中村文則の小説『掏摸』は、大江健三郎賞を受賞した作品です。
掏摸を生業とする主人公が、この世界の絶対的な悪や不条理と対峙する物語が描かれます。
世界各国でも翻訳出版され、「ウォール・ストリート・ジャーナル」2012年ベスト10小説にも選出されました。
その人気を受けて2年後には、ついとなる作品『王国』が発表されました。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 中村文則 |
発表時期 | 2009年(平成21年) |
ジャンル | 長編小説 |
ページ | 187ページ |
テーマ | 不条理に抗う 運命は可変的か? |
受賞 | 大江健三郎賞(2010) |
関連 | ウォール・ストリート・ジャーナル 2012年ベスト10小説に選出 |
あらすじ
金持ち相手の掏摸を生業とする主人公は、ある日、最悪の男と再会します。闇社会の支配者・木崎です。
かつて主人公と、掏摸仲間の石川は、木崎の命令で強盗を行いましたが、その日を境に石川は行方不明になりました。組織について知り過ぎたために消されたのです。そんな恐ろしい男に、主人公は新たに3つの任務を課せられます。どれも、掏摸の技術を活かした難題でした。
一方で、主人公はスーパーで息子に万引きをさせる親子を助けたことで、その子供に付き纏われるようになります。面倒に思っていた主人公ですが、いつしか幼少の頃の自分を見出し、その子供に愛着が湧くようになります。ところが子供に情が湧いたばかりに、木崎に「任務から逃げたら親子を殺す」と脅迫されるのでした。
順調に任務をこなす主人公は、既に木崎のシナリオに迷い込んでいました。任務を完遂しようがしまいが、初めから殺される運命だったのです。主人公の運命は木崎に握られていたのか、それとも木崎に握られることが運命だったのか。いずれにしても、主人公は運命という不条理の中で、運命に抗って、生を望むのでした。
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個人的考察
不条理を描いた文学
作者の中村文則は、ドフトエフスキーや、カミュなどに影響を受けているため、不条理を扱った作品が多く見られます。
彼の作品では主人公が孤児であることが多く、とりわけ初期の作品では、実の親との蟠りが重要な要素として描かれています。どんな親の元に生まれるかは選べないため、人間にとって最もな不条理とは、出生なのかもしれません。
デビュー作『銃』、次作『遮光』では、実の親との蟠りによって、孤児の主人公は破滅へと向かいます。
ただし、三作目にして芥川賞を受賞した『土の中の子供』では、孤児の主人公は、実の親との蟠りにおいてある種の克服を遂げます。そのため、以降の作品は、親との葛藤ではない、別の種類の不条理に焦点が当てられます。
『掏摸』では、おそらく主人公は孤児ですが、両親の存在については深く描かれません。その代わりに、「持つ者・持たざる者」という不条理がベースになっています。
自分で手に入れたものではない、与えられたものを誇る彼を、醜い存在なのだと思った。
『掏摸/中村文則』
これは、少年時代の主人公が、親におもちゃを買ってもらった子供に対して抱いた感情です。子供は自分の力でモノを手に入れることはできないので、親に与えてもらいます。お金もおもちゃも食事も教育も愛情も。
ところが、そんな一般常識から逸した、親に与えてもらえない子供はどうすればいいのか。
奪うしかありません。
店に入り、おにぎりを小さいポケットに入れた。他人のものは、自分の手の中で、異物として重たかった。だが僕はその行為に、罪も悪も感じなかった。成長を要求する身体は多くの食材を求め、それを手にして食べることに、抵抗を感じるなど不可解だと思った。
『掏摸/中村文則』
主人公は選んで掏摸を始めたわけではなく、生きるためにそうせざるを得なかったのです。選べない、それはつまり不条理です。
そんな主人公に、さらなる不条理が降り掛かります。
絶対悪・木崎のシナリオに陥れられたのです。任務を遂行しようが失敗しようが、主人公には死という運命が確定されていました。
不条理の化身とも言える運命。果たして、運命とは人間の力によって他人に強いたり、あるいはその運命から逃げ出すことは可能なのか。
そういった葛藤の中で、主人公は足掻きます。
運命を牛耳る絶対悪
お前の運命は、俺が握っていたのか、それとも、俺に握られることが、お前の運命だったのか。だが、そもそも、それは同じことだと思わんか?
