昭和初期を代表する文豪・梶井基次郎。
代表作『檸檬』は高校現代文の教科書に掲載されているため、誰でも1度も目にしたことがあるのではないでしょうか。
生まれつき病弱だった梶井は、結核で亡くなるまでの31年間、病の苦しみや憂鬱を詩的な文体で描き、20編あまりの作品を残しました。
しかし生前はほとんど評価されず、死後に再評価された不遇な作家のひとりでもあります。
一方で私生活では酒癖が悪く、女にモテず、遊郭で童貞を卒業するなど、破天荒な生活を送っていたことで有名です。
本記事では、そんな梶井基次郎の破滅的で面白いエピソードを紹介します。

あまり知られていない梶井基次郎の生涯を徹底機に解説します!
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梶井基次郎のプロフィール

ペンネーム | 梶井基次郎(31歳没) |
生没 | 1901年ー1932年 |
出身 | 大阪 |
死因 | 結核 |
作風・派 | 新興芸術派 デカダンス |
主題 | 孤独 ニヒリズム |
代表作 | 『檸檬』 『城のある町にて』 『櫻の樹の下には』 『冬の日』 |
▼参考文献
梶井基次郎の生い立ちと人生
31歳の若さでこの世を去った梶井基次郎は、生涯20遍あまりの作品を遺し、代表作の「檸檬」は学校の教科書にも掲載され、今や近代文学の主要な人物として扱われている。
しかし生前はほとんど評価されることなく、病をはじめ苦難に満ちた人生を送った。
梶井基次郎は1901年(明治34年)に大阪で生まれた。両親は明治維新で没落した商売人で、父親は貿易会社に勤務していた。この父親が家庭を顧みず、金も入れない典型的な飲んだくれで、生活に窮した母親は子供を道連れに身投げ自殺を思い詰めたこともあったという。
一方で教育熱心な母親は、「万葉集」「源氏物語」などを子供に読み聞かせ、与謝野晶子や岡本かの子の話をし、梶井基次郎の文学のルーツは母親にあると言える。
そんな梶井はもともと川遊びが好きな元気な子供だったが、17歳で結核性の病を患ったことで学校を欠席することが多くなり、その頃から森鴎外や夏目漱石の作品を読み耽るようになる。
とりわけ夏目漱石の作品に心酔し、初恋の想いを友人らに手紙で書き送り、その手紙に漱石の失恋詩を書き写したり、「Strey sheep」「梶井漱石」と署名するほどだった。
ファンゆえに漱石になりきる可愛らしい側面が窺えるが、この頃から梶井には「何者かになりたい」という願望が強く、それが文学を志す動機になっていく。
もっとも当初、梶井は住友電気工業に入社した兄の背を負い、自分も電気エンジニアになるべく工業大学を受験した。しかし不合格となったことで、その後は必死に勉強して第三高等学校に進学する。
三高とは現在の京都大学のことであり、今も昔も変わらぬ超エリート校。
当時は大正デモクラシーの真っ盛り。三高には「ハイカラ」に対するアンチテーゼとして「バンカラ」なる風潮があり、粗野で荒々しい振る舞いが良しとされていた。
あっさりその風潮に染まった梶井は、裸足で大学に登校したり、酒を飲んで暴れたり、三高きってのバンカラ大将になっていく。そして梶井の破天荒なエピソードは、この三高時代に集中している。
文豪の破天荒なエピソードは「無瀬」だの「デカダンス」だの高尚に解釈されるが、はっきり言って梶井の滅茶苦茶な言動は、酒を覚えた大学生の典型的なそれである。
梶井基次郎の酒乱エピソード
梶井の生活はだんだん乱れだした。酒の上の乱暴も甚だしくなった。(中略)その夜梶井は料理屋にいる間は、床の間の懸物に唾を吐きかけて廻ったり、盃洗でとんでもない物を洗って見せたり、限りない狂態を尽くしていた。
(中谷孝雄「梶井基次郎──京都時代」より)
元同級生が暴露したところによると、梶井の酒癖の悪さは天下一品で、酒を飲んではひと暴れし、出禁になった店も多くあるのだとか。
- ラーメン屋の屋台をひっくり返した
- 料理屋の掛物に唾を吐きかけた
- 焼き芋屋の釜に牛肉を投げ込んだ
- 店の池に飛び込み鯉を追っかけた
100年前の出来事だから笑い話で済むものの、今でも似たような蛮行をSNSに投稿して大問題になる大学生がいるような・・・
