宮沢賢治『雨ニモマケズ』全文紹介|現代語訳で解説

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雨ニモマケズ 散文のわだち

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、日本で最も有名な詩作品です。

実はこの詩が広まった経緯には、国家権力が関係していた・・・?

本記事では、全文を紹介した上で、内容を考察しています。

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作品概要

作者宮沢賢治(37歳没)
執筆時期  1931年(推定)  
ジャンル
テーマ賢治の理想と葛藤

『雨ニモマケズ』全文

全文-(1)

雨ニモマケズ
(雨にも負けず)
風ニモマケズ
(風にも負けず)
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
(雪にも夏の暑さにも負けない)
丈夫ナカラダヲモチ
(丈夫な体を持ち)
慾ハナク
(欲はなく)
決シテラズ
(決して怒らず)
イツモシヅカニワラッテヰル
(いつも静かに笑っている)
一日ニ玄米四合ト
(1日に玄米を4合と)
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
(味噌汁と少しの野菜を食べ)
アラユルコトヲ
(あらゆることを)
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
(自分を勘定に入れずに)
ヨクミキキシワカリ
(よく見聞きし分かり)
ソシテワスレズ
(そして忘れず)
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
(野原の松林の陰の)
小サナブキノ小屋ニヰテ
(小さな萱葺の小屋に住んで)
東ニ病気ノコドモアレバ
(東に病気の子供がいれば)
行ッテ看病シテヤリ
(行って看病をしてやり)
西ニツカレタ母アレバ
(西に疲れた母がいれば)
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
(行ってその稲の束を背負ってあげ)
南ニ死ニサウナ人アレバ
(南に死にそうな人がいれば)
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
(行って怖がらなくても大丈夫だと励まし)
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
(北に喧嘩や訴訟があれば)
ツマラナイカラヤメロトイヒ
(つまらないからやめろと言い)
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
(日照りの時には涙を流し)
サムサノナツハオロオロアルキ
(寒い夏はおろおろ歩き)
ミンナニデクノボートヨバレ
(みんなにデクノボウと呼ばれ)
ホメラレモセズ
(褒められもせず)
クニモサレズ
(苦にもされず)
サウイフモノニ
(そういう者に)
ワタシハナリタイ
(私はなりたい)

『雨ニモマケズ/宮沢賢治』より

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個人的考察

個人的考察-(2)

正式に発表された詩ではない

37年で生涯を終えた宮沢賢治は、生前に殆ど作品を発表していません。

生前に刊行されたのは、童話集『注文の多い料理店』と、詩集『心象スケッチ 春と修羅』のみです。いずれも自費出版で、殆ど売れずに賢治本人が買い取る羽目になりました。

要するに、我々が慣れ親しんだ作品の多くは、賢治の死後に発見されたということです。ましてや、『雨ニモマケズ』に関しては、懐中手帳の殴り書きのようなメモに過ぎません。

他人に見られることを想定しない、本当に純粋な賢治の気持ちが綴られた文章だったのです。ある種、商業性やエゴなどから解放された、最も高尚な芸術と言えるかもしれません。

『雨ニモマケズ』のメモが発見されたのは偶然でした。

賢治が死んだ翌年に、「宮沢賢治友の会」が開催されました。招待された賢治の弟は、賢治が愛用していた革のトランクを遺品として持ってきました。そして、偶然トランクの蓋裏のポケットから懐中手帳が発見されたことで、『雨ニモマケズ』の存在が明らかになったのです。

この懐中手帳は通称『雨ニモマケズ手帳』と言われています。全166ページの手帳には、詩のみならず、賢治の自省や願望などがびっしり綴られています。

ちなみに『雨ニモマケズ手帳』は、レプリカが製作され、宮沢賢治記念館や、岩手の花巻空港のショップなどで販売されています。

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執筆の経緯(死期を悟る賢治)

賢治がこの手帳を使用していたのは1931年です。冒頭部に「11.3.」と記されていることから、『雨ニモマケズ』は同年の11月3日に執筆されたと推定されています。

その当時の賢治はひとつの転機にいました。

1926年に花巻農学校の教員を辞職した賢治は、百姓になることを決意し、農民運動を展開します。しかし、この運動は2年4ヶ月で挫折します。肥料相談や稲作指導に奔走していた賢治は、疲労困憊の挙句に倒れ、病床に臥すことになったのです。

1930年には体調が回復に向かいます。その頃、石灰岩とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売に賛同した賢治は、1931年には石工場の技師として働き始めます。ここでも賢治は、製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り、販売などで東奔西走します。

農閑期に石灰が売れなくなると、石灰の壁材料への転用を考え、賢治はビジネスで上京します。しかし、賢治は上京した旅館「八幡館」で高熱に襲われ、とうとう死を覚悟します。実際にこの時に両親宛の遺書を執筆しています。

最後の別れのつもりで父親に電話をかけると、花巻に戻る手立てがなされ、賢治は実家で病床に臥すことになりました。今度こそ死を予期していた賢治ですが、実際に彼が亡くなったのは2年後の1933年でした。1931年の時点では、死期を免れていたのです。

