川端康成『雪国』あらすじ解説|物語の意味をネタバレ考察

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雪国 散文のわだち

川端康成の小説『雪国』は、国内外で評価が高い近代文学の金字塔である。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

『雪国/川端康成』

この有名な一文に始まり、雪国という幻想的な異世界で、駒子と葉子2人の女性の生き方が美しい文章で描かれる。

ノーベル文学賞の審査対象となった作品だが、その内容は非常に難解で、一度読んだだけでは意味が分からないという声も多い。

そこで本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を詳しく考察していく。

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作品概要

作者川端康成(72歳没)
発表時期  1937年(昭和12年)  
ジャンル長編小説
ページ数173ページ
テーマ幻想的な異世界
女の美と哀しみ

あらすじ

あらすじ

雪国へ向かう列車の中で島村は、病人の男に付き添う葉子という娘を見かける。島村は窓ガラスの反射越しに葉子を見ていた。ガラスの上で外の風景と反射した葉子の顔が重なる映像に見惚れるうちに、島村は幻想的な異世界に連れ出される・・・

島村は芸者の駒子に会いに雪国へ来た。去年の5月に温泉宿で体を重ねた感触が忘れられなかったのだ。当時の駒子はまだ芸者ではなく人手不足の芸者を手伝う娘だった。1年越しに芸者になったのは、列車で葉子が付き添っていた病人(行男)の治療費を稼ぐためだと人伝えに知る。だが駒子と葉子と病人の男3人の関係性は分からない。

今度の滞在中、芸者の仕事で泥酔した駒子は毎晩島村の部屋に来る。駒子は島村に求愛すると同時に早く東京に帰れとはねつけたりもする。そして島村が東京に帰る日、駅まで見送りに来た駒子は、行男が危篤になったと葉子に知らされる。しかし駒子は頑なに病人に会いに帰ろうとしなかった。

2年後に島村は再び雪国へ訪れた。行男は既に亡くなり、葉子は毎日墓参りしていたが、駒子は1度もしないみたいだった。

ある晩、芸者で忙しい駒子は、葉子を使って島村に伝言を届ける。その際に島村は葉子と言葉を交わす。葉子は島村に対し、「駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです」と言って泣き出す。駒子と葉子にはいざこざがあるようだが理由は分からない。

数日後の夜、映画小屋が火事になる。島村と駒子が駆けつけると、炎に包まれた二階から葉子が落ちてくる。彼女は地上でかすかに痙攣してそのまま動かなくなった。駒子は虫の息の葉子を抱きかかえ、「この子、気がちがうわ、気がちがうわ」と叫ぶのだった。

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個人的考察

個人的考察-(2)

執筆背景と作品のモデル

川端文学の頂点とも言える本作『雪国』は、作者の実体験が題材になっている。

作中では故意に雪国の地名を隠している。しかし随筆集では、物語の舞台が上越国境の清水トンネルを抜けた新潟県の湯沢温泉であることを明かしている。

川端は1934年から1937年まで、新潟県の高半旅館を頻繁に訪れ、その時に出会った松栄という芸者が駒子のモデルだと言われている。またラスト場面の火事も実際の出来事らしい。

川端が滞在した旅館は現在は建替えられているが、雪国を執筆した部屋は保存され、また湯沢町の歴史民俗館には、モデルの芸者が住んでいた部屋を再現した「駒子の部屋」がある。

当時の詳しい背景は『川端康成随筆集』で読むことができる。

湯沢温泉に滞在した1935年に『雪国』の雑誌連載が始まった。そして1937年に単行本化されると文芸懇話会賞を受賞した。しかしこの時点では映画小屋が火事になる最終章は存在しなかった。1940年に続編の連載が始まり、7年間ひたすら改稿が繰り返され、太平洋戦争をまたいだ1947年に現在の完成形が刊行された。

なんと完成までに13年も費やしたのだ。

ここまで改稿が繰り返された作品は稀だが、しかし川端文学は総じて加筆修正が多い。その原因は、当初から完結した長編小説として書かれていないからだ。その場その場で書かれた短編を色々な雑誌に掲載し、最終的にそれらを1つにまとめて長編にした作品が多い。

