中島敦の短編小説『悟浄出世』は、西遊記を題材にした物語です。
「自分とは何か?」という懐疑的な苦悩に陥った沙悟浄が、三蔵法師の一行と出会うまでの期間が描かれています。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 中島敦(33歳没) |
発表時期 | 1942年(昭和17年) |
ジャンル | 短編小説 |
ページ数 | 32ページ |
テーマ | 自意識の地獄 「思弁」と「行動」 |
収録 | 『わが最遊記』 |
あらすじ
『西遊記』でお馴染み、悟浄という河童の妖怪がいました。彼の精神状態は非常に不安定で、自分でも病気だと認めています。あらゆる物事に「なぜ?」と考えずにはいられないため、ひいては「自分とは何か?」という疑問に苦しんでいるのです。
そんな懐疑的な悟浄は、5年もの間、あらゆる賢人の元を訪ね、自分の抱える苦悩に対する教えを説いて貰おうとします。ある者は虚無主義を説き、ある者は思弁よりも行動の重要性を説き、またある者は快楽主義を説きます。あらゆる方面の教えを請けた悟浄は、かえって何を信じればいいのか判らなくなります。結局誰も彼も、何一つ解っていないのだと悟り、それをあえて解らないと騒ぎ立てる自分の愚行を思い知らされるのです。
遂に疲労で倒れた悟浄は、夢の中で観音菩薩のお告げを聞きます。身の丈に合わない「なぜ?」を一切捨てること。そして、東から西へ向かう三人の僧の一行へ着いて行くよう諭されます。初めて信じる気になった悟浄は、その年の秋に、三蔵法師と、孫悟空と、猪八戒と出会い、旅の一行に加わるのでした。
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個人的考察
悟浄の悩みとは
「自分とは何か?」という疑問に対して、病的に苦しんでいた悟浄。
いわば彼は、自意識の地獄に捕らえられており、そこからの救済を求めていたのです。アレコレ喧しく考えてしまう自意識を解消させるために、彼は多くの賢人に会いに行くのでした。
中島敦の文学を紐解く上で、この「自意識」というテーマは重要な鍵になります。
代表作『山月記』では、主人公の李徴は自尊心が強い故に、屈辱的な境遇を受け入れられず、その醜い感情の具現として虎になってしまいます。それは、自意識によって何も成し遂げられない人間の末路を表現していたのです。
あるいは『李陵』という作品では、自分の功績が周囲に認められないことを恐れて、行動に移すことができず、敵国の捕虜のまま生涯を終える前漢時代の軍人の姿が描かれていました。
いずれにおいても、自意識が邪魔をして、行動に移せない臆病な人間が主題なのです。
本作『悟浄出世』の主人公、悟浄もまた自意識の強さゆえに、あらゆる物事を頭の中で考えあぐね、行動できないまま傍観者に成り果てていました。
臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐れみとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。(中略)渦巻にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。
『悟浄出世/中島敦』
渦巻きにまき込まれる、つまり危険な賭けに身を投じて、自分だけの幸福を追求するような生き方。人生を台無しにする覚悟がない者は、飛び込んでいく者たちに同情するばかりの「永久の傍観者」だということでしょうか。
同調圧力が強い社会では、足並みを揃えない者に対するバッシングが過剰です。挑戦する者に対して、否定的に食ってかかり、失敗した時には、あたかも自分が預言者であったかのような言い草で同情する始末です。何もしなかった者だけが強く威張れる馬鹿げた社会で、我々は傍観者としての生き方に安住しているのです。本作の悟浄は、まるで臆病な我々の生写しのようではないでしょうか。
思弁家の悟浄は、行動の正当性ばかりを考えるあまり実行に移せない、臆病者の自意識野郎だったわけです。
賢人たちの説教はどれも興味深い思想を含んでいました。されど思考のみを働かせても最終的な解答を導き出すことは不可能で、それどころか考えれば考えるほど臆病になります。そう気付いた悟浄は、最後には、「躊躇する前に試みよう」という一つの決心に至ったようです。
「思弁」と「行動」の対立が完全に消滅することはありません。しかし、お告げ通り、三蔵法師一行に加わった悟浄は、以前よりも苦悩は和らいだと語っていました。結局、自意識の地獄から抜け出すためには、行動する以外に術がないということでしょうか。
