古井由吉『杳子』あらすじ解説|又吉直樹推薦の芥川賞作品

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yoko 散文のわだち

古井由吉の小説『杳子』は、第64回芥川賞受賞作です。

「内向の世代」という言葉に象徴される通り、精神の深部に分け入る描写が特徴的です。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者古井由吉(82歳没)
発表時期  1970年(昭和45年)  
ジャンル中編小説
ページ数170ページ
テーマ内向的なアイデンティティ
分裂する人間の二面性
受賞第64回芥川賞

あらすじ

あらすじ

山登りの途中でSは、精神を病む女子大生の杳子と出会います。歪なオーラを放つ彼女に畏怖しながらも、Sは下山できずにうずくまる彼女を麓まで誘導します。その道中の杳子の危険な行動を目撃し、漠然とSは彼女に死相のようなものを感じるのでした。

その後、Sは駅で杳子とばったり再会し、習慣的に顔を合わせるようになります。ところが精神を病む杳子は、同じ行為を同じ順序で同じ時間帯にやらなくては、不安定になり、不機嫌になります。待ち合わせ場所を変えれば落ち合うのが困難になり、人前で食事をすることも難しく、そういった点を詰られれば彼女は意固地になってしまいます。

やがて二人は外部から遮断された内の世界に篭るようになります。肉体関係も持ちますが、杳子には病気と健康、幼さと大人ぽっさ、そういった二面性があり、Sは常に彼女との距離感を痛感させられ、彼女の身体が遠く、つかみがたい存在に思えるのでした。

Sは、杳子を愛おしむ一方で、持て余すような苛立たしさも感じています。彼女の病的な世界にのめり込んでいくのですが、どこまでも追いつけないもどかしさがあるのです。徐々に杳子の病気に影響されSも蝕まれていくのですが、それでも彼女から離れることはできないのでした。

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個人的考察

個人的考察-(2)

「内向の世代」の作家

古井由吉を筆頭に、1965年か1974年ごろに台頭した作家を「内向の世代」と称することがあります。

由来は、文芸評論家の小田切秀雄が「60年代における学生運動の退潮や倦怠、嫌悪感から政治的イデオロギーから距離をおきはじめた作家」と否定的な意味で批評したことです。

戦後の系譜として、石原慎太郎や大江健三郎など、文学的主張の強い新人作家が登場したのに対し、「内向の世代」はその名の通り、政治や社会とは距離をとった内向的なテーマを描いたため、しばしば批判の対象になったのです。

小田切氏の主張通り、学生運動の退潮は、明らかに日本人に無力感を与え、殻に篭った個の世界への耽溺を押し進めました。文学のみならず、例えば音楽においても、政治的メッセージを主張したフォークミュージックは、「四畳半フォーク」と呼ばれる個の生活に切り取られたジャンルへと推移しました。

そういった意味で、閉鎖的になった若者意識を映し出したのが「内向の世代」の文学なのです。逆に言えば、あえて社会と個の関連性を排除した作風で描くことが、当時の人々の社会に対する姿勢をあぶり出す、最も「社会的な手法」だったのかもしれません。

ちなみに、1970年代後期に差し掛かると、近代化に搾取される若者が大きなテーマとなり、村上龍をはじめとする新たな文学動向が起こります。それに伴い「内向の世代」は終焉を迎えるのでした。

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社会と断絶された恋愛

「内向の世代」が表すように、本作『杳子』における、Sと杳子の恋愛は、非常に閉ざされた空間によって描かれています。

Sと杳子が出会った場所は山岳でした。山が崩れて滲み出てくるような描写が印象的で、冒頭からかなりの文量で綴られます。その出だしはかなり歪で、突飛な印象を受けますが、あえて山岳という人間社会から孤立した場所で二人を出合わせることが、後に続く「内向」的な世界観の足掛かりとなっているのでしょう。

主人公が山岳にいることや、何日も独りで山に篭っていること、あるいは女子大生の杳子が独りで岩場にうずくまっているのは、明らかに彼らが人間社会から離脱していることを意味します。物語上では排除されていますが、時代背景から考えると外の世界には「学生運動の退潮や倦怠」があって、そこから逃げてきた若者二人、という設定が、裏テーマとして存在することが読み取れます。

親しく付き合うようになってからも、二人が会う場所は、喫茶店や公園やホテルや杳子の部屋で、殆ど外部の様子が描かれません。あるいは杳子がなぜ精神的に病んでいるかの原因も明かされません。二人の葛藤について、社会的要因が一切排除されているのが、前述した「内向の世代」の特徴と言えるでしょう。

