ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』あらすじ解説|ニーチェの永劫回帰とは

※ 当サイトではアフィリエイト広告を利用しています
※ アフィリエイト広告を利用しています
存在の耐えられない軽さ フランス文学

小説『存在の耐えられない軽さ』は、チェコの作家ミラン・クンデラの代表作である。

1968年の「プラハの春」を題材に、4人の男女の悲痛な運命が描かれる。20世紀最大の恋愛小説と謳われるが、哲学要素が強い。

本記事では、歴史背景や、作中の哲学思想を解説した上で、物語を考察する。

スポンサーリンク

作品概要

作者ミラン・クンデラ
チェコ出身
フランスへ亡命
発表時期1984年
ジャンル長編小説 
哲学小説
ページ数400ページ
テーマプラハの春
  重い人生と軽い人生  
キッチュなもの

あらすじ

あらすじ

舞台は1968年前後の旧チェコスロバキア。

優秀な外科医トマーシュは、多くの女性と肉体関係を持ち、独身生活を謳歌するプレイボーイである。エロス的友情をモットーに、セックスはしても深い関係は避けている。そんな彼は、テレザという女性に初めて特別な感情を抱き、結婚という深い関係を築くことになる。しかし愛情とセックスを完全に切り分ける彼は、結婚後も浮気癖が治らず、テレザは嫉妬の感情に苦しめられる。

トマーシュの愛人サビナは成功した画家だ。しかし共産主義国では自由な芸術活動が認められず、いち早くスイスに亡命した。そんな風に家族や祖国を裏切り、重荷を下ろし続ける「軽い人生」に彼女は惹かれている。一方でサビナの元恋人フランツは、「重さ」に惹かれる性質で、政治行進など、大きなものと一体化することに喜びを感じている。

複雑に絡み合う4人の男女。そこに歴史事件「プラハの春」が発生し、旧ソ連の軍事支配によって、彼らは壮絶な運命に巻き込まれることになる・・・

スポンサーリンク

オーディブル30日間無料

Amazonの聴く読書オーディブルなら、12万冊以上の作品が聴き放題。

近代文学の名作から、話題の芥川賞作品まで豊富なラインナップが配信されています。

通勤中や作業中に気軽に読書ができるのでおすすめです。

・12万冊以上が聴き放題
・小説やビジネス書などジャンル豊富
・プロの声優や俳優の朗読
・月額1,500円が30日間無料

╲月額1,500円が30日間“無料”╱

■関連記事
➡︎オーディブルのメリット解説はこちら

個人的考察

個人的考察-(2)

「プラハの春」について

本作『存在の耐えられない軽さ』の物語を理解するには、歴史的事件「プラハの春」について知る必要がある。

■「プラハの春」とは

「プラハの春」とは、1968年に起こった、旧チェコスロバキアの変革運動と、それに伴う旧ソ連の軍事介入を指す。

旧チェコスロバキアは、第二次世界大戦前は民主主義国家だったが、ヒトラー率いるナチスドイツに解体され支配された歴史がある。その後ドイツが敗戦国になると、1948年に旧ソ連の衛星国にされ、共産党1党による独裁体制へと変貌する。作中で、画家のサビナがキュビスムを愛好しているのに、自由な芸術活動が認められないのは、こうした歴史的背景に由来する。共産党衛星国では、指導者を賛美したり、労働の素晴らしさを訴える、社会主義リアリズムの絵画しか許されなかったのだ。

その後、経済不調により改革の機運が高まり、1968年に自由主義的な指導者ドゥプチェクが誕生する。彼は言論の自由、検閲の廃止など、民主化の改革を進める。これがいわゆる「プラハの春」である。いわば共産主義・全体主義からの自由を求める運動だったのだ。

プラハ市民は一時的に自由を謳歌できたが、長くは続かなかった。改革運動がソ連国内に波及するのを恐れた、当時のソ連の指導者は、旧チェコに圧力をかけた。それでも動じず改革運動を続けた結果、ソ連の軍事介入によって占領され、ドゥプチェクは逮捕される。そして検閲やメディアの統制などが復活し、あえなく共産主義独裁国家に回帰する。

物語の背景には、このような歴史的事件が関係しているのだ。

スポンサーリンク

■「プラハの春」に翻弄される男女

この歴史的事件「プラハの春」に翻弄されたのが、作中に登場する4人の男女である。

外科医トマーシュは、共産主義に意義を唱える1人で、批判的な文章を雑誌に投稿した。その直後に旧ソ連の軍事介入が起こり、雑誌に投稿した文章に目をつけられ、撤回を迫られる。それを否認したことで病院を追い出され、内務省の男に付け回され、職業生命を完全に絶たれてしまうのだ。

