芥川龍之介の『杜子春』あらすじ考察 悟るくらいなら死んでしまえ

杜子春 散文のわだち
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芥川龍之介の小説『杜子春』をご存知ですか?

1920年に発表された短編小説です。幾度となくテレビアニメ化された本作は、いわゆる児童文学の側面を持ちながらも、人間の利己的な醜さを秀逸に描いた文学作品でもあります。

元々は中国の伝奇小説に同タイトル「杜子春」という作品が存在しました。それを芥川龍之介がリメイクさせたのが本作です。大まかな設定は伝奇小説通りですが、途中からの展開やメッセージ性は芥川龍之介のオリジナルに作り替えられています。原作との違いも含めて、芥川龍之介の作品意図を紐解いていこうと思います。

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『地獄変』の作品概要

作者芥川龍之介
発表1920年(大正9年)
ジャンル 短編小説、伝奇小説
テーマ人の世の醜さと家族愛

『杜子春』の300字あらすじ

貧しい「杜子春」は、「鉄冠子」という仙人の力で二度も大金持ちになります。

しかし金の有無で態度を変える人間に嫌気が差した彼は、仙人に弟子入りします。

仙人の修行は、「何があっても声を出してはいけない」という内容でした。

様々な幻覚が彼を襲いますが、杜子春は決して声を出しません。

しかし、両親が酷い目に合う幻覚には耐えられず声を漏らしてしまいます。

修行内容に背いた杜子春ですが、両親が酷い目にあって黙っているくらいなら、仙人になれなくてもいいと主張します。

鉄冠子は「もしあのまま黙っていたら自分がお前を殺すところだった」と告げ、愉快そうに去っていくのでした。

『杜子春』のあらすじを詳しく

①杜子春と不思議な老人の出会い

唐の都、洛陽に「杜子春」という貧しい若者がいました。元々は裕福な家庭の育ちでしたが、両親の死後に財産を使い果たし、一文無しになったのです。

今晩の飯や寝床の当てがない杜子春は、落葉の西の門で途方に暮れていました。いっそ川に身を投げようかと、不吉な考えさえ過ぎります。

その時、どこからともなく片目だけの老人が現れます。老人は「お前は何を考えているのだ」と杜子春に尋ねます。杜子春が自らの身辺について伝えると、老人は彼に大金持ちになる方法を教えます。夕陽に照らされた自分の影の頭の部分を掘り起こせば、黄金が埋まっていると言うのです。

その話に驚いた杜子春が顔を上げた時には、老人の姿は既にありませんでした。

②二度も大金持ちになる杜子春

老人の言う通り、黄金を掘り当てた杜子春は、洛陽一の大金持ちになります。

豪邸を構えた彼は、ここに記してはキリがないくらいの贅沢な生活を送ります。すると、貧しい頃にはすれ違いざまに挨拶もしなかった友人さえ、彼の家に遊びに来るようになります。それどころか、洛陽の才人や美女で、彼の家に来ない者は一人もいませんでした。杜子春は毎日宴会を開き、彼らを招待しては、贅沢に振る舞ったのです。

しかし数年もすれば、掘り当てた大金は底尽きてしまいます。

途端に、一文無しになった杜子春に対して、通りすがりに挨拶をする者は一人もいなくなりましたそれどころか、1杯の水さえ誰も恵んではくれないのです。

一文無しになった杜子春は、数年前と同様に、西の門で途方に暮れていました。

するとまたしても、片目だけの老人が急に現れます。そして、同じように大金持ちになる方法を教えてくれます。夕陽に照らされた自分の影の胸の部分を掘り起こせば、黄金が埋まっていると言うのです。

老人の言う通り、またしても黄金を掘り当てた杜子春は、洛陽一の大金持ちに返り咲きます。しかし前回と同じように、贅沢な振る舞いを続けた結果、数年後には一文無しに戻ってしまうのでした。

③人の世に嫌気が差した杜子春

二度も大金持ちになり、再び一文無しに戻った杜子春。またしても彼の前に片目の老人が現れます。

夕陽に照らされた自分の影の腹の部分を掘り起こせば・・・」と説明をする老人。しかし、杜子春は話に水を差すように、今回は老人の恵みを断ります。杜子春はもうお金はいらないです。

老人は、贅沢な暮らしに飽きたのかと杜子春をみくびります。しかし、杜子春は決して贅沢に飽きたわけではありませんでした。人間に愛想が尽きたのです。

自分が大金持ちになれば集まってきて、一文無しになれば離れていく。そんな人間の薄情さを二度も経験した杜子春は、人の世に虚しさを覚えました。利己的な人間ばかりの世の中で、何度大金持ちになっても無意味であると気づいたのです。

例になく悟った杜子春は、老人に弟子入りを申し入れます。二度も自分を大金持ちにした老人はただ者ではないと思ったのです。

まさしく老人は、我眉山という中国四川省の山に住む仙人でした。名は「鉄冠子」と言います。

「鉄冠子」は杜子春を弟子に取り立てました。そして、二人は空飛ぶ青竹にまたがり、我眉山へと向かいます。

ここから杜子春の過酷な修行が始まります。




④修行(何があっても声を出すな!)

