サルトル『水いらず』あらすじ解説|実存主義の出発点となる作品

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水いらず フランス文学

サルトルの小説『水いらず』は、実存主義の出発点に位置する、初期の短編作品である。

性的不能な夫を持つ女性リュリュが、なぜ肉体は存在するのか、という疑問に葛藤する、肉体厭悪の物語が描かれる。

名作『嘔吐』へと繋がる内容なので、本作を表題作とする短編集は、実存主義文学の入門編におすすめである。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語を詳しく考察していく。

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作品概要

作者 ジャン=ポール・サルトル 
フランス
発表時期1938年
ジャンル短編小説
ページ数55ページ
テーマ肉体厭悪
肉体はなぜ存在するのか
実存主義とは

あらすじ

あらすじ1

肉体に嫌悪感を抱くリュリュは、男性器が硬くなることに気味悪さを感じ、セックスを穢らわしいと思っている。夫アンリーは性的不能者で、男性器が硬くなることはなく、それがかえってリュリュを安心させる。

しかしリュリュには、夫のほかにピエールという愛人がいる。ピエールは男性的なたくましい体つきをしているのだが、そんな彼に好き勝手に肉体を貪れると、リュリュは耐え難い嫌悪感に襲われるのだった。

人間にはなぜ肉体があるのか、とリュリュは考える。男たちは自分を愛しても、自分の腸までは愛さない。人を愛するとは、その人の何もかもを好きになることであり、ならば食道や肝臓や小腸も愛せるはずなのに、実際はそうではないことに矛盾を感じる。

女友達のリレットは、リュリュに性的不能の夫と別れるよう説得している。セックスは一生の幸福に関わることであり、それを性的不能の夫で棒に振る法はないと言う。しかしリュリュには、そんな単純な考えで、夫と別れることはできないのだった。

しかし夫アンリーと喧嘩したリュリュは、ついに家を飛び出して、愛人ピエールと一緒になることを決心する。だがホテルでピエールに肉体を貪られたリュリュは、またしても肉体厭悪に襲われる。そして彼女は最終的に夫アンリーの元に逃げ帰るのだった。

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個人的考察

個人的考察1

実存主義の出発点

本作『水いらず』は、戦前に発表されたサルトル初期の短編小説で、実存主義の出発点に位置する作品である。

戦時中の日本ではフランス書の輸入が禁止されていたため、戦後にようやく本作が翻訳されたことで、サルトルの存在が日本で知れ渡った。

本書の解説いわく、戦後に翻訳された本作が、性的な問題を扱う物語だったため、実存主義とは性や肉体に関する思想という誤った解釈がなされたらしい。日本における実存主義の走りと言われる坂口安吾の『白痴』も、肉体と精神の対立を描いており、この誤った影響を受けたと考えられる。

確かに本作『水いらず』では、肉体的な葛藤が展開されるが、それはあくまで実存主義の思想に着手するためのひとつの導入に過ぎない。本来サルトルの実存主義は、自由とは何か、人間はいかに生きるべきか、を説いた思想である。

サルトルの有名な言葉といえば、

「実存は本質に先立つ」

これは実存主義の根底をなす言葉である。この言葉の意味を理解すれば、本作『水いらず』で描かれたものが見えてくる。

■実存は本質に先立つ

「実存」とは存在そのものを指す。「本質」とはそのものの性質を指す。

サルトルはペーパーナイフを例に挙げて解説している。

・実存:ペーパーナイフそのもの
・本質:紙を切るという目的

紙を切るいう目的(本質)に根ざしてペーパーナイフは作られる。その目的がなければペーパーナイフが生み出されることはない。つまり目的(本質)が先にあって存在(実存)する。これは反対に、本質が実存に先立っている。

では人間の場合はどうだろうか。

仮に神様が何らかの目的で人間を作ったなら、それはペーパーナイフと同じ、本質が実存に先立つ。しかしサルトルは無神論者ゆえ、人間は目的を持って生まれるのではなく、ただ意味もなく存在していると説いた。これが「実存は本質に先立つ」だ。

