坂口安吾の『白痴』あらすじ考察 魂と肉体の葛藤

白痴 散文のわだち
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戦後の日本文学と言えば、坂口安吾の『白痴』が有名です。

戦後間も無くの1946年に発表された短編小説であるため、先の戦争の情景が非常に生々しく描かれています。

東京に蔓延る焼夷の中で、白痴の女と生活する主人公は、終わりの見えない戦争に何を感じていたのか、考察していきます。

『白痴』の作品概要

作者坂口安吾
発表時期1946年(昭和21年)
ジャンル短編小説、新戯作派、無瀬派
テーマ実存主義、肉体と魂、
芸術の葛藤

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『白痴』あらすじ

あらすじ

舞台は第二次世界大戦中の東京です。

主人公の伊沢は、低俗な裏町に住む映画演出家です。芸術家としての誇りを持つ伊沢は、給料のために会社の企画に従うか、生活を窮してでも信念を貫くかの葛藤の末に、仕事に対する情熱を失ってしまいました。

そんな伊沢の部屋に、ある晩、近所に住む白痴の女が侵入します。情熱を失った伊沢は、一時的な好奇心から彼女をかくまうことにします。伊沢が白痴女に愛撫をすれば、女の体が生理反応を起こします。あるいは、空襲の爆撃に怯え涙を流すことさえあります。白痴なので魂は昏睡しているはずなのに、肉体が反応を示すため、伊沢は「魂と肉体の乖離」に驚きを覚えます。

東京に空襲が頻発し、とうとう伊沢が住む町にも襲来します。住人たちが避難する中、近隣に白痴女の存在がバレないように、伊沢は集団とは逆方向に逃げようとします。その方角には家々が燃え狂っていますが、そこを越えれば小川があります。ところが白痴女は本能的に群衆の方向へ引き返そうとします。伊沢は白痴女を抱きしめ、死ぬときは一緒だから決して自分から離れるなと忠告します。すると白痴女は頷きます。伊沢は、白痴女が初めて自らの意思を示したことに大きな感動を覚えます。

二人は火の海を走り、ようやく小川の縁までたどり着きます。彼らは生き延びたのです。戦争によって裁かれる日を待ち望んでいた伊沢は、爆弾の雨の中で生きることを選びました。その根底には、妙な安堵と馬鹿馬鹿しさがありました。自分と白痴女に太陽の光が注ぐのだろうか、伊沢はそんなことを考えるのでした。




『白痴』の個人的考察

個人的考察

坂口安吾は、『堕落論』と『白痴』によって作家としての地位を築き、太宰治らとともに戦後の日本文学の系譜を築き上げた1人です。

偉大なる落伍者」と称するくらい、彼は日本文学における奇才として名高い存在です。幼少の頃から破天荒な性格で、学生時代も思想書と酒に耽け、各地を放浪する生活を送っていました。作家としては、戦前の長いスランプを経て、戦後に特異な存在として人気を博すことになります。

本作は1945年3月から4月の東京大空襲が舞台になります。低俗な精神を非難し、芸術家としての夢想を追求する不安定な主人公が、白痴の女性と出会うことで、精神のあるべき姿を理解しようとする物語です。

伊沢は何に葛藤していたのか

映画演出家である伊沢は、芸術に対する探究心を強く持っていました。芸術の独創性や、個性の独自性を諦めることができない、芸術肌の若者だったわけです。

しかし、会社に勤めれば、周囲の人間は同じ演出家でありながら、会社員的な制度に安息する人間ばかりだったようです。

たちが悪いのは、彼らは容姿や言葉は芸術家のように振る舞いながらも、芸術性の欠片もない凡庸な魂の持ち主であることです。伊沢は彼らの低俗卑劣な魂を憎んでいました。伊沢は自らの芸術に対する理想と、現実の職場とのギャップに落胆していたのです。

とは言っても、伊沢も一人の生活者です。給料がなければ暮らしてはいけません。周囲の人間に煙たがられ、社長に楯突く伊沢も、月給が失われることを想像すると不安になります。そして、解雇を告げられずに月給を渡された瞬間には呆れるくらいの幸福感を味わいます。そんな卑小な自分に苦しんでいたのです。

つまり、芸術性の追求よりも、会社員的な月給制度に安息している周囲の人間を忌み嫌っているにもかかわらず、自分自身も月給という生活の要に左右されているという葛藤に悩まされていたのです。

そんな葛藤の最中、白痴女という存在が伊沢に新たな思想を与えるのでした。




伊沢は白痴女の中に何を見出したのか?