2人が降り立ったのは、深い谷に面した絶壁でした。

鉄冠子は天上に行って女神に会う用事があるため、杜子春には、この絶壁の前で待つようにと言いつけます。さらに、待っている間、様々な魔性が現れるが、決して声を出してはいけないと忠告もします。もし一言でも声を漏れせば、仙人にはなれないようです。

自信に満ちた杜子春は、「死んでも声など漏らさない」とかなり強気です。そうして鉄冠子は天井へと去っていきました。

修行はとても過酷です。

まず始めに、虎と大蛇が現れ杜子春に襲いかかりますが、彼は声を漏らしません。次に、凄まじい雷と滝のような雨に襲われますが、今度も声を漏らしません。最後には無数の神兵が現れて、流石に息を呑みますが、やはり彼は声を漏らさないのです。

様々な魔性に耐えた杜子春は、巨大な神将に鋭い武器で突き刺され、死後の世界へ行ってしまいます。

⑤地獄での拷問

巨大な神将に殺された杜子春の魂は、地獄の底に落ちました。大勢の鬼に取り巻かれ、杜子春を閻魔大王の元へと連れていかれます。

閻魔大王は、我眉山にいた理由を杜子春に尋ねます。しかし、死後の世界であろうが修行は続いているため、杜子春は口を開きません。その態度に苛立った閻魔大王は、今すぐ答えないと地獄の苦しみを与えると言って彼を脅迫します。それでも杜子春は口を開かないのでした。

杜子春は地獄の苦しみを次々に与えられます。剣で胸を突かれ、炎で顔を焼かれ、舌を抜かれ、皮を剥がれ、鉄のきねで突かれ、油の鍋で煮られ、毒蛇に脳味噌を吸われ、熊鷹に目を食われます。

しかしそれでもやはり、彼は一言も口を利きません。あまりの往生の悪さに、閻魔大王も頭を抱えてしまいます。

⑥両親の慈しみに触れて

そこで閻魔大王が思いついたのは、杜子春の死んだ父母を、彼の目の前で拷問するという方法でした。

杜子春の目の前に連れて来られたのは、体は馬ですが、顔は間違いなく父母である生き物でした。そして鬼どもが一斉に鉄のムチで父母を打ちのめします。父母は苦しそうに身悶え、血の涙を流しています。

閻魔大王は今一度、これでも白状しないかと杜子春に尋ねます。杜子春は必死で鉄冠子の言葉を思い出しながら目を閉じていました。すると、声にならないような声が微かに聞こえてきます。

「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出で。」

『杜子春/芥川龍之介』

それは間違いなく母の声でした。母はこの苦しみの中でさえ、息子を思いやって恨みもしないのです。大金持ちになればお世辞を言い、貧乏になれば口も利かない世間の連中と比べてなんと慈悲深いことでしょう。

杜子春は鉄冠子との約束を忘れ、半死の母の首を抱いて、「お母さん」と一声叫びました。

⑦悟るくらいなら死んでしまえ

気がつくと、杜子春は洛陽の西の門でたたずんでいました。我眉山へ向かう前の状態と何ひとつ変わりません。

片目のない老人は、「お前は仙人にはなれないだろう」と杜子春に言います。すると杜子春は老人の手を握ってこう言うのでした。

「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません。」

『杜子春/芥川龍之介』

その言葉を聞いた老人は、「もしあの時黙ったままだったら、自分がお前を殺していた」と言いました。

続いて老人は、仙人になるのをやめて、これから何になるつもりかを尋ねます。すると杜子春は、何になろうが、人間らしい正直な暮らしを送るつもりだと答えました。

その言葉を忘れないようにと忠告し、老人は去っていきました。一度振り返って、泰山の南の麓にある家を杜子春に与えると告げます。その時の老人はとても愉快な様子でした。

そして物語は幕を閉じます。




『杜子春』の個人的考察

親子の「信念」がテーマ?

