わない故の苦悩です。
その最もたる原因は、初潮です。体の中で勝手に卵子が生成され、それは受精を目的としており、受精しなかった無精卵は血に混じって排出される。緑子はその生物状の仕組みを受け入れることができずにいます。それは女性が、結婚し出産することがある種の幸福像とされる社会的なイメージに対する懐疑でしょう。
懐疑の根底には、母親が離婚し、生活苦に苛まれている事実が関係していると思われます。あるいは母親との衝突も大いに関係があるのですが、同時に緑子は母親を憐れむ気持ちも抱えています。男が種を植え付け、受精し、自分が誕生した、それなのに男は母子の元から去り、残された母は生活に刻苦している。そういった現実を厭になるくらい知りすぎた緑子は、女性が子を孕み、出産することに嫌悪感を抱いており、また自分の肉体が出産の機能を備えるために着々と成長しつつある状況に耐えられなくなっているのでしょう。
こういった苦悩を抱える緑子は、出産によって食べたり考えたりする人間が新たに誕生することがあまりに残酷だと感じています。自分のように苦悩する人間が増えることに恐怖を覚えているのです。それゆえ、将来自分は子供を産まないと小学生にして決心しているのでした。
母子の葛藤の原因
緑子が抱える苦悩の最もたるは、母の豊胸手術に起因していました。
出産したことで小さくなった乳房の豊胸、それは緑子にとっては自分の存在を否定される行為だったのです。小さくなった乳房に悩むなら、初めから自分なんか産まなければ良かったのに、と考えている訳です。
その思いを泣きながら告白するとき、初めて緑子は口を開きます。その感情的な告白の中には、母を憎む気持ちと、それでも母を憎みきれず憐れんでしまう気持ちが入り混じっており、だからこそ彼女は上手く話せない、伝えらないのであって、それがこれまで口を閉ざしていた原因なのでした。
また感情的な告白の最中、緑子は冷蔵庫にあった賞味期限切れの卵を自らに叩きつけて酷く取り乱します。受精しなかった卵を叩きつける行為、それは初潮という肉体の成長を受け止められない緑子の思いを象徴しており、また女性の尊厳を失い精神的に患っている母の境遇をも象徴していたのだと考えられます。
100ページ程度の短編ないし中編小説の中で、これだけ濃密な母子の葛藤を描き出した本作は、納得の芥川賞作品です。
関連作品『夏物語』がおすすめ
『乳と卵』の中では、徹底的に傍観的な立ち位置に屈していた主人公の夏子。
実は2019年に発表された『夏物語』では、『乳と卵』を下敷きにして、主人公・夏子の問題が掘り下げられています。
こちらも同様に女性の問題を扱ったテーマの作品なので、『乳と卵』が気に入った方は、ぜひチェックしてみてください。
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