アラン・シリトーの小説『長距離走者の孤独』をご存知ですか?
1959年頃に執筆された短編小説です。
シリトーはイギリスのノッティンガム出身の作家です。元々は労働者でしたが、30歳の頃に執筆を始め、本作『長距離走者の孤独』で作家としての地位を確立しました。
労働者階級の出身という生い立ちもあり、国家や権力に対するプロテストが彼の作品の特徴です。
本作も、非行少年スミスが汚い大人たちに反抗する物語です。若者の「自由」や「誠実さ」に対する主張、あるいは一種の「理由なき反抗」がテーマになっています。
いわゆる、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』と同等に、10代のうちに読むべき文学作品として名高い1作です。
ちなみに本作は、主人公であるスミス少年が、後に自分の物語を綴っているという設定で描かれています。犯罪を犯した少年が収容される施設での出来事が、日記のような独白形式で語られます。
なぜスミス少年は、施設の大人たちに期待された長距離走のゴール直前で、走るのをやめたのでしょうか?
彼の権威に対する反逆に注目しながら、本作を解説していこうと思います。
目次
『長距離走者の孤独』の作品概要
作者 | アラン・シリトー(英) |
発表時期 | 1959年 |
ジャンル | 短編小説、プロテスト |
テーマ | 若者の自由と反抗 |
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『長距離走者の孤独』の300字あらすじ

パン屋に忍び込み、金を盗んだスミス少年は、施設に送られます。
彼は施設で長距離走者に任命されます。施設の院長の権威のために、スミスは長距離走の大会で優勝を期待されているのです。実際に、優勝した場合の待遇として、甘い話を持ちかけられています。
まるで院長の期待に応える模範的少年を演じるスミスですが、彼にはある企みがあります。それは大会当日にゴール直前で走るのをやめるという計画です。
大会では企み通り、スミスはゴールを目の前にして急に立ち止まります。わざと優勝を手放したのです。
院長の顔に泥を塗ったスミスは、施設退所までの半年間、大人から酷い扱いを受けます。しかし、彼は自分のレースには勝ったのでした。
『長距離走者の孤独』のあらすじを詳しく
①長距離走者に選ばれたスミス少年
パン屋の金を盗んだスミス少年は、警察に捕まり、施設に送られました。
施設に送られたスミスは、長距離クロスカントリー選手にさせられます。施設の院長に、大会で優勝することを期待されているのです。
おかげで、他の連中が目覚めるよりも1時間早く起きて、真冬の早朝にトレーニングをする羽目になります。
大人たちは、スポーツが堅気な人生へ導いてくれるという定説を主張します。しかし実際は、施設の権威と名誉のために用意された建前に過ぎません。
スミスもそんなことは当然理解しています。しかし、彼にとって早朝のランニングはそれほど苦しい定めでもなく、むしろ気分のいい瞬間ではありました。
とは言え、スミスに「堅気な人生」へ改心する気など全くありません。院長に話しかけられれば、まるで模範的な少年を演じます。しかし、心の中では反逆精神を失ってはいません。
スミスは、院長のために長距離走の大会で優勝カップを取る気などさらさらないのです。
名誉のために嘘をつく大人と、自分のために嘘をつくスミス。
スミスも大人も同じくらいずるい存在ですが、スミスから言わせれば、施設の大人は生きながらに死んでいるようなものです。大人は「誠実さ」とは何を意味するのかも理解していません。だからこそ、スミスは、何も分かっていない大人たちに対する「自身の戦い」に挑んでいるのです。
それはまさに、スミスにとっての「誠実さ」を大人たちに見せつけることで、果たされる勝負なのです。
②スミスが捕まった経緯
施設に入る前にスミスは、盗みの計画を練りながら、相棒のマイクと街をほっつき歩いていました。
それと言うのも、死んだ父親の保険金と給付金が底を尽きたからです。父親の死によって一時的に大金を得たスミスの家庭は、贅沢な暮らしを送っていました。
しかし、怠慢によりその金を消費し切ったため、スミスは相棒のマイクを誘ってパン屋に侵入したのです。
店内から金庫を盗んだ2人は、帰宅途中に警察に捕まることもなく、見事強盗を成功させました。
スミスは盗んだ金を家の雨樋の中に隠します。
なぜなら、少しでも金を多く持っている人間を見れば、自分が迷惑したわけでもないくせに、警察に突き出そうとする連中が街には溢れているからです。とは言え、2人の強盗は完璧であり、自分たちが警察に尻尾を掴まれることなど想像もしていませんでした。
ところが数日後、警官がスミスの家を訪ねて来ます。
警官はパン屋の強盗について散々スミスに尋問します。しかし、スミスはまるで何も知らないといった様子で、完全にしらを切ります。挙句、警官は家の中を捜索し始めますが、結局盗まれた金は見つかりません。
それから連日、警官の尋問は続きます。
