中村文則の小説『私の消滅』は、ドゥマゴ文学賞を受賞した作品です。
初期の純文学的テーマに、作者のもう1つの作風であるミステリー要素を加えた物語です。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語に仕組まれたトリックをネタバレ考察します。
作品概要
作者 | 中村文則 |
発表時期 | 2016年(平成28年) |
ジャンル | 長編小説 純文学ミステリー |
ページ数 | 175ページ |
テーマ | 自己の存在 精神科学 |
受賞 | ドゥマゴ文学賞 |
あらすじ
「このページをめくれば、あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない」
そう書かれた小塚亮太の手記を、「僕」は古いコテージで読んでいた。小塚亮太に成り代わるために。
母の連れ子である小塚は、義父や祖母に虐げられていた。ある時、林の奥の崖で種違いの妹を驚かせた結果、妹は崖から落下し大怪我を負い、小塚と母は家を追い出される。スナックで働き出した母は、客の男に陵辱され、小塚はその様子を見て育った。ある時、癇癪を起こし、母に怪我を負わせる。
施設に入れられ里親の元で育った小塚は、里親の仕事を継いで、精神科医になった。そんな小塚の元にさおりという患者が訪れる。治療を進める中で、小塚とさおりは恋愛関係になるが、治療の弊害で彼女は記憶喪失になり、別の和久井という男に恋する。だが和久井と暮らす中で、かつてハメ撮りを強要した間宮という男と再会し、過去の残酷な記憶を思い出して、さおりは自殺してしまう。
小塚と和久井は、間宮への復讐を企てる。それは、小塚の惨い記憶を間宮に植え付け、絶望を味合わせる計画だった・・・
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ネタバレ考察
「僕」とは誰なのか
本作『私の消滅』のカラクリは、語り手の曖昧性にある。
物語は、正体不明の「僕」が、小塚亮太という人物と入れ替わろうとする場面から始まる。だが「あなた自身が小塚亮太なのだ」と告げられ、やがて「僕」は小塚亮太本人として、自分の過去を打ち明け出す。
一体「僕」とは誰なのか?
そこで、各章ごとに語り手を分類する。
- 「章1ー15」の語り手『僕』
- 「手記1ー4」の語り手『私』
- 「手記(未出力)5ー9」の語り手『私』
- 「***ー*」の語り手
ここで発覚するのは、「章」と「手記」では、同じ小塚亮太が語り手であるのに、一人称が「僕」と「私」で異なることだ。
この謎について考察していく。
「章1ー15」の語り手『僕』
物語の本筋は、精神科医の小塚亮太による、「間宮」への復讐劇である。
復讐の理由は、かつての患者であり恋仲関係だった「ゆかり」を、「間宮」が自殺に追いやった事件に起因する。間宮がゆかりをレイプし、その様子を盗撮して脅していたのだ。
そして復讐の内容は、複雑な家庭で育ち、暗い衝動を抱えて生きてきた小塚の記憶を、間宮の脳に植え付けるという方法である。つまり、間宮を小塚亮太の人格に作り変え、彼に絶望的な人生の苦しみを体験させようとしたのだ。
ここで冒頭の『僕』が小塚亮太に入れ替わろうとする描写の合点がいく。
つまり、「章1ー15」の『僕』は、間宮だということだ。
『僕』は、古いコテージにいて、小塚亮太の手記を読んでいる。『僕』の中には、漠然と小塚亮太と入れ替わる義務感がある。それはつまり、小塚亮太による復讐の一環で、間宮は小塚の手記を読むことで、少しずつ小塚の人格を脳にインプットさせられていたのだ。
「章7ー10」において、『僕』は自分の過去について語る。その内容は小塚亮太の過去であり、つまりこの時点で間宮は自分が小塚亮太だと信じ込み始めている。
「章10ー15」では、『僕』はどこかの部屋に監禁されている。精神状態はかなり危険である。そんな『僕』に対して、小塚と協力者の和久井が、さらに追い討ちをかける言葉を語り続け、部屋の中にロープを用意しておく。その結果、最終的に『僕』はロープで首を吊って自殺する。
間宮は自分を小塚だと信じ込み、精神が錯乱し、自ら命を絶ったのだった。
