大江健三郎の小説『芽むしり仔撃ち』は、当時23歳の作者が書いた初の長編小説である。
太平洋戦争末期を舞台に、山奥の村に幽閉された少年たちが、自由の王国を建設する物語が描かれる。
初期の大江の文学テーマ「閉ざされた壁の中に生きる状態」が描かれ、作者自身「今でも好きな小説」と言及している。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語を詳しく考察していく。
作品概要
作者 | 大江健三郎(88歳没) |
発表時期 | 1958年(昭和33年) |
ジャンル | 長編小説 |
ページ数 | 240ページ |
テーマ | 幽閉された人間 感染症文学 少年の自我の獲得 |
あらすじ
太平洋戦争末期、感化院の少年らは山奥の村に集団疎開し、そこで強制労働をさせられ奴隷のような扱いを受ける。
けれども村で疫病が発生し、村人たちは少年らを置いて別の村に避難し、感染を疑われた少年らは村に幽閉される。大人から見棄てられた絶望、目に見えぬ疫病の恐怖、しかし突如手に入れた自由に歓喜し、少年らは自分達の王国を建設する。村には他に、母親が死んだ少女、朝鮮部落、脱走兵など、少年ら以外にも幽閉されていた。彼らは共に団結し、閉鎖された村で自由を謳歌する。とりわけ主人公の「僕」は、少女との間に愛情を育み、肉体の繋がりを経験する。
自由を謳歌した矢先に、疫病の恐怖が襲いかかる。愛する少女が疫病で死に、感染源を疑われた「僕」の弟の愛犬が処刑され、そのショックで弟は逃亡し行方不明になる。
こうして少年らの結束が崩壊した頃、村人たちが帰還する。勝手に家に忍び込み食糧を盗んだ悪事を咎められ、少年らは座敷牢に閉じ込められる。少年らは、村人が自分達を見捨て逃亡したという弱みを握っており、それを外部に暴露するぞと脅す。すると村長は、少年らの悪事を報告しない替わり、お前らも面倒な暴露はするなと取引を要求する。少年らは当初反発するが、やがて暴力と空腹に音を上げ、次々に屈服してゆく。そして最後まで抵抗の意志を捨てなかった「僕」は、村から追放されるのだった・・・
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個人的考察
創作背景
大学時代にいくつかの短編が入選し、『死者の奢り』で注目された大江健三郎は、学生作家として続々と短編を発表する。そして23歳で初の長編『芽むしり仔撃ち』が書かれた。同年には『飼育』が芥川賞を受賞する。
『芽むしり仔撃ち』はのちに作者自身が「今でも好きな小説」と言及した初期の傑作である。
この小説はぼくにとっていちばん幸福な作品だったと思う。ぼくは自分の少年期の記憶を、辛いのから甘美なものまで、率直なかたちでこの小説のイメージ群のなかへ解放することができた。それは快楽的でさえあった。いま小説を書きながら快楽をともなう解放を感じることはない。
『芽むしり仔撃ち-あとがき-』
「少年期の記憶」と言及される通り、大江が少年時代に経験した太平洋戦争末期、そして故郷の村がモデルになっている。また学生時代に愛読した実存主義の影響か、カミュ『ペスト』を想起させる感染症文学の側面もある。
疫病が蔓延する村に幽閉された少年らは、自分達の王国を建設するものの、村人の帰還によって自由は崩壊し、再び強者に隷従する社会秩序にはめ込まれる。そこには、戦時中の軍国主義の脅威や、同種で殺し合う日本人の蛮行が、少年らのイノセントな目線で映し出されている。
政治的な特色が濃い大江の文学は、石原慎太郎らと共に有力多彩な新人と期待され、非政治的で保守的な「第三の新人」(遠藤周作、安岡章太郎ら)とは一線画す存在となった。
では次章からは、主人公の「僕」に焦点を当てて、物語の意味を詳しく考察していく。
「僕」の成長と自立
感化院の少年らが村に集団疎開し、疫病を理由に幽閉され、一時は自由の王国を築くが、村人の帰還によって自由は崩壊する。この一連の物語には、少年期から青年期にかけての「僕」の成長が描かれている。
冒頭の一文「夜明けになっても僕らは出発しなかった」に見る通り、作中では「僕ら」という主語が頻用される。感化院の少年らを指す主語で、彼らの仲間意識を表し、また「僕」が集団の一要素でしかないことを意味する。
