【森鴎外のエピソード】エリートの悲劇について|代表作も紹介

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森鴎外 文豪のわだち

夏目漱石と並ぶ明治時代の文豪・森鴎外。

軍医のトップに上り詰め、文学でも成功した、お手本のようなエリート。

現代文の授業『舞姫』を習って以来、恋人を平気で棄てる最低な男というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。

しかし鴎外には周囲に期待され過ぎたエリート故の苦悩があった?

本記事では、謎多き鴎外の死から彼の人生を紹介していきます。

ブログ筆者
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森鴎外は本当に嫌な奴だったのか、徹底的に解説します!

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森鴎外のプロフィール

※パブリックドメイン
ペンネーム森鴎外(60歳没)
本名森林太郎
生没1862年ー1922年
  
(文久2年ー大正11年)  
出身地島根県
文学主題近代知識人の苦悩
政治に対する風刺
反自然主義文学
代表作『舞姫』
『青年』
『雁』
『ヰタ・セクスアリス』
『山椒大夫』
『高瀬舟』

■参考文献

森家の希望を託されスパルタ教育

冷血なエリート・・・・

そんな印象が強い森鴎外だが、彼の本来の人柄を知るには出生まで遡る必要がある。

森鴎外(林太郎)は、江戸時代の終わり頃に、島根県の下級武士の家庭に生まれた。

下級武士という微妙な身分のためか、森家は一族を繁栄させることに必死になっていた。だが長らく男児に恵まれず、婿養子を迎える形でしのいでいた。そんな中、久しぶりに直径の男児が生まれた。それが森鴎外だったのだ。

こうした経緯から、森家の人間は鴎外に異常な期待を寄せた。とりわけ森家の直径である母親は、鴎外に一族の希望を託し、幼い頃からスパルタ教育を施した。(父親は婿養子のため、それほど鴎外を厳しく教育しなかったらしい)

母親のスパルタ教育は、仮名の勉強のような生温いものではなかった。6歳の頃には儒教にまつわる漢学を叩き込み、8歳で藩校に入学させ、さらにはオランダ語も学ばせた。度が過ぎた親の教育に、普通の子供なら消耗するだろうが、幸い鴎外はこれらの教育をこなすだけの優れた頭脳を持っていた。9歳の頃には15歳相当の学力があったと言われている。

鴎外の並外れた優秀さは勢いを緩めない。規定の年齢より2歳若くして、現在の東京大学医学部に飛び級で入学し、主席で卒業する。卒業後は国家権力の中枢とも言える、陸軍省に入省し軍医になった。

はたから見れば、負け知らずの成功者である。だが既に鴎外の中には歪みが生じていた。

本音を言えば、鴎外は文学者になりたかった。しかし神童と呼ばれた人間が芸術を志すのは、ある意味ドロップアウトである。それは森家の期待を裏切る行為に違いない。だから鴎外は本心を押し殺して軍医になるしかなかったのだ。

こうした背景から、鴎外は軍医の職を務める傍らで、文学活動に取り組んでいた。

代表作『青年』に面白い内容が記されている。森鴎外と夏目漱石を比較して、鴎外は役人の仕事を続けているが、漱石は教師の仕事を辞めて文学に専念したからよっぽど芸術家らしい、と自ら卑下するような内容が記されているのだ。鴎外は本当は文学1本に振り切りたい願望があったのだろう。

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代表作『舞姫』に隠された苦悩

親の期待通り陸軍省に入省した鴎外は、半年後にドイツ留学を命じられる。軍医を務める身として、西洋の前進的な衛生学を勉強する任務を課せられたのだ。

このドイツ留学の経験は代表作『舞姫』の題材になっている。エリスというドイツ人女性と恋仲になるが、最終的には立身出世を優先し、エリスを捨てて日本に帰国する男の物語である。これは鴎外の実体験が大方反映されている。ともすれば鴎外は、出世のために簡単に恋人を捨ててしまう冷血な男なのだろうか。否、そこには知られざる苦悩が隠されている。

