宮沢賢治『やまなし』あらすじ考察 クラムボンの意味と伝えたかったこと

やまなし 散文のわだち
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宮沢賢治の『やまなし』と言えば、教科書に掲載される作品の中で最も難解な童話です。

クラムボン」という正体不明の言葉が連呼され、その小気味の良いリズミカルな文章が記憶に焼き付いている人も多いでしょう。

今回はクラムボンの正体を仮説すると同時に、見落とされがちな作品全体を通しての主題を紐解いていこうと思います。

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『やまなし』の作品概要

作者宮沢賢治
発表時期1923年(大正12年)
ジャンル童話、短編小説
テーマ死生観、利他主義の美徳

※『やまなし』は作品集『風の又三郎』に収録されています。

元々は新聞に寄稿された、生前に発表された童話の一つです。

『やまなし』の簡単なあらすじ

「二枚の青い幻燈」と称して、川底の風景が5月と12月の二場面で描かれます。

【5月】2匹の蟹の兄弟が川底から、クラムボンが笑ったり跳ねたりする様子を眺めています。そこを1匹の魚が通過するとクラムボンは死んでしまいました。蟹の兄弟が魚の悪事を話し合った次の瞬間、カワセミが水中の魚を連れ去って行きます。兄弟はすっかり怯えてしまいますが、蟹のお父さんが自分たちは関係ないので安全だと諭します。

【12月】成長した蟹の兄弟は、どちらが水中に大きな泡を吐き出せるかを競い合っています。すると水中に丸くて大きいものが落ちてきます。兄弟がカワセミだと思って身構えていると、お父さんが「やまなし」という果物であることを教えてくれます。二日ばかりすれば美味しいお酒ができるだろうと言って、蟹の親子は住処へ帰っていくのでした。

『やまなし』の個人的考察

クラムボンの正体

本作きっての謎である「クラムボン」の正体については様々な憶測が存在します。その中で最も無難な解釈とされているのが、「クラムボン=泡」説です。

「クラム」を蟹の英語(crab)、「ボン」を爆弾の英語(bomb)と翻訳した場合、蟹の爆弾(crab+bomb)、つまり蟹が吐く泡を意味するのではないか、という学術的な考察です。

クラムボンはかぷかぷ笑ったよ」という一節は、泡が水中に湧き上がる様子を躍動感のある擬態語で表現しているのかもしれません。あるいはクラムボンは死んだよ」という一節は、魚が通過したことで泡が掻き消される様子を描写したのかもしれません。

ちなみにクラムボンは5月の場面にしか登場しません。12月の場面ではクラムボンが描かれていた部分は、吐き出した泡の大きさを兄弟が競い合っている描写に差し替えられています。ともすれば、5月の蟹の兄弟は、幼い故に泡のことをクラムボンという幼児語のような造語で話していたという考察ができます。12月の蟹の兄弟はかなり成長していましたから、知識や言語力が養われ、正確に「泡」と表現できるようになっていたのかもしれません。

他にも「クラムボン=プランクトン」説も存在します。語呂の調子が似ていることも一つの理由ですが、実際に小学校の教科書には「クラムボンは海の小さな生き物です」という注意書きが記されている時期があったようです。

魚がカワセミに食べられる描写が綴られることから、「プランクトン→魚→カワセミ」という食物連鎖の流れを表現している、という仮説も考えられるわけです。

その他にも、クラムボンは人間である説、とりわけ病死した賢治の妹「とし」のことを詩的に表現しているのではないか、という考察なども存在します。あるいは、これら全ての推測を否定するように、「クラムボンの正体を解釈する必要はない」と主張する人もいます。

個人的には「解釈する必要がない」という考えには賛同できず、「賢治は自由に解釈できる余地を読者に与えた」というのが相応しい気がします。いずれの説から考察しても、そこには最もらしい主題が存在するわけですから、受け手が物語を自由に解釈できるという文学の醍醐味を重要視するべきでしょう。