これこそが、小塚が仕掛けた間宮に対する復讐である。
「手記」について
作中に登場する「手記」は、本当の小塚亮太が自分の過去を記した内容だ。それを間宮に読ませて、自分を小塚だと信じ込ませるために用意された。
ともすれば手記の語り手「私」は、小塚本人ということになる。
不可解なのは、「手記」には、間宮に読ませた「1ー4」と、誰にも見せていない未出力の「5ー9」が存在することだ。
このことから分かるのは、「1−4」は、間宮の人格を入れ替えるために用意されたもので、その実験を成功させるために、少なからず虚偽の内容が含まれているということだ。
例えば、小塚亮太は過去の家庭内でのトラブルから、性機能が損なわれていた。だが「手記」の中では、小塚は「ゆかり」とセックスをしたことになっている。
その他にも虚偽の内容が含まれているが、それは後ほど解説する。
次に手記「5−9」に関してだが、こちらは未出力である。誰かに見せる目的で書かれたものではないのだ。つまり、小塚が個人的に自分の過去を回想した内容なので、そこに虚偽は含まれていないと考えられる。
そして、未出力の手記には、主に精神科医である「吉見」との会合の場面が記されている。そこには小塚のもう一つの復讐が隠されている。詳しくは次章にて考察する。
小塚の本当の復讐相手
当初の小塚の復讐相手は、「ゆかり」を自殺に追い込んだ間宮だった。
だが復讐の計画を進めるうちに、本当の悪の正体が露わになる。それは精神科医の吉見だ。
吉見はかつて「ゆかり」の治療を担当した。「ゆかり」が小塚の診療所を訪れる前のことである。そうした巡り合わせで小塚と吉見は交流を持つようになる。だが実際には、二人はもっと昔から交流があった。
小塚は小学生の頃に義理の妹を崖から突き落とした。その事件がきっかけで、小塚と母は家を追い出された。それ以降、母はスナックで働き出す。それは地獄の日々だった。小塚は母が客の男に陵辱される様子を見て育ったのだ。そんな風に歪んだ少年時代を過ごした小塚は、ある時癇癪を起こし、母に怪我を負わせる。
その結果、小塚は施設に入れられ、精神科医の治療を受ける。その医者が吉見だったのだ。
だが吉見の治療には悪意が潜んでいた。
吉見の悪意
吉見は精神科医という職業にうんざりし、ある時から患者を適当にあしらうようになる。その結果、患者は通魔事件を起こした。
普通の医者なら罪悪感に苛まれるだろうが、しかし吉見は違った。こうした人間が起こす暗い衝動を美しいと感じたのだ。
そんな狂気的な趣向に目覚めた吉見は、施設に入れられた小塚を治療する際に、彼が母親を陵辱した、という偽りの記憶を植え付けた。それが原因で、小塚は性的なトラウマを抱え、セックスができない体になってしまった。
さらに吉見は、わざと「ゆかり」を小塚に近づけた。二人が恋仲関係になるよう仕向け、小塚が「ゆかり」とセックスできずに苦しむ様子を、影で楽しんでいたのだ。
おまけに「ゆかり」を自殺に追いやった真犯人も吉見だった。「ゆかり」には、過去に間宮にレイプされ盗撮されたトラウマがあった。幸か不幸か小塚の治療で記憶を失った彼女には、そのトラウマが消えていた。だが吉見が裏で操作して、間宮と「ゆかり」を再会させ、トラウマを思い出させ、自殺へと追い込んだのだ。
小塚は初め、吉見の悪意に気づかなかったが、ボイスレコーダーの記録によって全てを悟る。記憶を失った「ゆかり」がカフェで働いていた事実を、知るはずのない吉見が知っている風に話す音声が記録されていたのだ。
それがきっかけで、吉見が裏で手回ししていたこと、ひいては施設時代の治療に悪意が施されていたことに気づいたのだった。
吉見の悪意さえなければ、小塚は性的なトラウマを抱えることも、ゆかりを失うこともなかった。その憎悪から、もう一つの復讐として吉見を死に追いやったのだ。
復讐よりも重要な目的とは
彼らを殺すことにも、あまり興味がなくなっていた。それよりももっとするべきことがあった。
『私の消滅/中村文則』
間宮を連行し、いざ復讐を実行する段取りが整うと、急に小塚の復讐意欲は薄れてしまう。復讐以上に、するべきことが生じたのだ。その内容は、間宮に読ませた「手記1ー4」に隠されている。