また物語の構造的に、何日も部屋にこもっていたSが、精神を病む杳子と出会い、最終的に閉鎖された彼女の部屋に行く、という段取りになっています。二人の出会いが社会への回帰に繋がることはないのです。

杳子には、かつて病んでいたが今は結婚して社会復帰した姉がいます。そして杳子は姉のことを酷く嫌悪しています。彼女自身が個の世界から離脱することを拒否しているため、物語が社会回帰という克服を遂げることはなく、最後まで内向の世界に留まっているのです。

杳子の病気の正体とは

杳子の病気はアイデンティティ障害に近いものだと思われます。あるいは固有名の喪失とも言えるでしょう。

以前訪れた喫茶店なのに、そんなふうに思えなくて中に入れない。待ち合わせ場所は、「何駅と何駅と何駅を過ぎて、何駅で降りて、右手に何メートル進んで・・・」といった具合に記憶しないと辿り着けない。仮に駅構内がリニュアールされれば混乱してしまう。

これが杳子の病です。

健康な人間は、外部の事物を二重化して認識しており、それまで培った印象と、今その瞬間の印象の二つを持っています。例えば、今日一日恋人が怒りっぽくても、それまでの優しい側面を知っているから、何かあったのかな、と推測することができます。あるいは駅の構造が変わっても、過去のイメージと擦り合わせながら目的地を探し当てることができます。

ところが杳子の場合は、その時の印象しか見れないため、以前の印象と擦り合わせることができず、今この瞬間の外部の印象をもろに受けてしまうのです。

冒頭の山岳で、外部の風景が自分にのしかかってくるような錯覚に陥ったのは、まさにその瞬間のイメージに支配されてしまう杳子の病を表現しているのでしょう。

あるいは、Sの目に、仕切りに杳子の印象が入れ替わるように見えるのも、杳子がその瞬間の印象に強く影響を受けるためであり、官能的な大人っぽさの数秒後には、急に薄膜を覆った危険な状態に変化したりするわけです。

この障害は非常に厄介で、その瞬間の影響をもろに受けるため、それまでいくら愛情を受けていても、一日気持ちが繋がらないだけで最悪の場合自殺してしまう可能性もあります。

あるいは自己暗示が悪い方向に働く様子も見て取れます。杳子の姉は、杳子と同じ年齢の頃に全く同じ病気を患っていました。これは偶然ではなく、山岳で風景が自己内部に侵入してくる錯覚に陥ったように、自分も姉のようになるかもしれないという自己暗示に影響された結果、まんまとその通りになってしまったのだと思われます。

そしてSもまた、杳子の病に付き合ううちに、徐々に境界線が崩壊し彼女が自己内部に侵入してくるのでした・・・。

この小説のミソは、決してSも健康ではない点にあると思います。それ故、不安定な杳子に引かれ、共倒れのような状況になっていったのでしょう。

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二面性の併存

でも、どんなに外の世界に応じて生きていたって、残る部分はあるでしょう。すこしも変わらない自分自身に押し戻される時間が、毎日どうしたって残るでしょう。

『杳子/古井由吉』

杳子の中に存在する二面性。幼さと大人っぽさ、病気と健康。これらは、いわば内向きの自分と外向きの自分ということでしょう。

そして、分裂した二つの自己の辻褄を合わせるのが「習慣」です。

例えば、杳子の姉は、テーブルに食器を並べる時には必ず矩形にします。部屋を出る時には、必ず花瓶の花のさし加減を調整します。過剰な神経質を患っているようですが、彼女は無意識にそういうことをやっているのです。杳子は、こういった習慣を死ぬまで繰り返すことが嫌で部屋に篭ってしまったのでした。

健康になるということは、自分の癖にすっかりなりきってしまって、もう同じことの繰返しを気味悪がったりしなくなるということなのね。

『杳子/古井由吉』

杳子が人前で食事をできないのも、待ち合わせ場所に辿り着けないのも、習慣や癖によって分裂した自己を統合できないからでしょう。

習慣化は、分裂した自己が外向きの自己に吸収されていくことを意味するのだと思います。大抵の人間は成熟によってそれを無意識に許容するものです。しかしそれを許容したくない杳子には幼さが残り続け、そんな彼女を社会は病気と判定してしまうのです。

最後に杳子はこんな台詞を口にします。

「明日、病院に行きます。入院しなくても済みそう。そのつもりになれば、健康になるなんて簡単なことよ。でも、薬を呑まされるのは、口惜しいわ・・・」

『杳子/古井由吉』

彼女にとって病院に行くとは、内に存在する最も自分らしいアイデンティティを治療によって殺してしまうことを意味するのでしょう。だから、彼女は社会に屈服することに口惜しさを覚えたのではないでしょうか。

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