『掏摸/中村文則』
不条理な死を目前にした主人公に対して、木崎が言ったセリフです。
そもそも人間の運命を、他人が牛耳ることなど可能なのでしょうか。
この議題を象徴する話が、作中で語られます。
フランスの貴族が、使用人の少年の運命を完全に規定しようと企む物語です。少年の両親がどのように死に、少年が誰に恋し、誰とセックスをするかまで、貴族が全て事前にノートにしたため、その通りに実行させるのです。そしてある時、そのノートを少年に見せ、自分の最後が処刑であることを知らせるのでした。少年はあらゆる感情に震撼したまま殺されます。
少年の運命を完全に牛耳った貴族は、何にも変え難い圧倒的な快楽を感じたようです。
木崎は、この貴族と同じ快楽を味わうために主人公を自分のシナリオに陥れたのでした。
作者が構想する絶対悪とは、他人の運命を完全に支配することなのだと思います。そして、不条理とは自然発生的、人間の手の届かないものだと思いがちですが、実は他者の悪意によって生じるものなのかもしれません。戦争や貧困が良い例でしょう。
ただし、貴族や木崎のように、他者の運命を牛耳ることができるとすれば、運命は可変的ということになります。操れる可能性が生じるのです。さすれば、主人公にも可能性が与えられます。自分自身に降りかかる運命を、自分の手で変えることができる可能性です。
果たして、運命に対する主人公の反抗は実を結ぶのか。
その答えは明確に描かれないため、読者に委ねられていますが、次章では個人的な解釈を説明します。
主人公は最後どうなったのか
任務を完遂したにもかかわらず、銃で撃たれた主人公。成功しようが失敗しようが、木崎のシナリオでは、初めから死ぬ運命だったのです。
危機的状況に陥った主人公は、誰かから無意識に取った五百円玉を発見します。そして、通りかかった人影に向かってそのコインを投げたところで物語が幕を閉じます。
人影が見えた時、僕は痛みを感じながら、コインを投げた。血に染まったコインは日の光を隠し、あらゆる誤差を望むように、空中で黒く光った。
『掏摸/中村文則』
そもそもコインが誰のものなのかは明かされません。主人公には、無意識に掏摸をする癖がありましたから、どこかのタイミングで見知らぬ通行人から盗んだのかもしれません。
最も有力なのは、木崎から盗んだという考察です。(巻末の解説でもそう推測されています)
木崎は完全に主人公の運命を牛耳っていました。しかし、おそらくコインを盗まれたことには気づいていません。
つまり、木崎のシナリオに陥っていた主人公は、唯一、コインを盗むというシナリオ外の行為を成功させたのです。
言うなれば、絶対的な運命の一部を主人公は自分の力で変えたのです。貴族の物語に当てはめるならば、事前にノートにしたためていた内容以外の行為を実行したのです。
そして主人公は、その運命外の象徴となるコインを通りすがりの人影に向かって投げ、誤差を望むことで、生を強く望みました。木崎が牛耳る運命に立ち向かおうとしたのです。
ともすれば、僅かでも木崎のシナリオから脱出した主人公は、不条理な運命に打ち勝つことができたのではないでしょうか。
「塔」は何を象徴しているのか
作中では、「塔」の存在が、何かのメタファーとして用いられています。
その塔は、少年時代の主人公には見えていましたが、掏摸をするうちに見えなくなりました。
作者である中村文則自身、幼い頃に塔の幻覚が見えていたようです。あらゆるものに背を向けようとする若き日の作者を、肯定も否定もすることなく立ちはだかる塔。
正直この塔を正確な単語で表現することは不可能です。強いていうなら、善でも悪でもない超越的な存在、になるかもしれません。
塔は主人公を取り巻く世界のシンボルです。善悪のない世界、それは我々が生きる世界です。ところが人間社会には善や悪が存在します。しかし、戦争では殺人は正義になるし、武士の時代には敵討ちは美徳とされました。
つまり、もともと世界には善悪はなかったが、権力者が都合いい善悪を生み出したのです。
主人公は、掏摸をする瞬間にだけ、世界から外れる感覚を覚えました。それは主人公に快楽を与えました。
「光が目に入って仕方ないなら、それとは反対へ降りていけばいい」
『掏摸/中村文則』
残酷な運命を強いられ、潔白な世界で惨めな思いをするなら、いっそ悪事に徹し、光のささない真っ暗な世界で生きる方が心地よく感じたのかもしれません。
しかし、世界から外れた主人公は、同時に塔からも離れることになりました。人間社会から逸脱した主人公は、身寄りがなく、死んでも誰にも気づかない存在になり、自分の居座る世界を失ったしまったのです。世界は元より善悪を持たないにしても、現代において人間社会を逸脱することは、世界から放り出されることと同義なのかもしれません。
ところが、万引きをする少年との出会いは、主人公に他者との繋がりを与えました。あるいは、銃で撃たれた主人公は、外国に行って大金持ちから金を盗み、貧しい子供に金を与える人生を妄想します。その時に主人公の目の前には、少年時代以来の塔が現れます。他者との繋がりを求めた主人公は、再び世界との繋がりを見出すことができたのでしょう。
ただし、主人公が最後に投げたコインは、日の光を隠して黒く光りました。主人公は決して、日の光に晒された潔白な世界ではなく、主人公や友人や万引きの少年のように、残酷な運命を強いられた人間たちが、それでも運命に抗って生きていこうとする、「黒く光る世界」に居場所を見出そうとしたのではないでしょうか。
もちろん反社会的な行為を正当するつもりはないですし、作者にもそんな意図はないでしょう。ただし、文学の役割は、不条理に抵抗する人間を、肯定も否定もすることなく、彼らに「黒く光る世界」を与えることだと思います。そういう意味では、本作における塔とは、文学そのものの象徴なのかもしれません。
続編『王国』がおすすめ
世界で評価された『掏摸』の兄妹篇として、『王国』という作品が発表されました。
組織によって選ばれた「社会的要人」の弱みを人工的に作ることを生業とするユリカ。彼女の、絶対悪である木崎からの逃亡劇を描いた、『掏摸』と同じ世界線の物語になっています。
読者に解釈を任せる形だった『掏摸』のラストの意味が、『王国』によって明かされます。
それぞれ独立した作品としても楽しめますが、両方読んだ方が理解は深まります。
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