ある雨が降る朝、いつものように警官がスミスの家を訪ねて来ます。同じように警官は尋問を始め、対するスミスは巧みにしらを切ります。
しかし次の瞬間、スミスは、警官があるものに視線を向けていることに気がつきます。
天気の影響で雨水が流れ出し、雨樋から紙幣が数枚顔を出していたのです。
次第に盗んだ紙幣は庭中に溢れ出してしまいます。
こうしてスミスとマイクの犯行は呆気なくバレてしまいました。マイクは初犯のため保釈されますが、前科があるスミスは施設へぶち込まれる羽目になりました。
③長距離走の大会当日
パン屋襲撃がばれ、あっけなく捕まったスミスでした。
彼は、施設内では模範少年を演じ、長距離走にも本気で打ち込んでいるふりをしています。
大会当日も、スミスはあたかも院長の期待に応えるかのような態度を演じています。院長も当然、スミスが自分たちの名誉のために優勝カップを取ってくれると信じ切っています。
遂にレースが始まります。
多くの大人たちの期待を背負ったスミスは、勢いよく走り出しました。ラストスパートが鍵になる長距離走であるため、スミスはとりあえず2番目の順位を保ちながら走り続けます。
途中、自分が優勝するために追い抜かなければならない1位走者の姿が見えなくなります。それどころか他の選手も全く見えません。スミスは「長距離走者の孤独」を感じます。そして、この孤独感こそが唯一の誠実さであり、現実なのだと実感します。
もはやスミスは、大人の期待するコースを走っているのではなく、自分だけのためのコースを走っています。
④本当の勝利を手に入れた
いつの間にか先頭の走者を追い抜いて、スミスが1位を駆け抜けます。
そして遂に、観覧席に囲まれたゴール直前で、スミスは走るのをやめます。
観客席では紳士淑女が「走れ走れ」と怒号をあげています。スミスは様々な歓声の中、嬉し泣きをしながら立ち尽くしていました。
なぜなら彼は、彼自身の誠実さを見せつけ、自分自身のレースに勝ったからです。
それ以降、施設を出るまでの半年間は、大人たちがスミスに過酷な仕打ちを与えました。しかし、残り半年という期限があったため、スミスも弱ることなく耐え抜きました。
院長は、施設を退所した後のスミスを軍隊に入れようとしていました。しかし、スミスは体格検査に引っ掛かり入隊せずに済みます。それと言うのも、大会後に施設の大人たちがスミスに酷い労働を課したため、彼は肋膜を悪くしたのです。
結果的に、スミスは自分のレースに2度も勝ったと自負しています。
出所後も相変わらず強盗で金を蓄え、警察に捕まらず優雅に暮らしているスミスです。
これらの出来事を綴った文章を、とある友人に渡しています。もし今後自分が捕まった際には文章を公にしてもらい、施設の院長の反応を楽しむ予定なのです。その友人は、昔から相棒だった彼のようです。
そして物語は幕を閉じます。
『長距離走者の孤独』の個人的考察

スミスが追求する「誠実さ」とは?
作中に幾度となく「誠実さ」という言葉が用いられます。人によって異なる主義のような、多元的なニュアンスで使われています。
要するに、スミス少年にとっての「誠実さ」と、施設の院長にとっての「誠実さ」は異なるということです。
まず、院長にとっての誠実さとは、非行少年を堅気な人生に導くことです。その最もたる手段としてスポーツが挙げられています。しかし実際的には、スミスを長距離走の大会に出場させるのは、非行少年の更生よりも、競馬的な娯楽や、施設の権威と名誉が目的です。
事実、院長は競技前のスミスに対して、「きょうはあのカップをわれわれのために取ってきてくれ。」と声をかけます。スミス自身のためではなく、施設の名誉のために大会は開催されていることは明確です。
あるいは、優勝した見返りとして甘い蜜を与える条件もスミスに提示しています。スミスは、こういった大人たちのずるい企みを知っているからこそ、彼らの「誠実さ」を非難しているのでしょう。
一方で、スミスの誠実さとは「自由」を意味します。いわゆる、自由に思考すること、自由に走ること、自由に生きることが、彼の主張の根底にあります。
スミスは「レースの最中に感じる孤独こそが誠実さである」と主張していました。あるいは、早朝のトレーニングの場面でも、「長距離走は唯一監視の目を離れて自由でいられる瞬間だ」と綴られています。
「気分をこわされる相手もいなければ、ああしろこうしろとか、手易い店があるから隣の通りから裏口に忍びこめとか命令する奴もいないでたったひとり、この世の中に飛びだせる長距離走者だということはありがたいことだ。」
『長距離走者の孤独/アラン・シリトー』
スミスにとっては、走っている最中だけが、好き勝手に物事を考えたり、大人たちの権威や命令から逃れることができる瞬間だったようです。つまり、自由に生きることこそがスミスにとっての「誠実さ」なのでしょう。
何者にも拘束されず、ほとんどアナーキーな状態に置かれた時に、人間は本当の意味で誠実でいられるという、作者の思想が感じられます。
だからこそ、他人に強要する院長の誠実さに、スミスは抗っていたのだと思います。
スミスはなぜ走るのをやめたのか?