妻テレザにも不幸が降りかかる。テレザは「プラハの春」の時期、ソ連軍の卑劣な行為を写真に収めるカメラマンだった。だが一時的にスイスに亡命した彼女は、外国語ができないせいで職業を失い、トマーシュに頼って生きることになる。そのトマーシュはスイスでも浮気癖が治らなかった。痺れを切らしたテレザは1人でプラハに戻る。それは運命的な決断だった。ソ連の支配が強まるプラハに戻れば、二度と外国に亡命できず、永久にトマーシュと会えない可能性があるのだ。さらにテレザは、過去にソ連軍を批判する写真を撮ったことで、不審な人物に付け回され、身の危険に怯えることになる。

次に画家のサビナだが、彼女は前述した通り、キュビスムを愛好するのに、自由な芸術活動が認められない境遇にいた。そのため誰よりも早くスイスに亡命した。それが「裏切り」の始まりでもあった。サビナに関しては後の章で詳しく解説する。

最後にサビナの元恋人フランツだが、彼は政治行進など、巨大なものと一体化することに喜びを感じる性質だった。そんな彼はサビナと別れた後、飢饉に喘ぐカンボジアに旅立つ。当時カンボジアはベトナムに支配されており、その背後にはロシアがいた。ゆえにフランツにとってカンボジアは、ソ連に支配されたサビナの祖国プラハを思わせた。別れてもなおサビナを敬愛するフランツは、巨大なものと一体化する興奮に導かれ、カンボジアに旅立って命を落とすことになる。

以上がざっと、歴史的事件に翻弄された四人の男女の末路である。

■著者と「プラハの春」について

著者クンデラは、4人の男女について、自分がなり得たかもしれない存在だと言及している。

というのも、クンデラ自身「プラハの春」で改革運動に参加した側の人間である。それが原因でソ連に目を付けられ、チェコ国内で全著書が発禁になり、職業生命を絶たれてしまった。まさにトマーシュと似た境遇だ。

数年後に彼はフランスに亡命し、そこで執筆したのが、『存在の耐えられない軽さ』である。

スポンサーリンク

冒頭の哲学思想について

本作は男女4人の物語に入る前に、ある対立する哲学思想が取り上げられ、その考えを基調に物語が展開する。1つはニーチェの哲学、もう1つはパルメニデスの哲学だ。

■ニーチェの永劫回帰

ニーチェの代表的な哲学に、「永劫えいごう回帰(永遠回帰)」というものがある。端的に言えば、我々の人生は1度きりではなく、未来永劫に繰り返されるという仮説だ。

ニーチェがこの仮説を立てた理由は、ルサンチマンの否定にある。ルサンチマンとは「弱者賛美」を意味し、それは同時に強者への復讐を意味する。例えば、「貧乏人の我々は素晴らしい存在で、強欲な金持ちは地獄に落ちるだろう」という弱者の僻みや妬みのことだ。仮に人生が1度きりならば、こんな醜い妬みや僻みも、死んでしまえば無に帰する。しかし未来永劫に繰り返されるとすれば、僻み嫉みの人生が永久に続くのだから恐ろしい。

結局何が言いたいのかというと、人間は人生を1度きりと考えるから、何をしても構わない、何を決断しようが、決断しまいが、どうせ死ぬのだからどうでもいい、という厭世主義に陥るわけだ。極端な例をあげれば、凶悪な犯罪を犯しても自殺すれば関係ない、みたいなことだ。作中の表現を使えば、「1度は数に入らない」である。

一方でニーチェの仮説通り未来永劫に繰り返されるなら、自分の行動の1つ1つが重要な意味を持つので、より良い人生にしようと考える。ネガティブな出来事よりも、ポジティブな出来事の方が何度も繰り返されてほしい。人を妬む人生よりも、人を愛し愛される人生の方が繰り返されてほしい。

