遠藤周作の小説『侍』は、野間文芸賞を受賞した長編小説です。
代表作『沈黙』と同様に、江戸時代のキリシタン弾圧の史実に基づいて描かれています。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 遠藤周作(73歳没) |
発表時期 | 1980年(昭和55年) |
ジャンル | 長編小説 |
ページ数 | 422ページ |
テーマ | キリシタン弾圧 宗教と権力 弱者のためのイエス |
受賞 | 第33回野間文芸賞 |
あらすじ
東北の小さな土地の領主である侍は、メキシコとの貿易を求める藩主の命で、船で異国に旅立つ。命を果たした暁には、一族がかつて所有していた豊かな土地を返還すると約束されていた。
その頃の日本では、キリシタン弾圧は江戸のみに留まっていた。江戸を追放されたベラスコ神父は、メキシコとの貿易交渉の通訳者として、同じく船に乗り込む。彼もまた、命を果たした暁には、日本での布教活動の援助を約束されていたのだ。彼には日本にキリスト教を普及させたい野望があり、侍を含む使節団に、洗礼を受ければ交渉が有利になると吹聴する。実際に利のために洗礼を受ける日本人も何人かいた。
ベラスコ神父と侍たちは、メキシコ、スペイン、ローマへと長旅を続ける。一時は交渉が実を結ぶように見えた。ところが彼らが長旅を続ける間に、日本ではキリシタン弾圧が全国に波及し、宣教師たちは国外に追放され、メキシコとの貿易も禁止する時勢に変わっていた。望みは完全に絶たれた。
侍は徒労の旅から日本に帰国する。そして、交渉のためとは言え洗礼を受けた彼には、悲劇が待ち受けていた・・・
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個人的考察
史実を題材にした歴史純文学
本作『侍』は、代表作『沈黙』と同様に、ある程度、キリシタン弾圧の史実に基づいて書かれた、歴史小説である。
主人公の「侍」は、支倉常長という実在した仙台の武将がモデルになっている。主君の伊達政宗の命を受け、実際に使節団として江戸時代に欧州に渡った稀有な日本人なのだ。
旅の様子を記した支倉の日記は、藩当局によって抹殺されたため現存しておらず、彼らが欧州に渡った本当の理由は解明されていない。表向きは貿易交渉とされているが、伊達政宗が外国と手を組んで倒幕を企んでいたのではないか、という仮説もある。
いずれにしても支倉の派遣は徒労に終わった。長旅の間に日本では禁教令が公布され、キリシタン弾圧が激化し、いわゆる鎖国が始まっていたのだ。そして旅の中でキリスト教の洗礼を受けた支倉は、帰国して2年後に死去している。その原因は記録が残っていないため様々な仮説がある。喜んで棄教したとも言われているし、信仰を捨てなかったために処刑されたとも言われているし、表向きは棄教したが密かに礼拝していたとも言われている。
しかし面白いのが、支倉の孫の記録によると、支倉の次男はキリスト教を信仰したために切腹を強いられているのだ。ともすれば支倉は、禁教の中で密かに信仰を続け、それが子供に受け継がれた可能性がある。
この事実が遠藤周作の創作意欲を掻き立てたのだろう。貿易交渉という利のために洗礼を受けた日本人が、知らぬ間にイエスの存在に影響を受けていた。それを小説という形式で再編することで、日本人にとっての神とは、キリスト教の本質とは、それらの命題を追求したのだ。
詳しくは次章より考察する。
キリスト教が日本に根付かない理由
本作『侍』では、キリシタン弾圧の史実と並行して、もう1つ別のテーマが描かれている。
それは・・・
なぜ日本人には、キリスト教の価値観を完全に理解できないのか。
この問題は遠藤周作が生涯を通して文学で追求した最重要テーマであり、少年時代に家族の意志で洗礼を受けた遠藤自身が抱えていた葛藤でもある。
あの日本人たちは・・・私の長い滞在生活でわかったことですが・・・この世界のなかで最も我々の信仰に向かぬ者たちだと思うからです。
『侍/遠藤周作』
この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった
『沈黙/遠藤周作』
