田山花袋『少女病』あらすじ解説|変態ロリコン文学が気持ち悪い?

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少女病 散文のわだち

小説『少女病』は、自然主義文学の傑作に位置する田山花袋の代表作である。

妻子持ちの中年男が、電車で若い女学生を観察して欲情する、変態的な物語が描かれる。

代表作『蒲団』でも、女学生の蒲団の匂いを嗅ぐという変態性が描かれるが、なぜこんな異様な作品が当時は評価されたのだろうか?

そこで本記事では、あらすじを紹介した上で、時代背景から物語の意味を考察していく。

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作品概要

作者田山花袋
発表時期  1907年(明治40年)  
ジャンル短編小説 
ページ数22ページ
テーマ性欲の葛藤
少女趣味
明治時代の女性像の変化
収録『田山花袋全集』

あらすじ

あらすじ

主人公は妻子持ちの中年男性で、かつては小説家として評価されていたが、今は落ちぶれて編集社で校正の仕事をしている。

落ちぶれたことを同僚に馬鹿にされ、やりたくもない仕事は辛く、結婚生活にも飽きた。そんな孤独な主人公の唯一の楽しみは、電車の中で少女を観察することだった。

その日も駅へ向かう道で、美しい少女を見かける。彼女とは何度も電車で乗り合わせ、話したことはないが、尾行して家を突き止めている。また駅の待合室の前には、いつか落としたピンを拾ってあげた少女がいる。彼女が自分に対して素知らぬふりをするのは、年頃で恥ずかしがっているからだと考えて主人公は悦に浸る。

混み合った車内で、目の前に少女が来て、柔らかい着物に触れ、髪の匂いが漂うと、主人公は幸福のあまり昇天しかける。しかし主人公は、かつて1度だけ遭遇した美しい令嬢との再会を夢見ているのだった。

会社に到着すれば少女の夢は覚め、今日1日の苦しみに嫌気がさす。少女のことを妄想して苦しみに耐えようとする。しかし、いくら少女の肉体に憧れても、妻子持ちの中年には二度と触れることが許されない現実に、かえって死にたくなるのだった。

仕事帰りの電車は酷く混雑していた。ふと車内を見渡すと、例の美しい令嬢が乗り合わせていた。あまりの混雑に主人公は車外に押し出されそうなるが、美しい令嬢にうっとりして我を忘れている。そのまま主人公は車外に押し出され、線路の上に転がり落ちる。運悪く向かいの電車が通過し、主人公は電車に引きずられ、紅い血が線路を染めるのだった。

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個人的考察

個人的考察-(2)

変態性を暴露する自然主義文学

本作『少女病』が発表された1907年(明治40年)は、自然主義文学の黄金時代である。

自然主義文学とは、19世紀のフランスで勃発した文学運動で、あらゆる美化を排除した作風を指す。例えば、貧困などの社会的要因、遺伝などの科学的観点から、登場人物をリアルに描こうとする文学運動のことである。写実主義(真実を写す)と呼ばれることもある。

ところが明治時代の日本では、この自然主義文学が間違った文脈で取り入れられた。「現実の出来事を包み隠さず描く」という暴露的な解釈がなされたのだ。

結果的に作者自身の秘密を暴露する「私小説」なるものが独自に発展した。その一人者が田山花袋であり、代表作『蒲団』『少女病』はともに、作者自身の性欲の葛藤を暴露した内容になっている。

他にも、島崎藤村は『新生』という作品で、自ら不倫を暴露し、当時スキャンダルになった。

ある意味、自虐的な文学と言える。

明治時代の日本は、何でも蚊でも「西洋万歳」の風潮だったので、文壇では自然主義文学だけが重宝され、夏目漱石のように「人生とは、幸福とは」を追求する思想文学は余裕派と軽視されていた。

そうした状況を受けて森鴎外は、あえて自らの性欲を暴露した「ウィタ・セクスアリス」という作品を書いて自然主義を皮肉ったりもした。

ともあれ、若い女学生に興奮する中年男性を描いた『少女病』は、当時の自然主義のブームに則って生まれた暴露小説ということだ。

『少女病』の主人公は落ちぶれた作家という設定だが、これも当時の田山花袋の境遇が反映されている。

同世代の島崎藤村は「破戒」で喝采を受け、国木田独歩は「独歩集」で評価され、自分だけが燻っているという焦りがあったようだ。

私は一人取残されたような気がした。(略)何も書けない。私は半ば失望し、半ば焦燥した。

『東京の三十年/田山花袋』

そして、このスランプを打ち破るべく、暴露の中でも最も過激な性欲を解放し、『蒲団』『少女病』という名作が誕生した。自分の名誉を犠牲にしてまで、芸術に全てを捧げたわけだ。

当時の田山花袋の葛藤や、自然主義文学の盛衰などは、彼の自伝的随筆『東京の三十年』に詳しく記されているので、興味がある人はチェックしてみてください。

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旧式の女性、新式の女性

日本では自然主義文学が歪曲した暴露小説として確立されたのだが、では手当たり次第、私生活や内面を暴露しまくればいいのかと言えば、それは違う。

少なからず田山花袋の『少女病』には、単なる性欲の暴露にとどまらない、時代的・社会的テーマが重ねて描かれている。

それは、明治時代における女性像の変化だ。

『少女病』の主人公は妻子持ちでありながら、年甲斐もなく若い少女に欲情するロリコンなわけだが、それは「新式の女性」に対する憧憬とも言える。

40歳を近い主人公は明治初期の生まれで、いわゆる全体主義的な価値観で育った世代だ。女性は良妻賢母を叩き込まれ、慎ましくあることを強いられ、学問は不要と見なされ、自由恋愛は許されず、ましてや結婚前に処女を失うなどご法度だった。

