ドストエフスキー『地下室の手記』あらすじ解説|自意識とキリスト教の衝突

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地下室の手記1 ロシア文学

ドストエフスキーの小説『地下室の手記』は、彼の転換期となった重要な作品です。

一般社会と関係を断ち、地下室に閉じこもった男の物語が描かれます。

ドストエフスキー全作品を読み解く鍵とも言われ、後年の傑作『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を理解するのに欠かせない1冊です。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者  ドストエフスキー  
ロシア
発表1864年
ジャンル中編小説
ページ数205ページ
テーマ自意識過剰な人間
理性と自我の対立
 キリスト教に対する懐疑 

あらすじ

あらすじ

40歳の主人公は、遺産が転がり込んだのを機に、20年ほど地下室に篭っています。そんな彼が地下室でしたためた、誰に宛てるわけでもない手記の内容が語られます。

自意識過剰な主人公は、自分を除け者にした社会を恨み、ひいては理性によって行動が合理化される社会を批判します。そして行動を起こし何者かになりきれる人間は馬鹿で、自分は頭が良すぎるために行動できず何者にもなれなかったのだと考えています。

そんな彼の思念を補足する、24歳の頃の3つの出来事が綴られます。

ある時は、通りでぶつかり足を踏んできた将校を恨み、復讐を企てますが、自意識のせいで結局それらしい復讐は果たせません。またある時は、招かれもしない旧友の送別会に参加し、除け者にされたことに腹を立て、復讐を企てますが、言うまでもなく、実現できませんでした。その結果、主人公は当て付けのように売春婦のリーザを意地悪く罵ります。ところが、後日リーザが家を訪ねてきて、自分がボロ屋に住む貧乏人で、雇っている召使いにも蔑まれる、情けない人間であると知られ、主人公はヒステリーを起こし、「自分は善良な人間にはなれないのだ」と嘆きます。帰りしなに主人公はリーザにお金を渡しますが、彼女はそれを受け取らずに去っていきます。激昂した主人公はリーザを追いかけますが、彼女はもう見つかりませんでした。

そこまで語り、この「手記」は打ち切られるのでした。

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個人的考察

個人的考察-(2)

転換期の重要な作品

巻末のあとがきにも記される通り、本作『地下室の手記』は、ドストエフスキーの転換期となった重要な作品です。

多くの方が想像するドストエフスキーの代表作、『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などは、後期の作品群に位置します。それらがあまりに有名なため、彼の作風は「社会や理性への信頼を喪失した、人間の深い部分」を描く印象が強いと思います。

ところが、前期の作品は人道主義的な作風であり、つまり前期と後期で明らかに変化が生じているのです。

その変化の原因となったのは、獄中での生活でしょう。ドストエフスキーは思想活動のために逮捕され死刑宣告を受けましたが、特赦によって減刑となり、社会復帰します。この経験がドストエフスキーに思想の変化をもたらし、その転換期の重要な作品として『地下室の手記』が挙げられるのです。

あとがきに記される作家ジッドの本作に対する「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」という言葉の通り、世界的な大文豪として愛される後年の作品群は、『地下室の手記』によって始まったと言っても過言ではないでしょう。

ちなみに人気作家の中村文則は、若い頃にバイト先の可愛い女友達におすすめの小説を聞かれ、本作『地下室の手記』を貸したところ、主人公があまりに最低な人間過ぎて、彼まで勘違いされて大失敗に終わったそうです。

それくらい本作の主人公は救いようのない嫌な人間なのですが、彼がどうしてそんな破滅的な性格になったのかを紐解くことが、ドストエフスキー作品全版の理解に繋がるでしょう。

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ひねくれ者の自意識過剰

手頃な中編小説だと思い手を出して挫折した人も多いと思います。それと言うのも、本作は二部構成で、前半部分は哲学書に近い観念的なことばかりが綴られるからです。

ぼくは病んだ人間だ・・・ぼくは意地の悪い人間だ。およそ人好きのしない男だ。

『地下室の手記/ドストエフスキー』

このような衝撃的な文章で始まる前半部分ですが、これこそが主人公の自意識の表れです。

地下室に篭る前の主人公は、周囲の人間に癇癪をぶつけることで快感を得ていました。ところが本当は癇癪を起こすどころか、周囲に当たり散らす時にも、自分に恥辱を感じ、その後何ヶ月も不眠症に悩まされたりするのです。

ぼくは自分の内部に、まるで正反対の要素がどえらくひそんでいるのをたえず意識していた。

『地下室の手記/ドストエフスキー』

他者に憎悪を抱いては、それに恥じらいを感じ、そういった分裂した意識のせいで、主人公はひどく苦しんでいました。

後半部分では3つの出来事が綴られますが、いずれもこの分裂した意識を象徴しています。ある時は、道で将校にぶつかられ足を踏まれたことに憤慨し、復讐を企むのですが、この自意識という名の妄想のせいで、結局復讐らしい復讐を果たすことができません。ある時は、呼ばれもしない旧友の送別会に参加し、除け者にされたことに憤慨し、復讐を企みますが、その道中で妄想が始まり、言うまでもなく復讐は果たされません。その結果、イライラを娼婦のリーザにぶつけるのですが、後日彼女が家を訪ねてきたことで、主人公は恥辱に塗れ、身を滅ぼすことになります。