このように院長とスミスは、それぞれの主張・企みを所有しています。
施設は命令や規則によって非行少年を拘束し、挙句自分たちの名誉のためにスポーツをさせます。しかし、スミス少年は「全ての権威から解放された自由こそが誠実さである」というアナキズム的な主張を持っています。だからこそ、院長とスミスの「誠実さ」は相容れるわけがないのです。
その結果、スミスにとって長距離走は「自由」と「拘束」両方の側面を所有しています。
なぜなら、本来大人たちの監視から解放される長距離走が、大人たちの権威のために利用されているからです。スミスが大会で優勝すれば、大人たちの目的に加担する羽目になります。
スミスは大会で優勝すると同時に、大人たちの権威に敗北することになるのです。
だから、スミスはわざと大会に負けることで、大人たちの権威に反抗しました。
スミスは大会での勝利よりも、自分自身の戦いにおける勝利を選んだのです。
彼は自分だけのレースを走り続けることで、大人たちに自分の「誠実さ」を訴えたのでしょう。
スミスの「権威に対する勝利」は決して安易に成された結果ではありません。むしろ残酷な葛藤の中で彼は苦しめられていたと思います。
大人たちの醜い権威がなければ、「大会の優勝」と「自分自身のレースの優勝」が分離することはありませんでした。本来スポーツマンに、そのどちらか片方を選択させるなど、許されません。自分自身の優勝が、大会の優勝であるべきなのです。
しかし、スミスは大人たちの権威に抗うために、自ら大会の優勝を手放さなければいけなかったのです。
ともすれば、ゴール直前で泣き崩れたスミス少年の涙は、一体どんな心情を表していたのでしょうか。
本人は、権威に勝ったことに対する嬉し泣きだと主張しています。しかし、その裏にスミス少年の残酷な葛藤があったと想像すれば、涙の理由はそれほど単純だったとは思えません。
スポーツとナショナリズム
作者のシリトーは、1972年に「スポーツとナショナリズム」という文章を書いています。
オリンピックを批判的に捉えることで、「個人と国家」、「個人と全体」の問題を主張しています。
「ぼくたちはみな、全体主義国家では、スポーツは全体主義体制に個人を訓練し従属させるために利用されていることを知っている。いわゆる民主国家でも、競争的スポーツは同じ目的で同じように利用されるが、そこでは参加者は、第一義的には参加者自身のために競争しているのであって、国家のためではないと思われる。だが彼らはスタジアムや競技場に入場すると、たちまち全体主義体制の人々とまったく同じように、その国の代表になってしまう。」
『Sport and Nationalism/アラン・シリトー』
要するに、スポーツとは個人の競走であって、それを国家や権力が利用することはあってはならないという主張です。
まさに『長距離走者の孤独』で、スミス少年が葛藤したテーマです。スポーツという無報酬の行為に、権威が関与することによって、選手の目的は狂ってしまいます。
スミス少年が本来戦うべきは、自分自身の精神の解放であり、それが結果的に大会の優勝になるべきだったのです。そこに院長の名誉や権威が介入することで、スミスは本来の目的を失い、権威との戦いに発展し、そして大会の優勝を故意に手放さなくてはいけなくなったのです。
2021年、我々が生活する日本でオリンピックが開催されます。開催にあたり、様々な議論が交わされ、紆余曲折しているみたいです。そして、一貫して国家はオリンピックの開催を決行しようとしています。賛否両論は当然ですし、全員が納得する結果を導き出すのは不可能だと思います。しかし、決して個人の競走が国家の目的になってはいけないということだけは忘れてはいけません。
スミス少年のような葛藤を、国家が個人に強要するべきではないのです。
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