ところが明治末期になると、徐々に西洋の個人主義が日本に根付き出し、とりわけ若い世代の間では、ハイカラで元気が良く、学問を身に付け、自由恋愛を望む、新式の女性なるものが登場する。そしてきたる大正デモクラシーの時代には、いっそう女性の社会参画が認められるようになっていく。

いわば田山花袋は、ひたすら受け身だった女性像が、積極的に行動する女性像へと変化する様を目の当たりにしていたのだ。

田山花袋の『蒲団』という作品では、中年男性の作家が、弟子の若い娘に惑溺する似たような物語が描かれるのだが、その作中に次のような一節が記される。

男女が二人で歩いたり話したりさえすれば、すぐあやしいとか変だとか思うのだが、一体、そんなことを思ったり、言ったりするのが旧式だ。

『蒲団/田山花袋』

田山花袋が若い頃には、男女が二人きりで会うことにすら抵抗があった、というか世間の目が許さなかった。それが明治末期になると、女性から積極的に男友達と関わるような、非常に現代に近い価値観に変わっていったのだ。

それが田山花袋の性欲を刺激した。若き日の彼の道徳観からすれば、気軽に女性と懇意になることなどあり得なかった。そして結婚は縁談が当然で、受け身で慎ましく夫と家に仕えることしか知らない旧式の妻と、馴れ合いのない夫婦生活を送っている。

そんな彼からすれば、ハイカラで快活な若い娘に積極的に慕われたりすると、若き日に抑圧された性欲が暴走しかねないのだ。

実際に『蒲団』では、弟子の若い娘に「先生!先生!」と慕われただけで主人公は幸福のあまり昇天しかねない勢いだ。

『少女病』でも、主人公は「新式の女性」に対する憧憬が暴走し、観察どころかストーカーまがいの言動まで行っている。

だが同時に、中年に達した自分には、二度と若い娘の肉に触れることができない、という寂寞の思いにも駆られている。

いくら美しい少女の髪の香に憧れたからって、もう自分らが恋をする時代ではない。また恋をしたいたッて、美しい鳥を誘う羽翼をもう持っておらない。と思うと、もう生きている価値がない、死んだ方が好い、死んだ方が好い、死んだ方が好い

『少女病/田山花袋』

若い時に、なぜはげしい恋をしなかった? なぜ充分に肉のかおりをも嗅がなかった? 今時分思ったとて、なんの反響がある? もう三十七だ。こう思うと、気がいらいらして、髪の毛をむしりたくなる。

『少女病/田山花袋』

若き日に抑圧された性欲が、中年になってから暴走する。そのやり場のない悶々とした気持ちをこじらせて、髪をむしって死にたい死にたいと嘆くのだから、ちょっと面白い。

陳腐な暴露に感じられるが、しかしそこには時代と価値観の変化によって、許されなかった世代と許された世代との乖離があるわけだ。全体主義社会で感情や欲求を殺す女性像に親しんだ田山花袋にとっては、意志を持って行動する新式の女性がキラキラして見えたのだろう。

この露骨に性欲の葛藤を描いた『少女病』は、文壇では高く評価されたが、世間一般的にはあまり人気がなかったという。

確かに一般人からすれば、おっさんの性欲の暴露を聞かされても、辟易するばかりであろう。

個人的な感想としては、学生時代は近代文学といえば、学校で習う退屈な小説という印象しかなかったが、田山花袋の作品を読んで以来、文学に興味を持ったので、この手の教科書に載らない過激な文学は、案外堅っ苦しい文学の入り口になったりするのではないか。

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なぜ主人公は死んだのか

ここまで『少女病』を時代背景から深掘りしてきたのだが、読者の多くはその変態的な暴露よりも、唐突に主人公が死ぬ結末に衝撃を受けたのではないか。

少女観察の性癖を持つ主人公には、かねてよりお気に入りの令嬢が1人いた。再会したい願望は長らく叶わなかったのだが、最後の最後に同じ車両に乗り合わせることに成功する。そして令嬢にうっとり心を奪われているうちに、車内から線路に放り出され、運悪く向かいからやって来た電車に轢かれて死んでしまう。

そんな簡単に車外に放り出される当時の電車の造りがちょっと想像できない。

ともあれ、この唐突な結末は、旧世代の主人公が、次世代の価値観から弾き出される様を暗示的に描いているのではないか。

令嬢が乗る「車両」それ自体が、「次世代」を象徴するのであれば、旧式の世代である中年の主人公には、その車両に乗る資格がない。言い換えれば、新式の女性である令嬢の肉に触れたいと願えど、旧世代の価値観に浸かった主人公は、はねつけられてしまうのだ。

例えば『蒲団』においても、主人公は次世代の価値観に理解があるのに、最終的には世間の目に根負けして、弟子の若い娘を失い、彼女の蒲団の匂いを嗅いで涙を流す結末に至る。

つまり次世代行きの車両に乗っても、そこから弾き出され、旧式の道徳という名の向かいの列車に突き飛ばされてしまうのだ。そして新式の女性の肉に触れたいという願望は見事に打ち砕かれたわけだ。

と、この考察は軽く聞き流していただければ幸いである。私自身、この結末を初めて読んだときには衝撃のあまり声を出して驚いたが、実際はそれほど深い意味はないのかもしれない。

1つ言えるのは、令嬢の肉体美を噛み締めながら死んだ主人公は、幸福だったはずだ。

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