つまり人間の存在には意味や目的がない、ということだ。厭世的な思想に聞こえるかもしれないが、しかしサルトルは人生の絶望を説いたわけではない。人間存在に意味はない。しかし人間には自由意志がある。だから自分の意志で自分を定義できるということだ。

ペーパーナイフであれば、紙を切るという本質がなければ、存在する意味もなくなる。しかし人間の場合は、こんな風に生きなければならない、という生まれ持った宿命などないので、自分の意志で自分の存在理由を選択できる。これがサルトルの説く、実存主義である。

いわば実存主義とは、絶対的な自由のことだ。

そしてサルトルの小説では、存在や肉体に対する嫌悪感をきっかけに、存在とは何か、自由とは何か、人間はいかに生きるべきか、という実存主義の探求に入っていく。

『水いらず』の場合は、主人公リュリュが、セックスにおける肉体厭悪をきっかけに、存在とは何か、という疑問にぶち当たり、そこから自分はどう生きるか、という「自由」と「選択」の葛藤に進んでいく。

次章にて詳しく解説していく。

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リュリュの肉体厭悪について

リュリュの肉体厭悪は、性器の生々しさへの不快感や恐怖感からくるものだ。しかし根本的には、男に肉体を弄ばれる行為が愛だということに疑問を感じ、それが嫌悪感に繋がっている。

男はそういう気分になると夜中に自分を起こしてでも行為に及ぶ。生理の時でさえしようとする男もいるらしい。自分の肉体は男に愛撫されるために存在するのか。

けれども、仮に自分の腸を瓶に入れて見せたとしたら、男はそれがリュリュのものだとは気づかないし、愛着を抱くこともない。それなのに胸や性器であれば、リュリュのものとして男は愛撫する。人を愛するということは、その人の何から何まで好きになることなのに、なぜか内臓までは愛せない。

仮に内臓が目に見える場所にあって、愛撫できるものであれば、男はきっとそれを愛する。逆に言えば、セックスに関与しないものは愛することができない。

してみれば、この肉体とは結局セックスのために存在するのではないか。

リュリュの肉体厭悪は、こうした肉体の存在理由に対する疑念に端を発する。

ああ、人間とはあれなんだ。衣装を着るのも、肌を洗うのも、おめかしするのもあれのためなんだ。どんな小説でもあれのことを書いている。人間はたえずあのことを考える。

『水いらず/サルトル』

全ての行動原理があれに根ざしているほど、人生においてセックスはそれほど重要なのか。

確かに周りの人間はそう考えている。女友達のリレットは、リュリュに対して性的不能の夫と別れるよう説得するが、その理由は、セックスは一生の幸福に関わることで、それを性的不能の夫で棒に振る法はない、ということだ。

ここでサルトルの「実存は本質に先立つ」の思想が関わってくる。

つまり、人間(肉体)存在の前提にセックスがあるとすれば、それはペーパーナイフと同じ、本質が実存に先立つ逆のパターンだ。そして本質が実存に先立った場合、つまり人生においてセックスが最重要と決められた時点で、人間の自由は束縛される。

「実存は本質に先立つ」とは、人間はこうあるべきという生まれ持った宿命など持たず、ただ意味もなく存在しているので、自分の存在理由や幸福は自分で選択できる、という絶対的な自由の思想だ。しかし人間は常に他者の視線によって、こうあるべきだと決められる。大企業に就職してバリバリ出世するのが男の幸福、三十歳を超えてフリーターなんて負け組、結婚して子供を育てるのが女の幸福、三十歳を超えて独身なんて売れ残り。現代社会においても人間は絶えず、こうあるべきという他者の視線に束縛されている。

それと同じようにリュリュは、セックスが一生の幸福に関わる重要なこと、という束縛に苦しんているのだろう。肉体の存在理由は自分で選択できるはずなのに、セックスのために存在すると決められ、それを前提に男に弄ばれる。