もっとも彼らの仲間意識は、友情や愛情で結ばれたものとは言えない。感化院の彼らは親から捨てられた孤独な存在で、孤独から身を守るために結束したに過ぎないのだ。その証拠に、仲間の一人が腹痛に苦しんだ時、彼らは足手まといの憤りを感じ、その仲間が死ぬと、恐怖に襲われるものの、それは醜い死体に対する恐怖に過ぎなかった。
いわば生存目的で結束され、そこに情はなく、むしろ足手まといは排除される構造なのだ。逆に言えば、村人から見捨てられ、命の危機に際したときこそ、彼らは固く結束できた。
ところが最終章になると、「僕ら」の一員に過ぎなかった「僕」は、独りで村長と戦うことになる。最終的には独り村から追放される。この頃には既に「僕ら」という主語が使われることはなく、「僕」は自我を持った個人的な存在へと成長している。これが少年期から青年期にかけての成長の軌跡である。それは「僕」が一連の経験を通して、他の少年とは異なる成長を遂げたことを意味する。その成長には、弟と少女の存在が大きく関係している。
弟と少女の存在
「僕ら」の中で弟は異質な存在だ。感化院は非行少年の寄せ集めだが、弟のみ何か悪さをした訳ではなく、単に集団疎開に便乗して預けられた外部の人間だ。そのため当初は「弟」と「弟以外の仲間たち」といった風に、明確に主語が使い分けられている。
実際に「弟」と「弟以外の仲間たち」の間には隔たりがある。というのも、感化院の少年らが長年の虐待で無感動になっているのに対し、弟だけはイノセントな好奇心を有している。それは例えば、腹痛に苦しむ仲間を弟だけが本気で心配したり、あらゆる場面で表れている。
それは弟が、見られる存在、檻のなかの獣の立場にうまく慣れていないことを意味するものだった。そしてそれにくらべて、弟以外の仲間たちはそれに慣れきっていたのだ。僕らはまったく実に様ざまなことに慣れていた。
『芽むしり仔撃ち/大江健三郎』
このイノセントな弟の存在が、「僕」の成長に大きな影響を与えた。「僕」にとって弟は唯一の血縁者で、そこには他の仲間とは違う深い繋がりがある。弟が存在する限り、「僕」は「僕ら」の一員ではない、兄としての「僕」を意識することになるのだ。
そして兄としての「僕」である時、「僕」もまたイノセントな心を取り戻す。例えば、弟が捨て犬をペットにして喜ぶ場面で、他の仲間は叩き殺して食べようと提案するが、「僕」だけは弟のイノセントを守るために仲間を追い払う。「僕ら」は生存だけを優先する無感動な存在なので、犬を食う存在としか考えないが、弟という守るべき存在がいる「僕」だけが、犬をペットとして受け入れるイノセントな心を取り戻している。それは他者に対する情を取り戻したことを意味する。
その証拠に、同じく村に幽閉された者との架け橋は「僕」が担う。「僕」と朝鮮部落の李に友情が芽生えたことで、李は「僕ら」の一員に加わる。母親が死んだショックで土蔵に閉じこもる少女に食事を届けたのも「僕」だ。「僕」という架け橋がなければ、彼らが一致団結することはなかった。それは「僕」だけが個人的な意志を培い、周囲に関心を示す存在になったことを意味する。
とりわけ少女に強い関心を抱く。しぶとく食事を届けるうちに、少女に対する愛情が芽ばえ、やがて二人は性的に結ばれる。仲間の中にはゲイの大人に身体を売って、そっちの性経験を卒業した者もいるが、愛情を伴う性行為に関しては童貞のままだ。「僕」だけが愛情を伴う童貞を卒業し、それは新たに守るべき存在が増えたことを意味する。
言い換えれば、「僕」は弟に対する愛情、少女に対する愛情によって、「僕ら」の一員ではない、唯一の自己を獲得していったのだ。
弟と少女の喪失
守るべき存在を獲得したとき、失う危険も潜んでいる。「僕」にとってそれは突然訪れた。
弟の飼い犬が少女の腕に噛み付いた直後、少女は疫病を発症する。仲間たちは少女を置いて逃げようと提案するが、愛を知った「僕」に逃げる選択肢などあり得ない。愛を失う恐怖に襲われた「僕」は疫病の存在を否定するが、あえなく少女は命を落とす。
少女の死は喪失の始まりに過ぎない。弟の飼い犬が疫病の感染源に疑われ、仲間たちの間で犬の処刑が取り決められる。弟は犬の無罪を主張し、兄の「僕」に哀願の目を向けるが、「僕」にはどうすることもできず、無惨に犬は殴り殺される。その瞬間に「僕」が感じたのは、守るべき存在である弟を裏切ったという罪悪感だった。弟の方も自分を守るはずの兄が自分を裏切ったと感じたのだろう、そのまま姿を消し、村の外の崖で死んだであろう形跡が見つかる。