物語に因んで言うなら、1度きりの人生は「軽い人生」、繰り返される人生は「重い人生」である。そしてニーチェは後者の「重い人生」を肯定したのだ。

このニーチェの思想と対照的なのが、パルメニデスの哲学だ。

■パルメニデスの二極化

パルメニデスはこの世界の全てのものを二極化しようとした。

・「光」と「闇」
・「細かさ」と「粗さ」
・「暖かさ」と「寒さ」
・「存在」と「非存在」…….etc

彼は前者(光、細かさ、暖かさ、存在)をポジティブなもの、後者(闇、粗さ、寒さ、非存在)をネガティブなものと考えた。

そして本作のかなめとなる「軽さ」と「重さ」であるが、パルメニデスは「軽さ」をポジティブなもの、「重さ」をネガティブなものと考えた。

言ってみれば、人生は1度きりなのだから、重い鎖を断ち切って軽い人生を歩もう、ということだ。「重い人生」を肯定するニーチェとは対照的な考えである。

この対立する二つの哲学思想をめぐって、苦しい葛藤に迫られるのがトマーシュである。

スポンサーリンク

トマーシュの葛藤(軽さと重さ)

優秀な外科医トマーシュは、深い関係を築かない代わりに、多くの女性と肉体関係を持つプレイボーイである。いわば「重さ」を避けて、「軽さ」を謳歌しているのだ。ところがテレザと出会ったことで、初めて女性と深い関係を築くことになる。

夫婦になったトマーシュとテレザは、「プラハの春」をめぐり、生まれ故郷を離れてスイスに亡命する。ところがトマーシュの浮気癖は治らず、テレザは痺れを切らしてプラハに帰ってしまう。ここでトマーシュに、「軽さと重さ」の葛藤が訪れる。

当初トマーシュは、元々自分は独身生活を謳歌する性分であり、テレザとの破局は仕方がないことだと諦める。しかし最終的には、テレザが1人プラハで苦しんでいる姿を想像して耐えられなくなり、職場の上司に「自分はプラハに帰らなければならない」と伝える。この時の彼の頭に浮かんだ言葉が、「Es muss sein(こうでなければならない)」である。

この「Es muss sein」は、ベートーヴェンの言葉である。ベートーヴェンは、自ら運命を切り拓く「重い人生」の象徴として、作中で引用される。トマーシュは「こうでなければならない」という「重い人生」の義務感に突き動かされ、テレザに会いにいく決断をするわけだ。

ところがプラハの国境付近に到着し、ソ連の戦車が目に入ると、今度は「本当にこうでならなかったのか?」という疑念が頭を過ぎる。

ここで問題になるのが、ニーチェとパルメニデスの対立する哲学だ。

ニーチェの永劫回帰を肯定すれば、自らの決断によって運命を切り拓き、テレザとの関係を掴み取る「重い人生」を選ぶべきだ。反対にパルメニデスの二極化を肯定すれば、危険を冒してテレザに会いにいくような「重い鎖」は断ち切って、独身生活の「軽い人生」を選ぶべきだ。

トマーシュはこの二つの対立に苦しむ。なぜならいずれの哲学を肯定しようと、決断の善し悪しを判断することはできないからだ。我々の人生は選択の連続だが、その選択が正しかったかは最後まで判らない。右を選んだ人生と、左を選んだ人生を抽出して、どちらが優れているかを分析することはできないのだ。人生は常に本番であり、予行演習は存在しない。

とはいえトマーシュはテレザと再会を果たす。職業生命を絶たれた彼は、窓拭きの仕事で生計を立て、その後は田舎で生活を始める。その寂れた田舎には浮気相手がなく、トマーシュは独身生活の「軽さ」を完全に手放した人生を送ることになる。そして詳しくは描かれないが、最終的にトマーシュとテレザは、交通事故によって生涯を終える。

この結末を知った時に、改めて疑問が生じる。果たしてトマーシュの決断は正しかったのか?

「軽い人生」と「重い人生」のいずれが幸福なのか?

この問いは、読者1人1人に委ねられている。

スポンサーリンク

サビナが忌み嫌う「キッチュ」

本作で最も「軽い人生」を象徴するのがサビナである。前述した通り、サビナは自由な芸術活動が許されない共産党衛星国から、いち早くスイスに亡命した画家だ。

サビナにとって「軽い人生」とは、「裏切り」の連続だった。

裏切りとは隊列を離れることである。裏切りとは隊列を離れて、未知へと進むことである。サビナは未知へと進むこと以外により美しいことを知らなかったのである。

『存在の耐えられない軽さ』

サビナの父親は禁欲主義だった。14歳のサビナが恋をした時には無理やり禁じた。さらに当時の共産主義国で認められていなかったピカソの絵を馬鹿にした。

厳格な家庭で育ったサビナにとって、キュビスムを愛好し、スイスへ亡命する行為は、両親を裏切り、祖国を裏切ることを意味した。彼女は裏切りによって重荷を捨て、「軽い人生」へと突き進み、そして全てを捨てた「軽さの果て」に何があるのか、そんな考えに取り憑かれているのだ。