こうした放蕩ぶりがたたって持病の結核性の病が進行し、療養のために休学せざるを得なくなるのだが、文才のある梶井は自身の放蕩を憂鬱にかこつけて文学に昇華するのだから、やはり文豪は憎めない。
ここで代表作『檸檬』の一説を見てみよう。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧さえつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか──酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。
(梶井基次郎「檸檬」より)
私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。
(梶井基次郎「檸檬」より)
酒を飲んでは「えたいの知れない不吉な塊」に苦しめられ、ここじゃないどこかへ行きたいと願うこの感覚。
梶井の心をじわじわと締め殺した憂鬱の正体とは、結局は女にモテなかったことが原因なのではないかと思う。
モテない文豪の童貞卒業秘話
がっしりとした体格で、無骨な顔つきが特徴的な梶井基次郎。
言葉を選ばずに言うなら典型的なゴリラ顔、決して女性にモテるイケメンとは言えない。
実際に彼の生涯は女性に恵まれず、本人すら「女に好かれない怪奇な顔」と自身のモテない容姿を認めていたほどだ。
1921年、当時20歳の梶井は女性経験のない童貞だった。当時の貞操観念は定かではないが、20歳の大学生ともなれば性欲は凄まじく、ひたすら自慰に明け暮れていたことだろう。
そんな梶井はある夜、男友達と酒をあおってへべれけに酔っぱらうと、八坂神社前の電車道で大の字に寝転がってこう叫んだという。
「俺に童貞を捨てさせろ!!!」
ここまではっきり言われるとむしろ気持ちいいくらいである。そこで友人たちは近くの遊郭へ梶井を連れて行ったのだが、いざ遊女が現れると梶井は意図的にゲロを吐いて遊女を困らせたのだとか。童貞を卒業したい一方で、初体験に対する理想を捨てきれない彼なりの抵抗だったのかもしれないが、最終的には大人しく遊女と部屋に入って行った。
こうして梶井はプロの女性に筆下ろしをしてもらい、いわゆる素人童貞になったのだが、料金を支払う段になって彼は友人たちにこんな愚痴を溢し始める。
「俺は純粋なものが分からなくなった」「堕落してしまった」
日記の中でも自らを「ソドムの徒」と称して、童貞卒業の背徳感情を綴るなどしている。終わった後の賢者モードで、遊郭で童貞を卒業したことに激しい自己嫌悪でも感じたのだろうか。
遊郭でどのような筆下ろしが行われたのかは不明だが、純真で繊細な梶井には耐え難い経験となったようだ。
ことごとく女性にフラれる
本人すら「女に好かれない怪奇な顔」と認めていた梶井だが、その言葉通り、彼はことごとく女にふられる生涯を送った。
20歳の梶井は電車通学の最中に、同志社女学校の生徒に一目惚れする。彼はどうすれば自分の思いを女学生に伝えられるかと恋煩いする。
散々悩んだ挙句、梶井は自分が持っていた英詩集の中で、男が女に告白する台詞が綴られたページを引きちぎって、電車の座席に座る女学生の膝の上に置いた。見ず知らずの男に急に車内で紙切れを突き付けられるのだから、女学生はさぞ怖かったに違いない。
後日、電車で再会した折に詩集を読んでくれたかと尋ねると、女学生は大変迷惑そうに「知りません!」と言ってそっぽを向いた。梶井の告白は真摯に受け止められないどころか、女学生に恐怖感を与えてしまったのだった。
またある時は、小説家の尾崎士郎の妻である宇野千代に惚れる。彼女を含む大勢で散歩をする機会があったのだが、川の流れが激しい場所に差し掛かり、集団の誰かが「こんな潮の強いところは泳げない」と口にした途端、梶井は着物を脱いで橋の上から川に飛び込んだ。
千代の気を引くためのパフォーマンスだったのだろうが、千代は当時を振り返って、「この人は危ない、と私が思った最初でした」と回想録に綴っている。
それでも梶井は千代を諦められず、彼女を取り合って夫の尾崎四郎と決闘することになる。ほとんど一発触発の状態だったが、周囲の取りなしもあって殴り合い寸前でことなきを得る。