守るべき存在を立て続けに失った「僕」は、巨大な喪失感に苦しめられる。それは愛する存在の喪失という、誰しもが経験し乗り越えなければならない試練だ。「僕」のみがその試練を経験したゆえ、他の仲間を差し置いて、急速に成長することになった。それが仲間たちとの分断を生む結果になった。
権力に屈す仲間、そこからの独立
愛する存在の喪失、そして「僕」と仲間の分断は、王国の崩壊の前兆だった。
間も無くして村人たちが帰還し、少年らの好き勝手な言動を咎め、座敷牢に監禁する。この瞬間においては、少年らに共通の敵が生じ、再び結束することになる。村長が自分達の言動を咎めるのに対し、逆に自分らを疫病の中に放置した村人の愚行を引き合いに出して、それを口外するぞと脅迫し歯向かうのだ。
僕の仲間たちはみんなが村長への硬く対抗する態度、しっかりとした姿勢を取り戻した。僕らはうまくはめこまれようとしていたのだ。(中略)僕ら仲間たちはすっかり態勢を挽回し、内部の同志としての固い結束をとり戻し、村長に対して挑戦的に胸をはり眼をきらきらさせていた。
『芽むしり仔撃ち/大江健三郎』
けれども村長から暴力を受けるうちに、少年らは次々に屈服していく。というのも彼らは根本的に友情や愛情で結束した集団ではない。自分の身を守るために結束したに過ぎない。村長という圧倒的な強者の前では、自分の身を守るために屈服するのが当然の選択なのだ。ましてや生命の根源である食事をちらつかされた時、村長に抵抗する理由はなくなってしまう。
そんな中で「僕」だけが最後まで村長に抵抗し続けた。それは「僕」が他の少年とは違い、愛情の獲得と喪失によって、自立した精神を培ったからだろう。強い者に屈服する少年期から、自我によって抵抗する思春期・青年期へ成長していたのだ。
けれども他の少年らは、村長に屈服する形で新たな結束を成す。その仲間意識において、村長に抵抗する「僕」は秩序を乱す敵であり、だから彼らは「僕」に背を向けることで裏切りをやってのけたのだ。
そして唯一の自我を形成し、集団から独立した「僕」は、むしり取られる「芽」として、村という共同体から排除され、独りで生きていく必要を迫られたのだった。
むしり取られる芽たち
「いいか、お前のような奴は、子供の時分に締めころしたほうがいいんだ。出来ぞこないは小さいときにひねりつぶす。俺たちは百姓だ、悪い芽は始めにむしりとってしまう」
『芽むしり仔撃ち/大江健三郎』
村という共同体において、秩序を乱す悪い芽はむしり取られる。この村長の言葉通り、「僕」はたった独り村から追放されるのだった。
これは単に村という小さな共同体だけでなく、戦時中の翼賛体制における権力構造を風刺していると考えられる。軍国主義という全体主義社会において、権力者に歯向かう者は、屈服する者たちの愚かな連帯によって排除される。
作中には脱走兵が登場するが、村人たちは躍起になって脱走兵を捜索し、最終的に腑を突いて処刑する。この脱走兵の台詞が印象的で、彼は日本が敗北することを確信し、日本が降参さえすれば自分は自由になると主張する。そして日本が降参しない限り、いくら逃げても自分は閉じ込められた状態なのだと言う。
本作の主要テーマである村への幽閉は、軍国主義社会に閉じ込められた状態を寓話的に描いているのだろう。その幽閉された社会では、権力者の蛮行は黙認され、反対の意見を持つ者は腑を突かれて殺される。そんな日本社会を、朝鮮部落の李は風刺してこう言う。
おなじ日本人同士で殺しあう。山へ逃げこむ奴を、憲兵や巡査や、竹槍をもった百姓や、大勢の人間が追いつめて突き殺す。あいつらのやる事はわけがわからない。
『芽むしり仔撃ち/大江健三郎』
繰り返しになるが、悪い芽はむしり取られる。そしてそれは、今も日本社会に根強く残る、出る杭は打つ精神を思わせる。
自分とは異質な存在にめくじらを立て、同じ日本人同士で足を引っ張り合う、この泥沼のような社会を生きる限り、我々は、村に幽閉されているも同然なのだ。
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