志賀直哉『城の崎にて』あらすじ考察 実体験を基に死生観を語る私小説の金字塔

城の崎にて 散文のわだち
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志賀直哉の短編小説『城の崎にて』と言えば、日本の代表的な私小説のひとつです。

作中に登場する死を想起させる様々な物事について考察することで、志賀直哉が見出した死生観を紐解いていきます。

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『城の崎にて』作品概要

作者志賀直哉(88歳没)
発表時期1917年(大正6年)
ジャンル短編小説
私小説
心境小説
テーマ死生観

※志賀直哉の作品は著作権が切れていないため青空文庫にありません。

『城の崎にて』簡単なあらすじ

山手線の電車にはねられ怪我をした主人公は、後養生のため城崎温泉を訪れます。一歩間違えれば死んでいた身の上を思い返すと、死に対して孤独な印象を抱く一方で、不思議と親しみのようなものも感じるのでした。

主人公は一匹の蜂の死骸を見れば、静かな死に対する親しみが芽生えました。ところが、川に投げ込まれた鼠が生きようと必死に逃げ惑っている姿を見れば、死の直前の抵抗の苦しみが想起されました。

ある日、道端のイモリを驚かそうと思い、主人公が石を投げると偶然命中して死んでしまいます。殺すつもりはなかったため哀れみを感じるのと同時に、生死を司るのは「偶然」だということに気づきます。そして、生と死は両極ではなく、密接な関係にあると悟るのでした。

『城の崎にて』個人的考察

志賀直哉の実体験

事故の後養生のために城崎へ来た主人公が、死生観について考えを巡らす物語でしたが、実はこれらは志賀直哉の実体験です。

1913年8月、素人相撲を見て帰る途中、線路の側を歩いていた志賀直哉は、山手線の電車にはね飛ばされ重傷を負います。

幸い一命を取り留めた志賀直哉は、療養のために兵庫県の城崎温泉へ訪れ、その時の出来事が私小説として描かれているのです。

志賀直哉と言えば、父親との不和が有名です。『城の崎にて』が執筆された時期はまだ和解する前でした。この時期にはあらゆる問題が彼を苦しめていました。

  • 父親との不和
  • 長編小説『時任謙作』の失敗
    →後に『暗夜行路』として完成
  • 予期せぬ電車事故

以上の問題から、志賀直哉は精神的に追い詰められていたのだと思います。

本当に死にかけた実体験、そして精神的に弱っていた時期だからこそ、妙に生々しい観察力で死生観を文章に起こすことが出来たのかもしれません。死に対して親しみを感じている点からも、彼の精神が落ち込んでいることが見て取れます。ここまで深みのある表現ができるのは、まさに私小説としての凄みに他なりません。

本作『城の崎にて』は、無駄のない文体と適切な描写から無類の名文とされ、教科書にも掲載されています。

ちなみに父親との軋轢が和解した出来事は、中編小説『和解』で描かれていますので、是非チェックしてみてください。




死生観【ロード・クライヴの場合】

作中に登場する「ロード・クライヴ」とは、18世紀に実在したイギリスの軍人です。

彼の自伝の中には、命拾いした経験に起因する次のような死生観が記されていたようです。

自分が死ななかったのは、何者かが自分を殺さなかったからで、自分にはまだこの世ですべきことがある

何者かに生かされたのだから精一杯生きよう、という前向きな死生観です。

志賀直哉も同様の境地に行きたいと願っていました。死にかけた経験に人生を鼓舞されるような境地です。されど彼はロード・クライヴのように、生に対する強い執着を抱くことはできませんでした。むしろ、死に対して親しみのようなものさえ感じていました。

果たして、死に対する親しみ、とはいかなる概念なのでしょうか?

死生観【蜂の場合】

主人公が宿泊している部屋は二階でした。部屋から見える一階の屋根には蜂の巣があり、一匹だけ死んでいる蜂がいました。他の蜂はその死体に目もくれず一生懸命に働いています。

その様子を見た主人公は、死に対して寂しさを感じます。死んだら誰にも相手にされない、という寂しさです。

その一方で、死んだ蜂に対して「静かさ」も感じていました。死んでしまえば、その先にはもう何もなく、「静かさ」だけが残るのです。

その「静かさ」に対して、主人公は親しみを感じていました。

生きている限り時間は流れ、あらゆる物事が押し寄せます。志賀直哉にすれば、父親との不和や、執筆のプレッシャーが現実問題として押し寄せます。そのため、死んでしまえば二度と苦悩と遭遇することのない「無」なる静かさに到達できる、という死生観に惹かれていたのかもしれません。

本当の意味での精神的な幸福は、死ぬ以外では手に入れることができない、というある種の最終的な思想のように感じます。

死にかけた経験のない人間からすれば、死に対して想像もつかないほどの恐怖を抱くでしょう。されど、一度死を目前にした人間は、死に帯びる静かさという概念に魅了されるのかもしれません。




死生観【鼠の場合】

喉に串の刺さった鼠が川でもがいていました。害虫駆除として人間が川に投げ入れたのです。見物人たちは、川の中の鼠に向かって石を投げつけて楽しんでいました。鼠は生きようと必死で石垣に登ろうとします。ところが喉に突き刺さった串が石垣に引っかかって上手く登れませんでした。

鼠の様子を見た主人公は恐ろしい気持ちになります。死に帯びる静けさに親しみを持っていても、死ぬ間際には生きるためにもがき苦しまなければならない、と知ったからです。

思い返せば主人公も、電車に轢かれ際に、生きるための行動をとっていました。不思議と死に対して恐怖は感じなかったものの、かなり冷静な思考で周囲の人間に病院の手配などを頼んでいました。無意識のうちに生きるための行動をとっていたのです。

あるいは事故による怪我が致命的ではないと知らされた時に安心している自分がいました。

これらの実体験から、自分がどれだけ死に対して親しみを持っていても、いざ死が目前に迫れば本能的に助かろうと努力してしまうのだと気づきます。

そのもがき苦しむ様があまりにも残酷に感じ恐怖を覚えたのです。主人公は、自分と鼠には何の違いもないのだと悟るのでした。

死生観【イモリの場合】

石段の上に居たイモリを驚かすつもりで、主人公は石を投げつけます。それが偶然イモリに直撃して死んでしまいます。

その時に主人公は、死とは偶然が司っているのだと気づきます。

殺すつもりなどなく投げた石によってイモリは死にました。あと1センチ石がずれていたら、イモリは死ななかったでしょう。同様に、主人公は電車事故で偶然助かったものの、あと数センチずれていたら死んでいたかもしれません。

このように、偶然によって死ぬ命と、偶然によって生かされる命があります。

これらの体験から主人公は、生と死が密接なものであると悟ります。一般的に生と死は両極に位置するように感じますが、本当は隣り合わせだということです。

ロード・クライブのように、生きていることに感謝しなければいけないと思う一方で、死に対して親しみを感じてしまう矛盾。

それは決して矛盾などではなく、生と死が表裏一体である故に、そのような相反する感情が生まれるのだと、志賀直哉は城崎での生活の中から気づいたようです。




まとめ

  • ロード・クライヴ
    →生かされた命は全うすべき

  • →死の静けさに親しみがある

  • →死ぬ前には悶え苦しむ恐怖がある
  • イモリ
    →死は偶然が司っている

生と死は表裏一体である故に、片方だけを強く望むことは難しい

つまり、死に親しみを感じながら、死に恐怖を感じるような矛盾も成り立つ。

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以上、志賀直哉の『城の崎にて』のあらすじ考察を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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