西村賢太の小説『苦役列車』と言えば、第144回芥川賞に受賞し話題となった作品です。
受賞の言葉が「風俗に行こうと思ってた」ということでも注目を集めました。
本作は作者自身の境遇を綴った私小説なるジャンルです。それだけ西村賢太という男の人生は、非日常性に満ち溢れているようです。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 西村賢太(54歳没) |
発表時期 | 2010年(平成22年) |
ジャンル | 中編小説 私小説 |
ページ数 | 122ページ |
テーマ | 犯罪者の身内の境遇 社会格差 私小説との遭遇 |
受賞 | 芥川賞 |
関連 | 2012年に映画化 (主演:森山未來) |
あらすじ
19歳の貫多は、日雇い労働で生計を立てるジリ貧の青年です。父が性犯罪を犯したことで幼少の頃に家庭崩壊し、数度の転校を繰り返す中で閉塞的な人格を形成していきます。
中学校を卒業した貫多は家を飛び出し、港湾での荷役労働でなんとか今まで食い繋いできました。日当の5500円は即座に酒代とソープランド代に消えていきます。友達はおろか、恋人などとは無縁で、滞納した家賃に追われながら、カップ酒が唯一の楽しみという老人染みた19歳を送っています。
ある日、港湾の仕事現場に専門学校生の日下部が現れます。人懐っこい性格、そして何より同級生ということもあり、貫多は珍しく他人に好意を抱きます。労働後に一緒に酒を飲んだり、風俗に行ったりもします。ところが中卒と専門学校生の無言の隔たりは厚く、恋人のいる日下部とはどこか相容れない所があるのでした。日下部の彼女を通して、強引に迫り女友達を紹介してもらうことになりますが、貫多は酒に酔った勢いで暴言を吐いて雰囲気を壊し、日下部との関係も悪化してしまいます。さらに荷役労働先で上司のような存在と、ささいなことから喧嘩騒動を起こし、日雇い労働さえ出入り禁止になりました。
日下部は専門学校卒業後に彼女と結婚し、郵便局員になりました。一方、貫多は別の荷役会社に移り、ほぼ変化のない生活を送る中で、藤澤清造の私小説と出会うのでした。
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個人的考察
私小説作家としての西村賢太
西村賢太が小説家であることは紛れもない事実ですが、彼が私小説作家であることはさらに重要な事実でしょう。
日本特有とされる私小説なるジャンルは、つまり、作家自身の実体験をそのまま作品に昇華することを意味します。明治の終わり頃に、西洋の自然主義文学を誤って解釈した田山花袋が、自らの性の葛藤を赤裸々に描いたことが発端だと言われています。弟子の女学生に恋した中年男が、失恋の果てに女の使っていた蒲団の匂い嗅ぐという強烈な作品です。
暴露的な性質が私小説の特徴で、当時は反対派の意見も多かったようです。ところが、大正後期には活発に話題に挙がるようになり、流行に後押しされて、文壇でも肯定されていくようになります。かの芥川龍之介も後期の作品は私小説へと傾倒しています。
ともすれば、『苦役列車』の物語は作者である西村賢太の実体験ということになります。
作品の設定通り、西村賢太の父親は強盗強姦事件を起こして逮捕されています。そのため両親は離婚し、3歳上の姉と共に母子家庭で育ちました。
それまでは父の罪状は強盗事件だと聞かされていましたが、中学校3年の時に性犯罪だったことを知り、その衝撃から不登校となります。国語を除くと成績は「1」ばかりで、ローマ字は書けず、全寮制の高校しか行くところがないと教師に宣告されましたが、寮に入るのを嫌って進学せず、家を出て東京鶯谷の家賃8000円のアパートに下宿するようになります。そうして、日雇い労働でギリギリの生活を送っていたのも、もちろん作品の通りです。
私小説が読者の心を掴むには、非現実性が鍵になると思います。西村賢太の人生がある種の普遍から解離している故に、読者は彼の私小説に強い興味をそそられるのでしょう。
私小説であるからこその魅力
西村賢太の人生があまりに悲惨であることだけが私小説の魅力とは限りません。
