【永井荷風の変人エピソード】幸福な孤独死を遂げた奇天烈な文豪

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永井荷風2 文豪のわだち

明治から昭和にかけて活躍した文豪・永井荷風。

その生き様は奇想天外で、日常生活で奇行が目立ち、最期は孤独でした。

本記事では、そんな永井荷風な変人エピソードを紹介します。

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永井荷風のプロフィール

ペンネーム永井荷風(79歳没)
本名永井荘吉
生没  1879年ー1959年  
(明治5年ー昭和34年)
出身地東京都小石川区
死因孤独死
主題フランス文学
放蕩趣味
江戸情緒
代表作『あめりか物語』
『ふらんす物語』
『濹東綺譚』
『腕くらべ』

▼参考文献

遊学で有名なお坊っちゃま

永井荷風の代表作が瞬時に思い浮かぶ人は少ないかもしれません。なぜなら彼の作品は学校教育とはあまり縁がないからです。

最高傑作と称される『濹東綺譚ぼくとうきたん』は、娼婦との交流が題材になっています。

あるいは『ふらんす物語』は、自身のフランス遊学の経験をもとに執筆されたのですが、文中の政府批判や文化論が、日本国内の風俗を乱すという理由で目をつけられ、発禁処分になってしまいます。

とは言え、それほど過激でもない内容なのですが、なぜ政府に目をつけられたのか。それは永井荷風が良家のお坊っちゃまで、家柄的に名が世間に轟いでいたからです。

生家は学者肌で、父はエリートの官僚でした。結果的に永井荷風は働かずとも生涯暮らしていけるだけの財産があったので、のうのうと文学の道に進むことができました。しかし、厳格な父によってアメリカ留学を強いられ、一時は銀行員として働いていました。ところが実際はアメリカ留学では娼婦と交流するなど極楽な様子だったみたいです。その四年後にはフランスへ遊学し、オペラなど西洋の文化を嗜みました。

夏目漱石がイギリス留学で神経を病んだのは有名な話です。対照的に、森鴎外はドイツ留学で恋人を作った強者でした。永井荷風はどちらかというと後者の種類の人間で、異国でもやりたい放題お気楽でいられる強靭な精神の持ち主だったみたいです。

明治時代から大正時代にかけて西洋の文化が流入したと言えど、実際は日本と西洋の間には大きな落差がありました。良家のお坊っちゃまである永井荷風は、親の財産で悠々自適にアメリカ、フランス遊学を堪能し、その経験を作品にしたためて、一躍有名作家に上り詰めたというわけです。

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遊郭とストリップに通い詰める

20代は海外遊学をして西洋文化を嗜み、30代になると大学教授を務めて、父の勧める女性と結婚します。一般的な観点から言えば、「ザ・安泰」です。むしろ、ブルジョワの優雅な人生のど真ん中です。

ところが、34歳の頃に父が死ぬと、何かのたがが外れたように、永井荷風は急に結婚生活を解消し、再婚、離婚を繰り返します。艶っぽい話は数しれず、生涯で関係を持った女性は指折りでは数えられないと言われています。

そのお多感ぶりは若い頃だけに留まらず、なんと57歳にして回春にどハマりし、現在の東京都墨田区にかつてあった私娼街「玉の井」に通っていました。なんと多い時には月に10回以上遊びに行っていたのだとか・・・。

永井荷風は『断腸亭日乗』という日記をしたためていたのですが、その中には娼婦たちのリストを整理しており、中でも「お富」という私娼にゾッコンだったようです。

「女好きなれど処女を犯したることなく又道ならぬ恋をなしたる事なし」

『断腸亭日乗/永井荷風』

上記のように永井荷風は、下手に素人に手を出すのではなく、ガッツリ玄人に溺れていった種類の男だったのです。金銭で取り持つさっぱりした関係なので、芥川龍之介や太宰治のようにヤバい恋愛に堕落することがなかったのかもしれません。