前述した通り、間宮に読ませた「手記1−4」には虚偽が含まれていた。その虚偽の内容は2つある。
1つは、「さおり」とセックスをしたという偽装である。本当は小塚はセックスができずに苦しんでいたのだ。
もう1つの偽装は、母を陵辱したという偽物の記憶を記さなかったことだ。
要するに、小塚は最大のトラウマである記憶を、あえて手記から排除したのだ。
考えられる理由は1つだろう。もしこれらのトラウマを持たない人生を歩んでいたら、自分はどんな運命を辿ったのか、それを間宮を通じて確かめたかったのだろう。
結果は顕著だった。間宮は自殺を拒絶し続けたのだ。確かに最終的に間宮はロープで首を括った。だがそれは小塚と和久井の誘導を拒否続け、それでも二人に精神を追い詰められた結果の自殺だ。
根本的に2つのトラウマがなければ、小塚という人格は自殺願望を持たずに生きられたのだ。
不条理な運命、周囲の悪意によって、小塚は絶望的な人生を歩むことになった。彼は別の幸福な人生を歩んでみたかった。その願いを込め、小塚は最後に精神科の治療器具にスイッチを入れ、自らの記憶を喪失させたのだった。
つまり、「私の消滅」である。
他の細々したトリック
大筋のトリックを考察したところで、最後に細々したトリックを簡単に記しておく。
間宮が強姦の性癖を患った原因
精神科医の吉見の手回しとは関係なく、間宮は自主的に「ゆかり」を強姦した。実は彼が犯罪的な性癖を患った原因は、小塚亮太にあった。
小塚と間宮は同郷だった。そして少年時代に小塚が義理の妹を崖から突き落とした場面に、間宮は遭遇していたのだ。
「窓の外で木々が揺れている」という描写が作中に何度も登場する。その描写を思い出すたびに、小塚の人格を植え付けられた間宮は、ある錯覚を起こす。それは少年時代に義理の妹を突き起こした記憶について、自分が崖の下からその様子を見ている、という錯覚だった。
しかしこれは錯覚ではない。実際に間宮はその現場に居合わせ、崖の下から見ていたのだ。そしてその体験が原因で、間宮は猟奇的な性癖に目覚めたのだった。
木々が揺れる描写は、林道の奥にある崖の風景とリンクしていたのだろう。
小塚が「ゆかり」の治療に熱中した理由
小塚は熱心な医師ではなかった。精神病患者の負のエネルギーに影響を受ける憂鬱から、いつしか薬を処方するだけの医者になっていた。
そんな小塚だが、唯一「ゆかり」の治療にだけは熱中した。それは「ゆかり」に対して、母の幻影を重ねていたからだろう。
実家を追い出され、見知らぬ男に陵辱され、不幸の中毒になる母を変えることができなかったという後悔が、小塚の中にあったのだ。
そんな風に「ゆかり」の治療に夢中になるが、しかし彼女は治療の弊害で記憶喪失になり、小塚のことさえ忘れてしまう。あまりに残酷な結果だが、しかし小塚には予想していた出来事でもあった。むしろ小塚は深層心理の部分で、彼女の記憶喪失を望んでいたのかもしれない。
なぜなら小塚には、自分のせいで母が不幸になった、という感覚があったからだ。自分の存在を母の内部から削除すれば、母を救済できる。そういった悲しい衝動を「ゆかり」を通じて実行したのではないだろうか。
「ゆかり」が和久井に恋した理由
記憶喪失になった「ゆかり」は、小塚ではなく、別の和久井という男を好きになる。それは偶然ではない。
小塚は治療の中で、「ゆかり」の性関係のトラウマを書き換えるべく、過去に幸福な恋愛をしていた、という架空の記憶を植え付けた。その架空の彼氏のモデルにある俳優を採用した。その俳優が和久井に似ていたのだ。そのため必然的に「ゆかり」は和久井に惹かれたのだ。
だからこそ小塚は、一連の事件に和久井を関係させてしまった罪悪感から、最後に電話で謝罪を告げたのだった。
その他にも多くのトリックが隠されているだろうが、本記事はここで幕を閉じる。
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映画『去年の冬、きみと別れ』
中村文則の代表作『去年の冬、きみと別れ』は2018年に映画化され、岩田剛典、山本美月、斎藤工ら、豪華俳優陣がキャストを務め話題になった。
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