本作で描かれたメインテーマはやはり親子愛でしょう。

人の世に愛想を尽かした杜子春。彼は仙人になるために、どれほど苦しい試練を与えられても老人との約束を守ろうとします。しかし、意思の強い彼も、流石に両親のことになると思わず約束を破ってしまいました。そして、約束を破ったことを老人に問い詰められた時に、彼は嬉しい心持ちになります。

つまり本質的な修行の目的は、いくら人の世に愛想を尽かしても、両親を敬う気持ちは決して忘れてはいけない、という鉄冠子による戒めだったのでしょう。

もしあのまま杜子春が黙っていたら、鉄冠子が彼を殺すところでした。肝心なことを蔑ろにして悟るくらいなら、死んだ方がましだと訴えているように思えてなりません。

ちなみに、中国の伝奇小説「杜子春」の方では、子供が殺されるのを見て、親が声を漏らすという逆の設定になっています。そして、声を出したことを仙人に酷く責められます。要するに、原作は人間の「信念」がテーマであるが、芥川龍之介はそれを「親子愛」という立場からアプローチしたようです。つまり、仙人との信念を果たすよりも重要な、親子にとっての信念があったということでしょう。

鉄冠子から肝心なことを教わった杜子春は、「人間らしい、正直な暮らしを送るつもりだ」と話します。一度は人間に愛想を尽かし、世間を信用できなくなった彼も、贅沢によってではなく、嘘偽りない態度で人の世と向き合おうとする姿勢が見て取れます。親子との信念によって、人の世と和解することができたのかもしれません。

万人は愛さなくてもいい?

先ほどの考察では、杜子春は親を敬う気持ちによって、人の世と和解したのではないかと説明しました。

しかし、より深掘りの考察をするなら、杜子春は人の世に愛想を尽かしたままだと考えられます。なぜなら、母の慈悲深さに気づいた時に、その比較対象として世間の人間を持ち出し、彼らを非難するからです。つまり、本作では決して万人を愛するような偽善が描かれているのではなく、あくまで身近な人間だけを敬い大切にしろと言っているように思われます。

贅沢に振る舞い無価値な人間に尽力するのはやめて、自分のことを本当に愛してくれる人間だけを敬うべきだという教訓なのではないでしょうか。

事実、最後に老人が杜子春に与えた家は、洛陽から遠く離れた泰山の麓にあります。もし杜子春の成熟が、人の世に向けられていたなら、わざわざ人里離れた土地の家を与えないでしょう。つまり、老人が杜子春に説いた人を敬うことの大切さとは、決して万人に開かれたものではないということです。

本当に大切だと思える人だけを敬えるように、老人はわざと人里離れた家を杜子春に与えたのではないでしょうか。あくまで、金の有無に右往左往するような人間などは問題外なのでしょう。

身近な人だけを愛する。
それが正直な生き方。

素晴らしい教訓です。

金塊と影の正体

些細な謎ですが、なぜ自分の影から金塊が掘り起こされるのでしょうか。自分の影は何を表現していたのでしょうか。

一度目、二度目、三度目で、掘り起こす影の部位が違っていることに気がつきましたか? 

最初は頭、次は胸、そして腹でした。どんどん下の方へ向かっています。最後まで掘り起こしたら一体どうなるのでしょうか?

おそらく、杜子春が甲斐なく何度も金塊を掘り続ければ、彼は死んでいたでしょう。順番的に、最後に掘り起こす部位は足です。足が無くなるとは、この世の者ではなくなってしまうことを意味します。腹の部分を掘り起こす前に、人の世に嫌気が差した杜子春だったからこそ、仙人に見込まれ、素晴らしい教えを授かることができたのかもしれません。

また、影と聞いて思いつくのが、「光陰矢の如し」ということわざです。「月日が経つのはあっという間で、二度と戻ってはこない」という意味です。「人生を無為に送るな」という戒めが含まれています。

杜子春は一時的な欲求によって金塊を掘り起こし、やがて一文無しへ転落しました。彼は身をもって、一時的な欲求の儚さを体現していたのです。先ほど、金塊を最後まで掘り起こせば死んでしまうと考察しました。ともすれば、一時的な欲求で日々を無駄に過ごしていると、人生はすぐに終わってしまうという意味に思えてきませんか? 

もしかしたら、人の影にはそのようなメッセージが描かれていたのかもしれません。

以上、芥川龍之介の短編小説『杜子春』のあらすじと考察の説明を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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