このように、本作『侍』でも、代表作『沈黙』でも、宣教師が日本での布教活動に苦心し、そもそも日本にはキリスト教が根付かない、という問題に直面する。
この問題について、遠藤周作は大まかに三つの原因を提示している。
①日本の宗教の歴史
日本にキリスト教が根付かない原因の1つは、日本の宗教の歴史にある。
日本人といえば仏教、あるいは神道。
しかし日本人は、鎌倉新仏教に代表されるように、その時々で最も民衆に寄り添った形に信仰の解釈を変化させてきた民族だ。それは例えば、飢饉で多くの民衆が死にゆく時代には、出家をしなくても念仏を唱えるだけで救われる、といった簡略化の歴史とも言える。
対照的にキリスト教は古典的な価値観を重んじる父性的な宗教である。聖書を絶対的な価値基準とし、その教えから外れれば異端とされる。ところが日本人はその歴史から、キリスト教についても、自分たちに適した「独自の形」に変化させてしまうのだ。
こうした理由から、教会が布教する正当な信仰は、日本人には根付かないと考えられる。
②神の存在の捉え方
2つ目の原因は、日本人には超自然的な感覚がないからである。
日本人にとって神とは、仏や大日如来のように、人間を拡張した存在だ。それは迷いを捨てた時に「人間がなれる存在」でもある。あるいは日本人は、死者を「仏」と呼ぶ、特異な価値観を持っている。つまり日本人は人間と神の間に明確な境界線を設けていないのだ。
一方で西洋人にとって神は、人間を超越した存在、奇蹟を施す全知全能の存在として君臨している。そのため西洋人にとっては、神が定める善悪が絶対的な価値基準である。神が自殺は大罪だと説けば、それは絶対的な悪なのだ。
しかし日本人には絶対的な善悪が存在しない。あるいはそれは、先祖、家柄、主従関係、世間体に委ねられている。作中で田中という男は、旅の成果が徒労だと気づくと、面目が立たないという理由で自害する。
いわば日本人は、神よりも、他者との関係性に行動倫理を見出す民族なのだ。だからキリスト教の絶対的な価値基準が理解できないのかも知れない。
③現世利益を求める人種
3つ目の原因は、日本人が現世利益を求める人種だからである。
例えば、日本人が神社でお祈りをする時には、健康やお金や恋愛など、生きている間の効果を求めようとする。おそらく神社に参拝して、死後に天国に行けますように、と祈願する人は殆どいないだろう。
一方でキリスト教は、現世を超越した救済を宗とする。現世での苦しみや不幸は得とされ、それを耐え忍ぶことに意味があり、その結果として天上の幸福に辿り着けるのだ。
この価値観の違いから、日本人はキリスト教に対しても現世利益を期待する。作中で欧州行きの船に乗り込んだ日本人は、洗礼を受ければ異国で商売がはかどる、貿易交渉が上手くいくと知れば、その利のためにキリスト教徒になる。
要するに日本人は、神の本質より、実際的・短期的な効果を求める傾向にあるのだろう。
以上3つの原因から、日本にはキリスト教が根付かないと、遠藤周作は自論を展開している。
権力に絡め取られたキリスト教
キリシタン弾圧の史実、日本にキリスト教が根付かない理由、この2つに加えて、作中ではもう1つ重要なテーマが描かれる。
それは・・・
権力構造によって、イエスの本質が損なわれた現状である。
この問題提起は、メキシコで出会った、元は宣教師だったが、今は宣教師たちのやり方に違和感を覚えている日本人が体現している。
彼が抱く違和感とは、教会が断行する布教活動である。宣教師たちはキリスト教を世界中に普及させるために、あらゆる国々に乗り込み、現地人から土着的な宗教を取り上げ、現地人の反乱を武力で抑え込むやり方を敢行している。それはもはや支配である。
日本においても、ザビエルの来日以来、キリスト教は爆発的に支持を集めたが、宣教師たちが長崎に勝手な自治区を作ろうとし、それがお上の逆鱗に触れ、排斥の運動に変わっていった。
要するに、教会は布教活動に取り憑かれるあまり、本来あるべき弱者のための信仰を忘れ、官僚主義に成り下がっているのだ。
それはベラスコ神父の西洋での交渉失敗とも関係している。