伊沢はなぜ白痴女に興味を持ったのでしょうか?

彼女に興味を持ったのは、「生活に情熱を失ったための、一時的な好奇心である」と綴られていました。

しかし、伊沢は白痴であることの特徴に確実に関心を抱いています。それは、白痴であるが故に、意思や意欲を統括する魂が存在せず、肉体だけが人形のように存在するという特徴です。

魂が存在しないのに、性欲を体で表現したり、空襲の恐怖を表情に出したりする白痴女の様子に、実存主義的な思想を捉えていたのだと思います。

いわゆる、人間には魂など存在せず、肉体のみが存在するという考え方です。

伊沢は芸術に対する葛藤に苦しんでいました。そして、芸術とは根本的に実存主義の対極に存在する分野だと考えられます。

なぜなら、肉体ではなく、精神や魂や思考によって追求し、表現されるのが芸術だからです。

芸術の追求に苦しんだ伊沢は、白痴女に実存主義的な観点を見出し、魅了されます。自分にも魂が存在しなければ、芸術に対して苦しむこともなくなると悟ったのでしょう。

精神的に紛糾していた伊沢が、白痴女に惹かれるのは必然的だったのだと思います。

では、空襲から逃げる際に、伊沢が白痴女に抱いた感動は何だったのでしょうか?

それはつまり、伊沢の芸術性に対する回帰だと思われます。

魂など存在せず、肉体だけが絶対的という実存主義に傾倒し、伊沢は自らの精神の疲労から逃れようとしていました。つまり、白痴女と過ごすことで、芸術に対する葛藤から逃避していたのです。

空襲で白痴女が焼け死んでも、魂は存在しないから肉体が焼け死ぬだけだ、という伊沢の考えはまさに実存主義的です。その一方で、白痴女は愛撫に反応したり、爆撃の音に怯えた表情を作ったり、魂の存在を思わせる側面も表します。そして最終的には、空襲から逃れる途中に、白痴女は初めて自らの意思をはっきりと表現します。それをきっかけに主人公の心情は大きく変化します。

つまり、白痴女と感情を共有したことによって、伊沢は実存主義から脱却し、魂の存在を再び肯定したのでしょう。

魂など存在しないはずであった白痴女が、自分の意思を表現したことに、伊沢は誇りを感じていました。彼が心の底では、芸術や人間の本質的な幸福(感情の共有など)を、完全には諦めていなかったことを意味しているのではないでしょうか。

生き残った伊沢は最後に何を思っていたのか?

魂による芸術の追求に苦心していた伊沢は、戦争という偉大なる破壊によって不安にさせられることに一種の興奮を覚えています。

つまり、彼には破滅願望があったのだと思われます。

いわゆる、月給という会社員的な幸福に縋ってしまう自分を、自らの手では裁くことができない伊沢は、戦争の破壊によって裁かれることを待ち望んでいたわけです。

しかし、空襲から逃れて生き残った伊沢は、再び元の暗闇に引き戻されると同時に、安堵を感じていました。

つまり、生きることを選んだ伊沢は、月給に幸福を感じる生活に引き戻されると同時に、そんな卑小な自分を心のどこかで受け入れたのではないでしょうか。

住む家を失い、希望すら不明確で、最後まで伊沢は生きることに対する疑問を抱えています。しかしその反面で伊沢は、「自分と白痴女に太陽の光が注ぐだろうか」と考えています。心のどこかでは自分の人生が日の目を見ることを期待しているように感じられます。

魂の存在を否定したくても、最後まで諦めきれなかった伊沢です。破壊による裁きはこの先の戦況次第であり、伊沢にもどうなるか分かりません。不透明な未来に投げやりな気持ちではありますが、それでも伊沢は歩き出そうと決意します。なぜなら、戦争は肉体を裁けても、魂だけは裁けないからです。

肉体が存在する限り、彼は魂の歩みを止めないことを誓ったのでしょう。

敗戦間近の日本人の不安と、それでも生きようとする幽かな希望が描かれていました。

肉体と魂、芸術と生活、理想と現実、あるいは常人と白痴の対比、それら全てが生と死の葛藤の役割を果たしていたように感じられます。

本作『白痴』に込められた主題をより理解するためには、エッセイ『堕落論』を読むことをお勧めします。

『堕落論』の考察は下記からご覧ください。

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