「沙虹隠士」の虚無主義
作中には4人の賢人が登場し、それぞれが興味深い教えを解いてくれます。
悟浄が最初に教えを請うたのは、沙虹隠士 というエビの妖怪でした。
「世はなべて空しい。この世に何か一つでも善きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。
『悟浄出世/中島敦』
説教の言い出しから分かるように、彼は虚無主義的な思想の賢人でした。
さらには、自己の消滅と世界の消滅の同義性をも説いていました。世界とは自己が投影した幻であり、自分が消滅すれば世界という概念も消滅してしまうという考え方です。確かに自分が無に変われば、世界の存在なども確かめることは不可能ですから、事実上の消滅を意味するかもしれません。
ある種、終末論的とも言えるでしょう。死んで初めて苦悩から解放される、みたいな考え方でしょうか。
悟浄の自意識の苦悩も、生きているから芽生えるのであって、死んでしまえば確かに二度と苦しまなくて済みます。死は最も単純な自意識の解消なのでしょう。あまりに悲しい結論ですが、仏教思想に馴染みがある我々日本人にはどこか親しみが感じられる教えかもしれません。
「虯髯鮎子」と「無腸公子」の行動至上主義
ナマズの妖怪である、虯髯鮎子 は、あれこれ思弁するよりも行動を優先する重要性を説いた賢人でした。
「遠き慮のみすれば、必ず近き憂いあり。達人は大観せぬものじゃ。」
『悟浄出世/中島敦』
高尚な問題ばかりを思慮すれば、必ず憂鬱を招いてしまうという考え方です。
彼は鯉を捕まえて、仮にこの鯉が自分に食べられる因果を考えていれば、獲物は永久に捕まえられない、と例えて説明します。まずは素早く捕まえて、食らいついてから、その因果を考えても遅くはないと言うのです。
要するに、行動する前にその正当性を考えて、いざ実行に移せない臆病な人間を揶揄しているのでしょう。やらない後悔よりもやった後悔、という月並みな教訓さえあるように、何かを成し遂げる人間は大観をせずに、まず行動するということでしょう。
次に、蟹の妖怪である、無腸公子 は、隣人愛を説く賢人でした。されど彼は隣人愛を説く最中に、生まれてきた我が子を食べていました。それは飢えをしのぐための本能的な行動であり、彼は無意識に行動しているのです。
その様子を見た悟浄は、あれこれと理屈を考えずに、没我的になることの重要性を見出します。行動の正当性どころか、もはや我を忘れて実行しているという点では、行動の重要性を説いた虯髯鮎子 とも通ずる部分があるように思います。
何かを成し遂げる人間は、正当性を考えるようりも早く行動し、それはもはや無意識化の選択なのかもしれません。
「斑衣鱖婆」の快楽主義
斑衣鱖婆は500歳を超える女怪です。しかし肌はまるで処女のように美しく、後宮に多くの男を抱えて、肉の楽しみを味わっています。いわゆる快楽主義の賢人です。
「この道ですよ。聖賢の教えも仙哲の修業も、つまりはこうした無上法悦の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。(中略)ああ、あの痺れるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」
『悟浄出世/中島敦』
聖者や賢者が追求する、苦悩からの解放とは、裏を返せば、快楽の持続への願望と同じだと主張しているのでしょう。ともすれば、苦悩から解放される唯一の手段は快楽に心酔する以外にあり得ない、という考え方になります。
ある種、ドラッグ文化やセックスの解放や酒池肉林などと同様、欲望のままに生きることで現実逃避を図る退廃的な思想です。
斑衣鱖婆は、最後に悟浄に対してこんな言葉を突きつけます。
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
『悟浄出世/中島敦』
救済のための思索が更なる苦悩をもたらす悟浄の困惑が、まるで本末転倒であることを暗示しているようです。確かに、楽しむことのできる能力無くして、自意識の解消や、自己決定などは不可能かもしれません。
このようなユニークな登場人物の説教に、さらに混乱してしまう悟浄ですが、彼らの思想は決して陳腐ではないため、本作を読む一つの醍醐味とも言えるでしょう。
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