ベラスコ神父は、日本での布教活動を絶対に諦められない。ところが教会は、キリシタン弾圧が強化された日本に、これ以上宣教師を送り込むのは危険だと言って跳ね返す。それに対してベラスコ神父は、少数ではあるが今も日本に潜伏するキリシタンたちを見捨てるのか、と反駁する。すると教会は、キリスト教が組織になった以上、大多数を守るために1人を見捨てるのはやむを得ないと吐き捨てる。
この出来事はベラスコ神父に衝撃を与えた。キリスト教は政治とは無関係だと思っていた。国家を、組織を、人種を越え、全ての人々に開かれた愛の宗教だと思っていた。しかし実際は違ったのだ。組織を維持するためには、弱者を見捨てるのも厭わない。
あの方(イエス)は、醜い者、みじめな者、みすぼらしい者、あわれな者だけを求めておられた。だが今、司教も司祭もこの国では心富み、心充ち足りております。あの方が求められた人間の姿ではなくなっております
『侍/遠藤周作』
弱者のために存在したイエスは、いつしか裕福になった組織構造によって、弱者を切り捨てるおかしな存在になってしまったのだ。
こうした失望を経験したベラスコ神父は、神とは何なのか、という根本的な問題に衝突し、一時は神を信じられなくなる。
こうした葛藤の中でベラスコ神父が思い出したのは、過去に見窄らしい日本人が自分に告悔を求めてきた記憶だ。イエスは本当に、彼のような人間を見捨てることを望むだろうか?
そう気づいた時に、ベラスコ神父は危険を顧みず、弾圧下の日本に再び渡航するのだった。
弱者のためのイエス
日本に帰国した「侍」は、洗礼を受けた事実を問いただされ、棄教の声明文を書かされる。
それは彼にとって容易いことだった。元より洗礼を受けたのは、貿易交渉を成功させる利のためであり、それが叶わなかった以上、キリスト教に何の未練もないのだ。
しかし彼の頭からイエスの存在が離れない。それは棄教した罪悪感ではなく、なぜ西洋人は実在しない神をこうまで信仰するのか、という疑問のせいだった。その違和感がずっと頭に引っかかっていたのだ。
そして、その疑問は少しずつ解を結んでいく。
「侍」は主君の命だから厳しい渡航をやり遂げた。故郷を返還されると約束されたから耐えられた。だが国内の政治が一変すれば、その苦労はただの徒労に変わった。政治は弱者を期待させると同時に、簡単に弱者を裏切るのだ。弱者は権力者の気分に翻弄され、その悲劇を耐えるしかない。
そんな絶望感の中で「侍」が思い出したのは、メキシコで出会った日本人である。彼は宣教師のやり方に疑問を抱き、虐げられた現地人と共に過ごしていた。彼が言ったのは、イエスは壮大な教会の中にいるのではなく、このように虐げられた人々の中にいる、ということだった。
あの方は、生涯、みじめであられたゆえ、みじめな者の心を承知されておられます。
『侍/遠藤周作』
そして「侍」もまた、主君に命を預かった立場から一気に転落し、虐げられる立場にいた。政治に裏切られ、おまけに大名の面目のために、一時は棄教で許されたと思ったが、改めて重たい罰が下されようとしていた。
そして「侍」は気づいた。
人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを--たとえ、それが病みほうけた犬でもいい--求める願いがあるのだな。あの男(イエス)は人間にとってそのようなあわれな犬になってくれたのだ
『侍/遠藤周作』
政治や権力は簡単に弱者を裏切る。しかしイエスだけは絶対に裏切らない。だから人々が求める。そう気づいた時、「侍」の中にイエスの存在が意味を結んだ。
「侍」が処刑場に連行される場面で、旅を共にした従者は、「ここからは、あの方がお供なされます」と告げる。すると「侍」は、静かに頷くのだった。
一方で危険を顧みず日本に帰還したベラスコ神父も、牢獄に捕えられる。死刑執行の直前に、「侍」がキリシタンであるゆえに処刑された事実を知る。それを聞いたベラスコ神父は、彼と同じ場所に行ける、という安堵の想いと共に、火の中で灰になったのだった。
なぜイエスは存在するのか。
「侍」は利のために洗礼を受けたに過ぎなかった。しかし政治に裏切られ、見放され、孤独になった時に、「侍」は気づいた。
イエスは弱者の心の中にだけ、存在する、と。
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