プロレタリア文学の騎手・小林多喜二。
大正時代のプロレタリア文学の潮流で一世風靡し、代表作の『蟹工船』は1929年上半期の最高傑作とまで評されました。
しかしその経歴は惨く、最終的に彼は国家に挑み、国家に殺されました。
本記事では、そんな小林多喜二のエグいエピソードを紹介します・
小林多喜二のプロフィール
ペンネーム | 小林多喜二(29歳没) |
生没 | 1903年ー1933年 |
出身地 | 秋田県 (のち北海道の小樽に移住) |
主題 | プロレタリアートの尊重 共産主義思想 |
代表作 | 『蟹工船』 『党生活者』 『一九二八年三月十五日』 『不在地主』 |
※今回の参考文献は下記です。
実は裕福な家庭の生まれ!?
プロレタリア文学と言えば何を想起しますか?
- 労働者(プロレタリアート)を擁護
- 資本家や帝国主義を非難
- 共産主義思想
こういった主題を扱った文学ジャンルです。大正時代に先駆的に誕生し、昭和初期に一世を風靡しました。その影響力は凄まじく、彼らの台頭によって、当時のインテリな作家たちは下火になったほどです。
そんなプロレタリア文学の旗手が小林多喜二です。ともすれば貧しい労働者階級の出身を想像しますが、実際はそこそこ裕福な家庭の子供でした。
多くの田畑を所有する農家で、いわゆる、多喜二が嫌うところの地主階級だったわけです。ところが叔父が事業に失敗し、その肩代わりとして土地を失い、一気に生活は転落します。叔父は再起を図り北海道の小樽でパン屋を始め、それが成功したために、多喜二の一家も小樽に移り住むことになります。
当時の小樽は大陸との貿易港として栄えており、中心都市はかなり都会的だったようです。しかし多喜二が移住したのは南の外れの労働者階級が暮らす地域でした。労働者階級と言っても一様に貧しいわけではなく、苦しい境遇を強いられる底辺の労働者もいれば、そこそこ裕福に暮らす労働者もいたようです。そして多喜二の家庭は移住後も後者だったようです。
小林多喜二は作品の中で、自分の出自を赤貧のように記し、貧困なプロレタリア階級の出身だと強調していました。ところが彼の発言と母親の発言には齟齬があり、母親が言うには、やはりある程度裕福な家庭だったようです。
今回の参考文献である『文豪の死様』の著者は、多喜二は自身の裕福な状況にコンプレックスを感じており、偽りの供述をしていたのではないかと考えています。
なぜなら彼は執筆や共産主義活動とは別に、銀行員の職を勤めていたからです。当時はいくら優秀でも家庭状況が悪ければ銀行員になれない時代です。片親であったり、貧困な家庭であれば、横領を起こす可能性があると差別されていたのです。ともすれば、銀行員になれた多喜二の家庭環境はそれほど悪くはなく、むしろかなり恵まれていたと推測できます。
恵まれた環境で育った多喜二は、一体なぜプロレタリア文学や共産主義に傾倒していったのでしょうか?
田口タキとの恋愛
多喜二の思想が先鋭化していった原因は、恋人である田口タキとの出会いにある。
『文豪の死様』の著者はそう記しています。
タキは小料理屋の酌婦で、殆ど売春婦と変わらず、いわゆる「底辺の労働者」でした。
貧困の末に親に売られたタキに同情した多喜二は、なんと驚くべき行動に出ます。
- 借金全額を代わりに返済する
- 身元引受人になる
見ず知らずの売春婦にそこまでするのですから驚きです。
『文豪の死様』の著者は辛口で、こういった多喜二の行動を「独善的なヒロイズム」と記しています。比較的裕福な多喜二は、底辺の生活を送るタキを救うことで、ヒーロー気取りの愉悦に浸っていたのではないか、という考察です。
タキに対するヒロイズムが垣間見え出したこの頃から、多喜二は社会主義を超越した、共産主義に本格的に傾倒していきます。執筆の作風もプロレタリア文学に転向します。
( 『文豪の死様』 の著者曰く)タキに対しては依然として、惨めな女を救ってやる、といった独善的な傾向があったらしく、それが原因なのか断言はできませんが、彼女は多喜二の求婚を断り、家を出て自立的な人生を歩みます。多喜二の保護者面に嫌気がさして、タキは離れていったのではないかと記されていました。
恋人に対するヒロイズムが失われた多喜二は、その矛先を貧困層に広げて、ますますプロレタリア文学や共産主義にのめり込んでいくことになります。恋人にふられた空白が、一層思想の傾倒に拍車をかけたのかもしれません。
多喜二の共産党生活
大正時代には、民主主義の思想が広がり、個人の自由を目指す運動が盛んなりました。