『舞姫』の主人公・豊太郎は、作中で次のような内容を告白している。

余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨げますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、ただ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが・・・

『舞姫/森鴎外』

これは、両親や周囲の期待に応えて、機械的・受動的に生きる自分を内省した内容であり、実際に鴎外が抱えていた苦悩だと考えられる。

周囲の人間は自分のことを真面目な努力家だと評する。だが本人からすれば、これまでずっと周囲の期待通りに生きてきたため、逆に道を踏み外すことに臆病になっているだけなのだ。仮にもエリート街道をドロップアウトすれば、両親の期待を裏切ることになる。

こうした葛藤を抱えていた豊太郎(鴎外)は、大臣の帰国命令に逆らえず、結果的にエリスを捨てる羽目になったのだ。情けない男と言ってしまえばそれまでだが、エリートならではの苦悩があったのだろう。

ちなみにエリスのモデルになったエリーゼという女性は、鴎外の帰国に合わせて来日した。(鴎外の手回しによって来日した説もある。)これが俗に言う「エリス来日事件」である。

鴎外の母親はエリーゼの来日を深刻に受け止めた。息子の不始末で森家の希望が失われることを恐れたからだ。そのため森家の人間はエリーゼをドイツに帰国させた。そして鴎外は親が取り決めた相手と結婚することになった。

幼少の頃から両親の期待を背負って、スパルタ教育をこなしてきた鴎外は、大人になっても両親の意向に逆えず、恋心さえ押し殺さねばならなかったみたいだ。

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人を馬鹿にして生きてきた

このように鴎外はエリートでありながら神経質で臆病な性格だったと言われている。だがその反面、若い頃は喧嘩っ早い性格だったらしい。

鴎外の息子が書いたエッセイには次のような言及が記されている。

たとえそれが先輩であろうと世に知名の学者であろうと、ひるまずに応酬するという風であり・・・

『鴎外の母』

この言及通り、若かりし頃の鴎外は、ドイツの有名な学者に喧嘩をふっかけたり、文学論争を巻き起こしたり、恩人の哲学者を作品の中でこき下ろしたり、かなり好戦的だったようだ。

こうした強気な性格のため、敵を作ることも多く、それが原因かは分からないが、一時期鴎外は北九州の小倉という田舎に左遷されていた。小倉時代の様子は著書『小倉日記』に記されているが、どうも鴎外はこの左遷に腹を立てていたみたいだ。負け知らずのエリートにとって初めての挫折だったのだろう。

一方で小倉での生活は鴎外に変化を与える。格式の低い人々と交流する機会が増え、彼らに対する新和が徐々に芽生え、喧嘩っ早い鴎外の性格は、角がとれて丸くなったと言われている。この出来事は、冷血な鴎外が庶民との交流を通して人情味を回復した、という美談で語られがちだ。だが果たしてそれは本心であろうか?

鴎外が50歳を前に執筆した自伝小説『灰燼かいじん』に次のような内容が書かれている。

世間の人が皆馬鹿に見えだしてから、節蔵の言語や動作は、前より一層うやうやしく、優しくなった。

『灰燼/森鴎外』

見下しているから逆に優しく振る舞える。それが鴎外の本音ではないだろうか。弱者への愛想、犬への愛情である。

あるいは実の娘が残した文献には、「父の愛や芸術には、どこか心がない」と記されている。鴎外は家族にさえ本心を見せず、ずっと仮面を被って生きていたのかもしれない。

周囲の期待通りエリートの道を突き進み、職務でも芸術でも賞賛された鴎外は、いつしか本心を曝け出せなくなったのだろう。そうした仮面を被って生きているから、目下の人間に対する愛想のような感覚でしか他者と関わることができなかったのではないだろうか。