こうした自意識過剰のせいで復讐さえ果たせない主人公は、「意識は病気である」とまで主張しています。つまり、「ぼくは病んだ人間」なのです。

一方で、「復讐を果たせる人間」が世間には存在することを取り上げ、復讐を果たせない自分と、復讐を果たせる世間の人間ども、という対比が語られます。

詳しくは次章で解説します。

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「世間の馬鹿な人間」と「賢い自分」

自意識過剰のため復讐を果たせない自分と、復讐を果たせる世間の人間ども。その違いは何なのかを、主人公は攻撃的な言葉で説明します。

復讐を果たせる人間は、一旦復讐の念に囚われれば、それ以外の感情は消滅するようです。つまり、主人公のように分裂した意識であれこれ考えたりしないのです。

そんな彼らを、「直情型の人間」と主人公は罵ります。そして「直情型の人間」は活動家でもあります。あらゆる行動を起こす人間は、自分の行動に恥辱を感じるような自意識を持たないのです。一方で主人公のように自意識に囚われる「思弁型の人間」は、何も行動を起こせず、何者にもなれないのです。

これら二種類の人間の決定的な違いは「頭の良さ」だと主人公は豪語します。つまり、世間の人間どもは頭が悪いから「直情的」に行動を起こせるのです。そして主人公は、自分は頭が良すぎるために何も行動を起こせないのだ、と半ば自己弁護を図る始末です。

例えば、後半で語られる友人の送別会ですが、その友人ズヴェルコフはエリートであり、「行動を起こせる人間」です。そして送別会に集まった友人たちは、ズヴェルコフの自慢話を前に、媚びることができる人間です。彼らはこういったことを何の恥じらいもなくやってのけるのです。それは「直情型の人間」だから、自分の行為に恥辱を感じたりしないからでしょう。

一方で「直情型」になれない主人公は、いちいち彼らの言動に食ってかかり、自分から恥辱に塗れ、復讐を企みますが、果たせないまま終わってしまうのでした。

こういった両者の違いは「頭の良さ」だと前述しましたが、もう1つ「理性」というキーワードが登場します。いわば「二二が四」といった数学的な法則によって自分を制御し、あたかもそう生きることが最もだと思わせてしまう「理性」のことです。

主人公はこの「理性」に反発的な考えを持っています。近い未来、理性や合理主義が人間を美しい存在にするだろうという思想に対し、人間には理性に反する「自意識」があるのだと主張します。

そしてこの理性と自意識の矛盾を、ドストエフスキーはキリスト教的な思想と照らし合わせながら、本作で説いていたのだと考えられます。

詳しくは次章にて解説します。

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キリスト教がもたらす苦しみ

結局主人公の分裂した、破滅的な人間性は何を象徴していたのか。

あとがきで引用されるドストエフスキーの言葉が、その全てを言い表していると思います。

キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である。地上の人性の掟がこれをしばり、自我が邪魔をする・・・人間はこの地上で、自身の本性に反した理性(自他への愛を融合させたキリスト)を追求している。そして、この理想追求の掟を守れないとき、(中略)人間は苦悩を感じ、この状態を罪と名づける。

『地下室の手記-あとがき』

平たく言えば、隣人愛の不可能性を説き、しかしキリストの教えに即した理性を追求するため、隣人愛を実現できない自分を罪深い存在だと考え苦しんでしまうということでしょう。

作中には「美にして崇高なるもの」という重要なキーワードが登場します。おそらくこのキーワードは、キリスト教における「隣人愛」の精神を象徴するものでしょう。

そして、主人公は周囲の人間に復讐を企むとき、必ずこの「美にして崇高なるもの」に囚われます。

例えば、将校に復讐を企む際には、憎悪の一方で、その将校と和解して親しい間柄になることを妄想します。あるいは、友人のズヴェルコフに対しても、公衆の場で彼を侮辱し、そのせいで警察に逮捕され、何十年後かに釈放されたら、銃を持って彼の家を訪ね、お前のせいで人生がめちゃくちゃだと言い張った後に、銃口を天井に向けて撃ち放ち、しかしお前を許す、と言って去っていく妄想をして、主人公は涙を流します。

いわばこれらは、他人から屈辱的な仕打ちを受けても彼らを許す、という「隣人愛」の精神に基づいているわけです。その美しい精神を妄想し主人公は感激のあまり涙を流すのですが、実際にはそれを体現することができません。理性に反する自我がそれを邪魔してしまうのです。そのため主人公は、「美にして崇高なるもの」を実現できない自分に罪悪感を抱き苦しんでいたのです。

キリストという、皆の罪を背負って磔に処せられた、絶対的な「隣人愛」の存在があるからこそ、それを実現できない人間は罪の意識に苛まれてしまうのです。

主人公は最後に、娼婦のリーザに泣きながらこんな台詞を口にします。

「ぼくはならしてもらえないんだよ・・・ぼくにはなれないんだよ・・・善良な人間には!」

『地下室の手記/ドストエフスキー』

これはまさに前述した、キリストの重たい教えに即すことができず、罪の意識に苦しむ主人公を象徴する台詞でしょう。

さらに主人公は、「虫ケラになることを望み、されど自分は虫ケラにさえ値しない」と主張しています。

善良な人間になれないからといって、キリスト教的な精神も捨てきれない、完全な悪(虫ケラ)にさえなりきれない。だからこそ、主人公は外界を閉ざした地下室に篭って、人間社会から逃げ出したのではないでしょうか。

なんて嫌な人間なんだ、と主人公を嘲笑っていた諸君、ここまで解説すれば、まるで他人事とは言えないのではないでしょうか。少なからず当ブログの筆者は、私の物語だ、と思ってしまいました・・・。

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