このようにリュリュの肉体厭悪は、他者に存在理由を定義され、自由を束縛されることへの不快感からくるものだと考えられる。

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性的不能の夫に回帰した理由

リュリュは夫が性的不能であるために、かえって安心して一緒に暮らすことができた。性的不能の夫といれば、肉体の存在理由をセックスに束縛されることもない。

一方で彼女にはピエールという愛人がいる。夫とは対照的に男らしい体つきで、リュリュの肉体を欲しいままに弄ぶ。リュリュはそのことに嫌悪感を抱いている。

あの男はわたしをじっと見てこう思うだろう。「これはおれの慰みものだ。俺はこの女の、あそことあそこにさわったんだ。そして好きなときに、いつでもまたさわれるんだ」

『水いらず/サルトル』

男はわたしを征服した気なんだからわたしはあなどられた気持ちになる。ピエール、あの人が例のうぬぼれた顔をして「おれには技巧がある」なんて言ったら、わたしはあの人をひっぱたきたくなる。

『水いらず/サルトル』

リュリュは愛人ピエールとの行為に全く快楽を感じない、というかセックス自体に快楽を感じない。しかし自慰には快楽を感じる。

快感、それを与えることができるのはわたし自身だけなんだ。

『水いらず/サルトル』

これはリュリュが、他者に与えられる受動的な幸福ではなく、自分で意思決定する主観的な幸福を求めている証拠だ。つまり「実存は本質に先立つ」である。

リュリュは、性的不能の夫と別れるよう忠告してくるリレットにもうんざりしている。善意のつもりでお節介を焼くからタチが悪い。他者というのは善意で自由を束縛してくる。

そしてここからリュリュの「自由」と「選択」の葛藤が始まる。他者が決めた受動的な幸福を選ぶのか、自分で意思決定する主観的な幸福を選ぶのか。つまり肉体の存在理由をセックスに束縛される愛人ピエールと一緒になるか、肉体の存在理由を束縛されない性的不能の夫と一緒にいるか。

ここでサルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という思想が関わってくる。

自分で自分の存在理由を定義する絶対的な自由とは、聞こえがいいように思えて、実は負の側面も有している。絶えず自分で選択しなければならない精神的ストレスだ。

例えば、大学に進学して企業に就職し、そこで一生涯働き続ける。そういった社会が漠然と定義するレールに従って生きる方が、人間は自分で考えて選択する必要がないから楽である。現代社会における生き方の多様化とは、自由な生き方を選択できる正の側面と、自分で考えて選択しなければならない負の側面を持つ、両刀の剣なのだ。目的がある人間にとって自由は居心地がいい。しかし目的がない人間からすれば、大転職時代、なんて言われても不安になる。

「人間は自由の刑に処せられている」とは、自由が持つ正と負の二つの側面を言い表した言葉なのだ。

リュリュもまた、周囲の忠告に従って愛人ピエールと一緒になる方が楽だったかも知れない。実際に彼女は一時的にピエールと一緒になる決心をして夫の元から飛び出すのだが、最終的には肉体厭悪から逃れるために、性的不能者たる夫の元へ帰っていく。それは自分の存在理由をセックスではなく、自分で定義することを選んだ結果だったのだろう。

リュリュが元の鞘に戻ったと知り、リレットは納得できず、苦い悔恨を味わう。リレットにしてみれば、リュリュの幸福のために性的不能の夫と別れるよう説得していた。それが失敗に終わったということで、セックスのない不幸な生活からリュリュを救ってあげれなかったという悔恨が残ったのだろう。

しかし「実存は本質に先立つ」である。個人の存在理由は個人が定義するものであり、それがいかに社会から逸脱した生き方であろうと、自分がよければそれでいいのだ。他人にとやかく言う資格はない。

肉体厭悪を抱くリュリュが、夫の元を飛び出して、一時的に愛人と一緒になるも、また夫の元に戻るだけの単純な物語だが、そこには実存主義の出発点となる主題が含まれている。

そしてこの主題を踏まえた上で、名作『嘔吐』に挑戦すれば、難解な書も幾分かとっつくやすくなると思われる。未読の方はチェックしていただきたい。

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