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豊熟の時代

陸軍省に入省し、ドイツ留学を経験し、その経験を小説にして発表した鴎外だったが、それから長らく文壇では沈黙を貫いていた。鴎外が改めて文学活動を本格的に再開したのは、軍医のトップに昇進した45歳ごろのことである。

長い沈黙の末に文学活動を再開した鴎外は、立て続けに小説を発表し続ける。この時期を、最も油が乗っていたという意味で「豊熟の時代」と呼んでいる。

活動の動機となったのは自然主義文学に対するアンチテーゼだった。

当時文壇では自然主義文学がある種の型になっていた。そうした風潮に反感を持った鴎外は、小説は自由なものである、という信念の元、あえて自然主義文学を否定する作品を発表した。代表的な作品が『ヰタ・セクスアリス』だ。

鴎外が自身の性欲の歴史を暴露した内容になっている。それは日本の自然主義文学が、性欲の葛藤を暴露的に描いていたことに対する風刺の意味が篭っていたと言われている。結果的に『ヰタ・セクスアリス』は、その過激な内容から発禁処分を受けた。

続いて初の長編小説『青年』を発表し、その流れで『』も発表する。この二作品は鴎外の長編作品の中で傑作と言われている。また同時期には、当時の社会情勢に触発され、政治的な小説も多数発表している。

このように凄まじい創作意欲で時代を駆け抜けた鴎外だったが、来たる大正時代に、ある歴史的な事件が発生する。乃木希典の殉死だ。なぜ彼の殉死が衝撃的な事件だったのかは割愛するが、その影響力は凄まじく、夏目漱石の『こころ』にも描かれている。

乃木希典の殉死については批判が強かった。明治天皇の崩御に伴い割腹自殺を決行するなど時代遅れだ、という意見が多かったのだ。そんな中、乃木希典と親交があった鴎外は、友の名誉を守るために『興津弥五右衛門の遺書』という江戸時代の殉死を扱った歴史小説を発表する。これを機に歴史小説の分野に進み、『山椒大夫』『高瀬舟』などの傑作を生み出す。

そうこうしているうちに、鴎外は軍医のトップを引退する年齢になった。遂に兼ねてからの願いであった文学活動に集中できる時期が訪れたのだ。しかしここで悲劇が起こる。

結核に感染したのだ。

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後悔したまま死んでいった

肺結核を患い60歳で死んだ鴎外は、遺書に次のような文言を記していた。

森林太郎として死せんとす。墓は森林太郎墓の外、一字も彫るべからず。

森鴎外の遺書

本名の林太郎として死ぬことを望み、地位や名誉や経歴を墓に刻むことを許さなかったのだ。

全てを手に入れた男が、最後には全てを手放し、高い境地において死んでいった。そんな美談で語られることが多い鴎外の死であるが、本当にそうだったのだろうか?

危篤に陥る直前に、鴎外は寝床の中で突然大声を出したと言われている。

馬鹿らしい!馬鹿らしい!

そう叫んだのだ。一体何が馬鹿らしいのか。

自分の人生が・・・?

幼い頃から森家の期待を一身に背負い、文学者に対する憧れや恋心を無理やり押し殺して軍医の道を突き進んだ。そうして手に入れた最高位の身分において彼が気付いたのは、周囲の人間を馬鹿にしているからこそ優しくなれる、という自分の下卑た人間性であった。実の娘が告白する通り、鴎外はずっと仮面を被って生きてきたのだろう。そうした葛藤を抱えながらも、森家の期待に応えて軍医の職を最後まで勤め上げた。そして晴れて自由の身になり、ようやく文学1本に集中できると思った矢先、肺結核が彼の人生に襲いかかった。

一体自分の人生は何だったのだろうか。彼が最期にそう感じたのも無理がないように思う。

自分の本心を押し殺して手に入れた地位や名誉や経歴に何の意味があるだろうか。だからこそ最期くらいは全ての名声を捨てて、ただ純粋に森林太郎として死にたかったのかもしれない。

これが期待され過ぎたエリートの末路である。

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