そんな風にサビナが「軽さ」に惹かれるのは、「キッチュ」を嫌悪しているからだ。

■「キッチュ」とは

「キッチュ」とは「俗悪なもの」を指し、クンデラは「同情、同調」の意味で使っている。

例えば、多数派の意見に同調したり、政治思想に共鳴すること。

作中では共産主義メーデーが登場する。巨大な政治行進に混ざれば、あたかも自分が強い存在になった気になり、気持ちよくなれる。巨大なものとの一体化は精神的な高揚をもたらす。

それはあるいは、特定のイメージを他者と共有することの快楽でもある。

例えば、感動ドラマ、幸福な人生、強い男、可愛い動物。それらは大勢が共有する紋切り型のイメージで、それを通じて人々は、悲しい、可愛い、嬉しい、気持ちいい、などの感情を共有している。仮にも、感動ドラマを見て涙を流さない人間がいれば、その人間を不審に思い、軽蔑し、排除しようとする。

このように紋切り型のイメージを通して、大勢と感情を共有する行為が、「キッチュ」の特性である。それは同時に、同調圧力によって少数派を排除することを意味する。

共産主義は素晴らしい、指導者は素晴らしい、労働は素晴らしい。そういう大衆のイメージ共有こそ、まさにキッチュなものである。そして彼らは「キッチュ」なものに酔い、気持ちよくなっている。芸術家のサビナにとっては、それが忌まわしく感じられたのだろう。

彼女は「キッチュ」から逃れるために、裏切りを繰り返している。裏切りによって隊列(巨大なもの、紋切り型、祖国、家族)を離れ、「軽い人生」を追求しているのだ。

スポンサーリンク

「キッチュ」の犠牲者フランツ

サビナと対照的なのが元恋人フランツである。フランツは「キッチュ」に惹かれ、政治行進や宗教など、巨大なものと一体化することに喜びを感じている。

相反する二人を象徴するのがセックスだ。フランツはセックスの最中に目を閉じる。目を閉じることで、巨大な世界(キッチュ)と一体化して快楽を感じているのだ。同じくサビナも目を閉じる。それは「キッチュ」に快楽を覚えるフランツが見るに耐えないからだ。このように二人は、同じ行為に対して全く別の感情を抱いている。詳しくは、著書の第三章「理解されなかった言葉」を読んでいただきたい。

そんな風に「キッチュ」に取り憑かれたフランツは、サビナと破局後、友人の誘いでカンボジアに旅立つ。当時ベトナムに支配され、飢餓に喘いでいたカンボジアには、多くの医師や映画女優などが派遣されていた。彼らの殆どが、偽善的な行為を通じて、巨大なものと一体化する「キッチュ」に魅入られていただけだ。フランツもその1人だった。

カンボジアに旅立ったフランツは、思わぬ形で命を落とすことになる。自分の意志ではなく、巨大なものと一体化する快楽、大衆心理に酔いしれた結果、死んでしまうのだ。それは「キッチュ」の犠牲者とも言える。

フランツからは何が残ったか? 永い放浪の末の帰還、と書かれた碑文。などである。われわれは忘れ去れる前に、キッチュなものへと変えられる。

『存在の耐えられない軽さ』

自ら何も選ばず、「キッチュ」に押し流されたフランツには、何も残らなかったのだ。

トマーシュやテレザやサビナは、自ら運命を切り拓いた結果、その運命に翻弄された。一方でフランツは、大きなものに流された結果、その運命に翻弄された。自ら選んだ結果なら受け入れられる。しかしフランツの場合を考えると、「一体彼の人生はなんだったのか?」と強い悲しみを覚える。

いずれにしても彼ら4人は、どの選択が正しいとも判らない、たった1度の人生の「軽さ」によって、運命を切り拓き、また運命に押し流されたのだ。

我々はどのような人生を歩むのが幸福なのか。たった1度の人生の「耐えられない軽さ」の中では、それは誰にも判らないのである。

スポンサーリンク

オーディブル30日間無料

Amazonの聴く読書オーディブルなら、12万冊以上の作品が聴き放題。

近代文学の名作から、話題の芥川賞作品まで豊富なラインナップが配信されています。

通勤中や作業中に気軽に読書ができるのでおすすめです。

・12万冊以上が聴き放題
・小説やビジネス書などジャンル豊富
・プロの声優や俳優の朗読
・月額1,500円が30日間無料

╲月額1,500円が30日間“無料”╱

■関連記事
➡︎オーディブルのメリット解説はこちら

タイトルとURLをコピーしました