ただしクラムボンに固執するあまり、物語全体の主題を見落としがちなので、この辺でクラムボンについての考察は終了とします。

5月と12月の対比構造から見える主題

『やまなし』はあらゆる対比構造によって構成される物語になっています。

大まかに表にまとめてみました。

5月12月
晩春初冬
クラムボン泡の競い合い
カワセミに喰われる魚落下するやまなし
こわい所イサド

国語の授業的な紐解き方をすると、対比構造で綴られる場合、後者にくるものが作者の伝えたい内容だと一般的に言われています。

あるいは、作品タイトルには作者の主題が象徴的に反映されていることが多いです。

ともすれば、後者である12月に登場する上に、タイトルにも用いられる「やまなし」にこそ、作品全体を通しての主題が隠されていると言えるでしょう。

まず5月の場面では、魚がカワセミに喰われるという食物連鎖の描写が、ある種恐怖体験のように描かれていました。蟹の兄弟は酷く恐れていましたし、「魚はこわいところへ行った」という父親の言葉も不吉なニュアンスに感じられます。

対する12月では、やまなしの実が水中に落ちてきて、いい匂いが漂い、蟹の親子がウキウキしている情景が描かれています。5月の「命が奪われる描写」とは対照的に、12月は「与えられる恩恵」が表現されているのです。

宮沢賢治の生涯の主題である「ほんとうのさいわい」とは、利他主義、つまり他人のために命を燃やすという、仏教的な哲学に起因する思想でした。ともすれば、5月では無秩序に奪われたように見えた命が、12月では誰かにとっての恩恵になっていることを明かして、利他主義の美徳を表現していたのではないでしょうか。




イサドは一体どこなのか

12月の場面で、お父さんの蟹が「イサドに連れて行かんぞ」と口にする部分があります。クラムボンと同様に、イサドとは一体どこなのかのも本作の謎の一つです。

代表作『風の又三郎』にも「伊佐戸」という架空の地名が登場します。ただしそれが何処なのかは一切言及されないので真相は闇の中です。

「もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ」と父親が口にすることから、兄弟蟹にとっては楽しみにしている場所であることが推測できます。5月の「こわい所」と対比的に描かれていることからも、ポジティブなニュアンスで捉えて問題ないでしょう。

個人的には、宮沢賢治が岩手県をモチーフに「イーハトーブ」という理想郷を作り上げていたのと同様で、蟹の世界での一種の理想郷として「イサド」が描かれていたのではないかと考えています。

深読み解釈をする場合に、母親の不在に注目して、天国を意味しているのではないか、という考察も存在するみたいです。魚が旅立った「こわい所」が死後の世界を意味するため、腑に落ちなくもない考察ですが、この辺りは自由解釈の分野ですね。

妹の死が作品に影響している?

実は『やまなし』は、初期の原稿と、実際に発表された原稿に違いがあります。

魚が行ったり来たりする様子を、蟹の兄弟が「何か悪いことをしてるんだよ。とってるんだよ。」と口にする場面がありました。しかし、初期の原稿では「いいねえ。暖かだねえ。」と呑気な台詞になっています。

以上のように平凡な台詞がシリアスな台詞に差し替えられた要因には、妹である「トシ」の死が関係していると言われています。事実、初期の原稿はトシの生前、修正版はトシの死後に執筆されているのです。

思想の問題で賢治は父親と度々仲違いしていたことは有名な話ですが、妹のトシだけは賢治の理解者だったようです。そのため賢治はトシが死んだ時には酷く取り乱し、「永訣の朝」など悲しみを歌った詩をいくつ創作しています。それどころか、彼女の死はその後の賢治の作風に大きな影響を与えたと言われています。

妹の死を経験した賢治は、より一層命にまつわる主題を深く考えるようになったのかもしれません。魚が悪いことをしている、つまり他の生き物の命を奪う行為を悪事だと主張する台詞をあえて挿入し、命は何のために生まれて、何のために失われていくのか、という途方もない最終的な思想を追求しようとしていたのかもしれません。

クラムボンの謎だけで解釈するには惜しいくらい、この『やまなし』という作品には賢治の人生経験に基づく思想哲学が潜んでいるのだと感じました。

電子書籍での読書がおすすめ!

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当ブログの筆者は長い間、アンチ電子書籍でした。

ところが電子書籍の魅力を知って以来、もう手放せない状況です。

「Kindle」の魅力については下の記事にて紹介していますので、アンチ電子書籍の人は騙されたと思って読んでみてください。

以上、宮沢賢治の『やまなし』のあらすじ考察を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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