しかし、昭和初期になると国内の雰囲気はガラッと変わります。
第一次世界大戦の棚ぼた的な利益として、日本は山東半島を手に入れます。ところが日本の利権拡大が列強の鼻につき、間もなく山東半島を取り上げられてしまいます。日本人にとってはかつて日露戦争で戦利が無かったのに続いて、またしても西欧諸国に強く出れない自国の姿を露呈することになりました。
こういった国内の不満は、日本を軍国主義へ推し進めることになります。国民すらもそれを容認する形で。
あるいは資本主義による利益追求が激しくなり、資本家が財を蓄えて肥大化していきます。もはや個人の自由などといった考えは邪魔で、資本家にとっては帝国主義として貧困層を奴隷化した方が好都合なわけです。
こういった時代背景から、財産の平等分配、あるいは資本家を批判をする共産主義者は厄介な存在で、弾圧の対象になります。つい数年前までは大正デモクラシーの風潮で自由な社会が謳われていたのに、突然軍国主義の雰囲気が色濃くなったのでした。
「日本が強くなれば生活は豊かになる」それが国の意向で、国民の総意だったのです。故に、共産主義者は天皇(国家)に逆らう危険な集団と国民から見なされ、弾圧されても「自分には関係ないどうでもいいこと」だったわけです。
そんな中、小林多喜二は銀行を退職し、共産主義者として先鋭化していきます。
日本プロレタリア作家同盟が発足すると、特攻による監視の目が強くなります。『蟹工船』を発表した翌月には、大規模な共産党弾圧事件が発生し、多喜二は警察に勾留されます。釈放後も下記の理由で再び逮捕されます。
- 共産党への資金援助
- 『蟹工船』が不敬罪(天皇批判の罪)
- 治安維持法の違反
それでも多喜二は、地下生活で共産主義の活動を継続します。ところが、この頃には既に党内にスパイが潜入しており、多喜二の敗北は決定づけられていたのでした。
築地警察署での変死
スパイに密告された小林多喜二は、築地警察署に連行され、3時間後に署内で急死します。
留置所に入れていたら突然心臓麻痺で死んだ
(※警察の証言)
ところが翌日遺族の元に返された遺体は、拷問によって全身が腫れ上がり、下半身が内出血でどす黒く変色していたようです。
しかし、 事実は黙認されてしまいます。
- 病院は死因判定の解剖を拒否
- マスコミは警察の嘘の証言を報道
世の中はおかしいことをおかしいと主張できるような空気感ではなくなっていたのでした。
それでなくとも「共産主義者は天皇に逆らう危険な集団」なので、多喜二が拷問で死のうが誰も気に掛けなかったのかもしれません。
文学者のみが多喜二の死に違和感を抱いており、志賀直哉や川端康成など、プロレタリア文学とは距離をとっていた作家たちも、当時の校閲を潜れるぎりぎりの文章で彼の死を追悼していました。ただし、実質的には警察の汚職を弾劾するような動きには至らず、誰もが黙認する形になったのです。
その結果、軍国主義化は歯止めが効かなくなり、悲劇に向い直進することになりました。
何百万もの命が犠牲になり、果ては人間の叡智を悪用した爆弾が投下され、1945年に大日本帝国は滅んだのでした。
時代を超えて支持を集める理由
軍国主義の風潮によって、半ば強制的にプロレタリア文学は下火になりました。
ところが現代でもその支持は厚く、2000代には『蟹工船』が再注目されるなど、今もなお普遍的な人気です。
当時のようにあからさまな風潮はなくとも、資本家による労働者の搾取が「ブラック労働」という言葉で社会問題になったりします。これは資本主義として利益を追求し続ける限り決してなくなることのない弊害なのです。
世界に目を向ければ、先進国がファストファッションやファストフードなど、低価格でモノを提供する背景に、当時の日本と変わらない過酷な環境で働いている人々が存在します。
つまり、『蟹工船』は過去の出来事ではなく、今もなお残り続ける資本主義社会の闇を描いているのです。
ブラック労働や、ムカつく上司や、顔の肉の分厚い役職者がいて、奴らをギャフンと言わせてやりたいという労働者の気持ちを代弁しているからこそ、プロレタリア文学は普遍的に人気なのでしょう。例えば『半沢直樹』のような大衆ドラマが痛快であるように、『蟹工船』には民衆の心を掴む魅力があるのです。
映画『蟹工船』を無料鑑賞

プロレタリア文学の名作『蟹工船』は、2009年に松田龍平主演で映画化されました。
ブロック企業や過労死などが問題になった近年に再注目され話題になった映画です。