実際に川端は『雪国』について次のように言及している。

息を続けて書いたのでなく、思い出したように書き継ぎ、切れ切れに雑誌に出した。そのための不統一、不調和はいくらか見える。

『雪国-あとがき-』

『雪国』に限らず、戦後の傑作『山の音』『千羽鶴』も、バラバラに雑誌に掲載され、単行本化する際には「どこで切っても構わない」という曖昧な状態で出版された。明確な結末を決めずに書き始めたので川端本人もどこで終わらせればいいのか分からなかったのだろう。

そのため本作『雪国』然り、川端文学は唐突に物語が終わるものが多い。慣れない読者だと困惑するかもしれないが、そのぶつ切り感が川端文学の味とも言える。

ただし『雪国』の場合は、結末のみならずあらゆる箇所がぶつ切りになっている。2度目の滞在から3度目の滞在に至るまでの期間や、駒子との夜の交わりの場面が省略され、また駒子と葉子の関係性もぼかされているので、物語の内容を理解するのが難しい。

そこで次章からは駒子と葉子に注目し、彼女たちの複雑な関係性、そして謎多きラスト場面の意味を考察していく。

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駒子と葉子の関係性について

物語は雪国へ向かう列車の中で葉子を見かける場面に始まる。葉子は病人の男(行男)に付き添っており、二人は夫婦のように見える。

ところが雪国に到着すると、駒子が行男の許嫁で、彼の治療費を稼ぐために芸者に身を崩したという噂を耳にする。それで急に3人の関係性が分からなくなる。

駒子本人は、自分は行男の許嫁ではないと否定する。二人は単なる幼馴染で、かつて行男の父親が二人を一緒にさせようと考えたが、特に関係が発展することはなかった。

つまり、葉子が行男の恋人で、駒子はただの幼馴染ということになる。

だとすれば、なぜ恋人でもない駒子が治療費を稼いでいるのか。その理由を知るには駒子の過去を振り返る必要がある。

駒子は少女の頃に東京に売りに出され、そこでお酌をしていた男と関係を持つが、男が亡くなると故郷の港町に帰った。故郷の港町でも男と関係を持ち、今も結婚を迫られているが、雪国に来た駒子はその男と別れたがっている。そして行男の治療費を稼ぐために芸者になった。

別の男からの求婚を断り、行男の治療費を稼ぐために芸者になった。愛していない男にそこまで献身的になれるわけがない。駒子は行男を愛しているのだ。しかし駒子は幼い頃から水商売の世界に売りに出され、好きでもない男に身を任せないとダメな境遇だった。だからはなから叶わぬ恋と諦め、二人が一緒になることはなかったのだろう。

実際に駒子はこんな台詞を口にする。

「なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人のほうが、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れたあとってそうらしいわ」

『雪国/川端康成』

好きだと言い出せなかった行男との関係に、今も駒子が執着していることがわかる。

しかし行男には既に葉子という恋人がいる。駒子からしたら葉子は恋敵で憎い存在だ。けれども駒子の恋心は胸に秘めたものであり、実際に叶ってはいないので、露骨に葉子を憎むことができない境遇にいたのだろう。

不可解なのは、行男の死に際に駒子が頑なに会いに行くの拒否したり、また彼の死後に墓参りを1度もしなかったことだ。これは矛盾しているように見えるが、おそらく葉子に対する憎しみと気後れが混じって、意固地になっていたのだと思われる。葉子の建前、行男を好きではない態度を取って強がっていたのだろう。

こう考えると駒子が内心で葉子を憎む理由は分かる。けれども葉子の方も駒子を憎んでいるように見える。それは葉子にとっても駒子が恋敵だったからだ。

確かに葉子は行男の恋人だった。彼女は一途に彼を愛しており、それは列車の中での看病、そして彼の死後に毎日墓参りをする姿から読み取れるし、一生のうちに行男以外の男の墓参りをすることはないとも宣言していた。

だがしかし、行男の方も一途に葉子を愛していたかは怪しい。

かつて駒子が東京に売りに出される際に、唯一見送りに来たのが行男だった。そして危篤の行男は死に際に駒子を呼ぶつける。それは行男が内心では駒子を想っていたからだろう。幼馴染以上の関係に発展することがなかった駒子と行男は、実は内心では好き合っていたのだ。

葉子は薄々そのことに感づいていたのだろう。そして愛する恋人が死に際に別の女を想っていたとしたら屈辱でしかない。

だから葉子は島村の部屋に来た際に、「駒ちゃんは憎いから」という意味深な言葉を口にしたのだと考えられる。

これらはあくまで推測であり、事実とは断定できない。なぜなら駒子と葉子の生活は、主人公の島村が雪国を訪れていない期間が大半を占めているからだ。その期間に彼女たちに何があったのかは我々読書には知る由もない。