詳しい経緯は不明だが、その後尾崎と千代は破局することになり、梶井はまさかの略奪愛に成功したかのように見えた。しかし後年のインタビューで千代は、梶井と肉体関係がなかったことを明言している。その理由は「自分は面食いだから」だったそうだ。
本当に檸檬が好きだった
梶井といえば「檸檬」のイメージが定着しているが、実際に彼は大の檸檬好きだった。
リプトンの紅茶を好むほか、檸檬を浮かべたプレーンソーダを頻繁に飲み、常日頃から檸檬を丸ごと持ち歩いていた。
どれほどの間握りしめていたかも分からない、手垢まみれの檸檬を友人の作家にプレゼントすることもあったのだとか。
「それ食ったらあかんぜ」
そう言って梶井から手垢まみれの檸檬を渡された友人は、一体どんな気持ちで受け取ったのだろうか。
普通にいらんではないか。
また檸檬以外の果物を眺めるのも好きだった梶井は、川端康成の奥さんから貰った林檎を夜通し磨いてピカピカにして床の間に飾っていた。その林檎を三好達治がかじると、梶井はいきなり無言のまま三好の頭をなぐったらしい。変わり者というか、ちょっと面白い。
されど天才的な感覚の持ち主
ここまで散々、梶井基次郎の変人ぶりを語ってきたのだが、変人と天才は紙一重というか、彼の美的感覚は著しく優れていた。
有名な話では、梶井は常人よりも五感が過敏だったと言われている。
- 100メートル先の花の匂いを判別できる
- 別部屋の話し声が分かる
- 外から帰ってくる人の下駄の音で、その人の感情が分かる
- 汁物に少しでも砂糖が入っていれば言い当てる
音楽好きで楽譜も読めた梶井には、様々な生活音すらも音楽に聞こえたのだとか。
梶井の耳には、汽車の車輪の音も、雨の音も、鉛筆の走る音さへも、楽しい音楽に聞えたり、時には我慢出来ない音楽に聞えたりした。また彼の目は、空の色を、雲の色を、椎茜の色を、さうして闇の色さへも見分けられた。さうしていつも楽しさうにそれを話した。
外村繁「梶井基次郎のこと」
これら常人離れした感覚があったからこそ、詩的で繊細な文章表現に長けていたのだろう。
儚い死に様
大正時代から昭和初期にかけて、結核が人々に与えた影響は凄まじかった。当時は不治の病だったため文学の世界において、死にまつわる主題を発展させたとすら言われている。
梶井は20歳になる前から肺結核を患っており、31歳で亡くなる最期まで苦しみ続けた。自らの死を予期していた彼は、まさしく「死」が主題の作品を多く残している。
三高を卒業して東京帝国大学に進学し、晴れて東京で文学に打ち込めると思った矢先、わずか2年後には病状が進み、湯ヶ島温泉での転地療養を余儀なくされる。
療養中の梶井は、自らの病苦を題材にした陰鬱な作品を生み出したほか、ドッペルゲンガーを題材にした幻想文学にも着手している。
当時いくつかの短編小説が雑誌に掲載されたことで、梶井は本格的に執筆を開始するが、同時に結核がかなり進行し、血痰が出るまで悪化していた。病気と闘いながら執筆に取り組み、一度は締め切りを延ばしてもらったものの、ついには作品の構想がまとまらず、新潮社に頭を下げて破約という形になった。
病気と執筆の焦りから梶井は毎晩寝床で「お前は天才だぞ」と3度繰り返して自己暗示をかけていた。そうしたギリギリの精神状態で書き上げたのが幻想文学『Kの昇天』だった。
若くして隠居し死の恐怖と対峙する生活。それがいかに過酷であったかは、『冬の日』『冬の蝿』などの作品に生々しく綴られている。
31歳になった頃には既に死の床についていた。呼吸困難、心臓機能の低下、食欲の減衰。一方で家族や医者に当たり散らして、気に入らない看護師を帰らせたりと頑強だった。
手の尽くしようがないと言った母に対して、最後に梶井は「私も男です。死ぬなら立派に死にます」と自らの惨めな境遇を悟り受け入れ、息を引き取ったのだった。
人生の大半を死の恐怖と対峙する羽目になった惨めな文豪・梶井基次郎。
その背景を知った上で彼の作品を読めば、「えたいの知れない不吉な塊」の正体がわかるのではないだろうか。
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