性犯罪者の父親の存在が陰りとなり、陰鬱な性格を形成した主人公に、怖いもの見たさのような愉悦を感じるのは事実でしょう。人間には平穏を求める以上に、他人事を前提とした悲劇を求める本質がありますから、『苦役列車』においても同様の興味心が湧き上がるわけです。
ただし、単なる不条理だけであればそれほど深部まで作品を楽しむことはできないように思います。つまり、作者である西村賢太がその後の人生において、野間文芸新人賞、芥川賞を受賞すると知っているからこそ、作品に対して自然と後に続くものを見出してしまうのでしょう。
物語は、主人公の貫多が私小説作家の藤澤清造の作品と出会ったという描写で幕を閉じます。仮に何も知らない読者からすれば、果たして最後の文章が何を意図して綴られたものかが判らずに困惑することでしょう。ただし作者の人生を知っているからこそ、藤澤清造の作品との出会いがいかなる意味を成しているか、つまり作家として跳躍するその後の人生が自動的に想起され、作品の味わいがグッと増す訳です。
ちなみに文庫本には、40歳になった貫多が川端康成賞の選考結果を待つ『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』という作品が収録されています。受賞を伝える電話はかかってこない結末なのですが、それも一興、その後の物語に味付けをもたらしているように感じます。
物語のその後を語りまくるのがハリウッドのヒット作の手法で、物語のその後を清く想像に任せるのが小説の醍醐味とすれば、その中間に位置する、語らずとも作者の生き方がその後を物語る手法こそ、私小説にだけ与えられた魅力なのかもしれません。
悲観的過ぎない大衆性
「父親が性犯罪者」というビックワードに引っ張られ、てっきり深刻で救いようのない物語と思いきや、荒くれ者の貫多の性格に愛着のようなものを感じた人も多いかもしれません。
『苦役列車』の魅力は、非現実性の魅力に加えて、非現実的な境遇とは無縁な人間でも共感できる大衆性が潜んでいることだと思います。
- 友人や恋人と無縁
- 人間関係の不得手
- 人生に対する怠慢
- ハイソな人間との格差
- 恋や性に全うな者への僻み
決して作品を批判しているわけではなく、主人公の貫多が抱えていた問題を表層的にピックアップすれば上記のような通俗的な言葉になります。あまりに非現実的な境遇を強いられた人間でなくとも、これらの主題に対して苦悩を抱えることは充分あり得ます。
「人間の卑しさ浅ましさをとことん自虐的に、私小説風に描き、読者を辟易させることに成功している。これほどまでに呪詛的な愚行のエネルギーを溜めた人間であれば、自傷か他傷か、神か悪魔の発見か、何か起きそうなものだと期待したけれど、卑しさと浅ましさがひたすら連続するだけで、物足りなかった。」
高樹のぶ子
「相応の高い技術で書かれていて、洗練されているが、「伝えたいこと」が曖昧であり、非常に悪く言えば、「陳腐」である」
村上龍
芥川賞の受賞に際して、一部の審査員はかなり辛辣なコメントを残しました。物足りなさや陳腐さを指摘されては、純文学としてのプライドに傷が付きそうなものです。ただし、ある意味では包み隠しのない私小説であるからこそ、下手な脚色が無かった、というふうに捉えることができます。
虚構を伴わない誠実さが功を奏したからこそ、ある面では大衆の共感に成功し、ベストセラーと映画化に繋がったのだと思います。
こんなことを言えば怒られそうですが、私はあくまでこの『苦役列車』を、痛々しさも程々な、大衆的に面白い純文学の実現、と称したいです。それは最大限の賞賛に違いないのです。
西村賢太の人気作品
野間文芸新人賞受賞作です。冴えない30代男性の一人語りからなる私小説です。風俗嬢を口説き落とそうとする『けがれなき酒のへど』と、彼女との同棲生活で狂人的に依存する『暗渠の宿』の二篇が収録されています。
『苦役列車』で芥川賞を受賞した翌年1年間の日常を綴った日記です。食や酒や、小説家の嘲りや、編集者への皮肉。芥川賞によって一気に忙しくなった売れっ子作家の生活ぶりが分かる1冊です。
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