そして彼女たちの生活を知らないからこそ、彼女たちの言動に矛盾を感じるのだ。

例えば葉子は、「駒ちゃんは憎いから」と毒ずいた後に、「駒ちゃんをよくしてあげてください」と労わる言葉を口にしたりする。

なぜ二人が憎み合いながら労わり合っているのか。そこには我々には知る由もない彼女たちのドラマがあり、それをあえて描かないからこそ物語に深みが出ている。

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ラスト場面の意味(気がちがう)

駒子は常日頃から葉子に、「気がちがう」という奇妙な言葉を浴びせていた。当初は憎い恋敵に対する暴言のように聞こえた。

しかし葉子が火事場から落下して来た最後の場面で、取り乱した駒子が「気がちがう、気がちがう」と連呼する姿からは、憎悪ではない別の想いが感じ取れる。

火事の直前に駒子は島村に対して、葉子の気がちがわないよう彼女を東京に連れて行って欲しいと頼んでいた。棘のある言い草だが、内心では葉子を労っているようにも聞こえる。

あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりそうな気がするの。(中略)あんたみたいな人の手にかかったら、あの子は気ちがいにならずにすむかもしれないわ。私の荷を持って行っちゃってくれない?

『雪国/川端康成』

将来的に葉子が駒子の荷物になる。その意味は不明確だが、1つ考えられるのは、葉子が自分と同じ芸者に身を崩し、その面倒を見てやらねばならない将来を危惧していたのではないか。そして駒子は自分と同じような人生を葉子には歩ませたくなかったのかもしれない。

作中では「徒労」という言葉が頻出する。それは駒子が叶わぬ恋の相手(行男)の治療費のために芸者に身を崩した献身的な姿を言い表したものだ。実を結ばぬ恋と知りながら自己犠牲を選ぶ駒子の人生はまさしく徒労である。

そして駒子は自分の徒労の人生を、将来の葉子に重ね合わせていたのではないか。

というのも、葉子は行男亡きあとも彼のことを想い続け、生涯彼以外の男の墓参りはしないと宣言していた。それはつまり、今後新しい男と一緒になるつもりはないという決心でもある。そして亡き恋人だけを想って生涯夫を持たないとすれば、葉子は自分ひとりで生計を立てなければならない。この雪国で女が生計を立てるには芸者に身を崩すしかない。

死んだ者のために身を崩すとなれば、それもまた徒労である。

駒子は自分が徒労によって身を崩し、芸者の仕事で毎晩悪酔して苦しい苦しいと嘆く過酷な人生を歩んでいるからこそ、葉子には同じ目に合わせたくなかったのだろう。

そして「気ちがいになる」と駒子が言っていたのは、葉子が自分のような惨めな境遇に陥る運命を暗示していたのではないか。それを回避させるために東京に連れて行くよう島村に頼んだのだと考えられる。

けれども最後の場面では、火事場の二階から葉子が落ちて来て虫の息になる。そんな葉子を抱きかかえた駒子は、「この子、気がちがうわ、気がちがうわ」と叫ぶ。

なぜ葉子が火事場から落ちてきたのか。彼女は生きているのか死んでいるのか。色々な解釈ができると思うが、これは実際に火事に巻き込まれたというより、葉子が身を崩して過酷な人生に落下して来たことを比喩的に描いていたのではないか。

そう考えれば、「この子、気がちがうわ、気がちがうわ」という駒子の台詞も腑に落ちる。

虫の息の葉子を抱く駒子の姿は、「自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた」と記される。それは葉子を自分と同じ暗い人生に引きずり込んでしまったことに対する駒子の罪悪感が表れていたのかも知れない。

以上が『雪国』の個人的考察である。

『雪国』は登場人物の感情を中心に描いた抒情小説であるため、作中の出来事には論理性や一貫性が欠けている。人間の感情が矛盾に満ちているように。

そのため、作中の出来事を論理的に考察するよりも、むしろその出来事が一体何を暗示しているのかを想像すれば、物語の面白みがぐっと増すだろう。

あるいは川端康成の美しい文章を愉しむだけでも十分に価値がある。

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