ちなみに、永井荷風は浅草のストリップ劇場「ロック座」に通っていたことでも有名です。萩本欽一、坂上二郎、ビートたけしをはじめ、多くの有名人を輩出した喜劇の聖地です。もちろんスケベ心から永井荷風は足を運んでいたのでしょうが、それすらも作品として昇華させたのですから、ある意味ではストリップは当時の最先端のカルチャー発祥の場所だったのかもしれません。その地盤を彼が固めたと言っても過言ではないでしょう。

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アルペルガー!?奇行が目立つ

結婚、離婚を繰り返し、最終的に独り身に落ち着いた永井荷風は、晴れてハッピーソロライフを堪能します。

もとより働かずとも食っていける裕福な家庭のお坊っちゃまです。彼は理想的な隠居生活を求めて、「偏奇館」という屋敷を構えます。偏屈で奇天烈な彼に相応しい名の住処ですね。

当時の彼はまだ39歳で、隠居するには少し早いような気もします。ところが、彼は孤独と親しむことに慣れた人間で、隠居生活に幸福を見出し、一人楽しく暮らしていたみたいです。

ところが太平洋戦争の空襲によって「偏奇館」は焼け落ちてしまいます。その頃は永井荷風もいよいよ本物のお爺ちゃんになっていました。住処を失った永井荷風は、数年間いとこの家で世話になります。しかし、その居候生活は間も無く破綻します。なぜなら永井荷風の奇行が目立ったからです。

  • 畳の部屋で七輪を焚く
  • 窓から庭に向けて放尿する
  • 隣の部屋のラジオがうるさいからと言ってそれを上回る騒音を立てる

いくらいとこの家でも、さすがに言動がイカれています。ハッピーソロライフが長かったからと言って、人の家の窓から小便をぶちまける人とは、さすがに暮らせませんよね。

今回の参考文献である『文豪の死様』の著者は、永井荷風の次のような性格から、彼は現代でいうアスペルガー症候群の類だったのではないかと考察しています。

  • 他人への共感性の薄さ
  • 収集癖
  • 気に入った物/者への異常な執着
  • 聴覚や痛覚が過敏

どうも結婚生活の破綻も彼の方に非があったようですし、妾には呆れられ、弟との関係は悪く、友人は殆どいませんでした。もとより人との交流が上手ではなかったようなのです。

今でこそアスペルガーの社会的理解が広まりつつありますが、当時の永井荷風は世間的にヤバい老人として認識されていたことでしょう。

事実、当時メディアは彼の死を「惨めな孤独死」として取り上げました。

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孤独死は幸福だった?

イカれた奇行によって居候が破綻した永井荷風は、千葉県の八幡に新築を構えます。再びハッピーソロライフが再開されたわけです。

もちろん編集者など仕事関係の付き合いはあれど、友人との交流が殆どない彼は、この住処で孤独死を遂げます。

永井荷風の死後、「婦人公論」に載せられた関根歌の追悼文には、彼の最後の住処がどのような状態だったのかが記されています。

お部屋に入ってびっくり、畳はぼろぼろ、まっくろで、七輪やら火鉢やら、おふとんはしきっぱなし、枕をみれば座ぶとんを二つ折りした、汚れたベタベタのものでした。

『日陰の女の五年間/関根歌』

典型的な孤独死の現場のように、不潔で散らかった部屋だったみたいです。

こんな部屋で誰にも看取られず吐血して死んだのですから、「惨めな老人の最期」などと面白おかしく報道されるのは当然でしょう。

しかし、『文豪の死様』の著者は、永井荷風の孤独死は決して不幸ではなく、むしろ幸福だったと考察しています。

死ぬ1ヶ月前までは散歩に出かける程度には元気で、最後の晩餐にはカツ丼を食ったという記録が残っています。たんまり財産を抱え、3食好きなもの食べ、気の赴くままに散歩をし、書物に目を通す。そして執筆をすれば、多くの読者が彼を称賛する。

人間関係に難はあれど、もとより彼にとっての幸福の指標はそこにはなかったのかもしれません。彼は人生の果てに孤独に陥ったのではなく、自己選択によって孤独になったのです。

そう考えると同じ孤独死でも、嫌なことを何一つせず、好きなことだけを自己決定した末の孤独死であれば、大往生ではないでしょうか。

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