そんな死を覚悟しつつも猶予を与えられた時期に、賢治はこの『雨ニモマケズ』を執筆したのでした。

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詩に込められた賢治の願望

我々は『雨ニモマケズ』を読む時に、しばしば宮沢賢治の人間像をそこに見出します。

しかし、末尾の「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という言葉から分かるように、これは賢治の願望です。つまり、賢治には「サウイフモノ(そういうもの)」になれない葛藤があったということでしょう。

前述の通り、本作が執筆されるまでに、賢治は2度も病床に臥しています。一度目は農民運動に粉骨砕身した結果に倒れました。二度目は石灰のビジネスで上京した際に高熱に襲われ、死まで覚悟しました。

いずれも賢治は人々のために努めた結果、その最中に挫折を余儀なくされたのです。

賢治は『農民芸術概論綱要』の中で、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と記しています。

あるいは、代表作『銀河鉄道の夜』では、「本当の幸」は、他者のために命を燃やす自己犠牲の美学にあると説いています。

だからこそ賢治は、自ら農民運動に力を入れ、花巻という土地において、洗練された学問の知識によって百姓たちを導こうとしました。ところが、病弱な賢治はそれを最後までやり遂げることが叶わなかったのです。

詩の中には、「雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ」という一説があります。まさに病弱な賢治にとって、健康こそ痛切な願望であったことが読み取れます。

また賢治が農民運動として設立した「羅須地人協会」では、農民芸術の講義や、レコードの鑑賞会、童話の朗読会などに取り組みましたが、保守的な農民から理解を得られずにいました。挙句、賢治の活動は社会主義教育とみなされ、警察に目をつけられます。

詩の中に「決シテいかラズ」という一節がありますが、「」とは仏教用語の「瞋恚しんに」のことで、「自分の心に逆らうものに対し、怒り、恨む」ことを意味します。

農民たちや、あるいは社会に対して、自分の考えが理解されないもどかしさの中で、賢治は自分を戒めるために、「いかラズ」という言葉を用いたのかもしれません。

このように、『雨ニモマケズ』とは、賢治の理想であり、その通りに進まない現実にぶち当たった苦悩が隠されているのでした。

聖人君子としての賢治像だけでなく、その背景に苦悩が隠されていたと考えると、一層詩に深みが増すと思います。

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『雨ニモマケズ』には続きがあった

「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」で完結だと思っている人も多いこの詩は、実は以下の文が続きます。

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

賢治が法華経の信仰に熱心だったことは有名です。(実家は浄土真宗の門徒であったため、父親と激しく対立しました)

『雨ニモマケズ』の見開きの左にこの題目が記されているので、詩の一部と解釈する場合もあれば、別物と解釈する場合もあります。

そもそも世間に発表することを想定した「作品」とは考えにくいため、詩の一部かどうか、という観点で考察するのはナンセンスに思います。つまり、賢治の胸中においては地続きの文に違いないでしょう。

「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という賢治の理想と、そうなれない現実の葛藤。その果てには人力を超えた、信仰の世界の題目でしか語り得ない領域があったのかもしれません。

そう考えると、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」という月並みな詩句には、どこか狂気じみた強烈な意志が込められているように感じます。

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軍事利用されて有名になった

生前は評価されることがなかった宮沢賢治。

そんな彼が、日本中で注目されるようになったのは、戦時中、軍国主義の時代です。

きっかけは、大政翼賛会が刊行した詩集に『雨ニモマケズ』が掲載されたことです。「欲しがりません、勝つまでは」と同様、『雨ニモマケズ』は、戦時中にあるべき日本人の姿として、権力者によって啓蒙されていったのです。

確かにそういった観点から読むと、忠誠心を歌った詩に見せかけることも可能です。

また戦後には、教科書にも掲載されます。基本的に戦時中に流行った言葉は一掃されたにもかかわらず、『雨ニモマケズ』だけは残されました。戦後の窮乏を耐えて生きる日本人の背中を押す思想として、またしても権力者に利用されたのです。

ちなみに、教科書に掲載するにあたり、「一日ニ玄米四合」の部分は、「三合」に変更されました。玄米4合は多すぎるため、「三合」に修正すれば掲載してもいい、とGHQに支持されたのです。

太宰治の師匠、井伏鱒二は、代表作『黒い雨』の中で、「国家がそんな改ざんをすれば、いずれ子供たちは国の発言を信用しなくなる」と記し、『雨ニモマケズ』の詩の一部が変更されたことに意義を唱えました。

このように国家権力に翻弄された『雨ニモマケズ』は、日本人にとってのあるべき姿、道徳心の象徴として我々の意識に溶け込んでいます。

しかし、実際は賢治本人が自省的に記したメモであり、そうなりたいけどなれない葛藤を表したものです。あくまで賢治の「ありたい姿」であり、それを国民の「あるべき姿」として強要するのは、賢治に対する冒涜であり、コンテキストを排除した頭の悪い人間の所作です。

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ドラマ『宮沢賢治の食卓』

宮沢賢治の青春時代を描いたドラマ、『宮沢賢治の食卓』が2017年に放送された。

農学校の教師をしていた頃の、賢治の恋や、最愛の妹トシとの死別を、鈴木亮平主演で描いた感動ドラマである。(全5話)

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▼ちなみに原作は漫画(全2巻)です。

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