太宰治の小説『津軽』は、生まれ故郷の風土を記した紀行文である。
出版社の依頼で津軽地方を取材した旅の様子が描かれている。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語を詳しく考察する。
作品概要
作者 | 太宰治(38歳没) |
発表時期 | 1944年(昭和19年) |
ジャンル | 長編小説 紀行文 自伝小説 |
ページ数 | 260ページ |
テーマ | 津軽の風土 旧友たちとの再会 失われた母性愛を求めて |
簡単なあらすじ
風土記の執筆を依頼された太宰は、十年ぶりに故郷へ帰省し、三週間かけて津軽半島を一周する。それは彼の生涯において重大な事件であった。
本州最北端に位置する津軽半島は、ヒバという木材が有名で、山菜や海の幸にも恵まれている。古くは「蝦夷」と呼ばれ、アイヌ居住地の一部だった。歴史上、蝦夷は和人によって討伐されているが、その勢力は津軽半島まで届かず、独自の文化を築き上げた稀な風土を持つ。そのため津軽人は勝ち気で頑固な性格だと記されている。
旧友と酒を飲み交わし、太宰は楽しい時間を送る。生家や父の故郷も訪ね、その時々で少年時代のエピソードが綴られる。しかし旅の本当の目的は、幼年時代の乳母「たけ」との再会だった。両親の愛情に飢え、生家の因縁に縛られた太宰にとって、「たけ」は唯一母性を与えてくれた特別な存在だった・・・
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個人的考察
『津軽』の創作背景
太宰治は生涯8つの長編小説を遺した。最も有名な『斜陽』『人間失格』は、いずれも暗くて苦しい自己内省が描かれ、太宰の破滅的な人間性を印象付けている。
一方で本作『津軽』は、全作品の中で特異な位置を占める、明るくユーモアに満ちた作品だ。
4度の自殺未遂を経た太宰は、1938年の結婚から終戦までの7年間、比較的精神状態が安定していた。その時期は執筆活動が旺盛で、数々の名作を生み出し、1つが『津軽』である。そしてこれ以降の作品は死に向かう不吉な影を落とすことになる。
そんな特異な作品『津軽』は、出版社の依頼で書かれた風土記である。
■創作背景
1944年、出版社小山書店は「新風土記叢書」と題して、作家に風土記の執筆を依頼した。その1人に選ばれた太宰は、生まれ故郷である津軽の風土記を執筆することになった。現在殆どの作品は流通していないが、『津軽』のみ文庫本になり、教科書に掲載された時期もあった。
太宰は執筆に際し、1944年5月12日から6月5日にかけて、津軽地方を取材旅行した。それは10年ぶりの帰郷であると同時に、見知らぬ町への訪問でもあった。
▼主な訪問場所は下記の通りである。
①「青森」に到着し、生家の使用人だったT君と再会。
②「青森」から「蟹田」に到着し、中学時代の友人N君と再会。
③「竜飛」へ向かう道中「今別」でMさんと合流。欠航のため「三厩」に宿泊。
④船が出ないので「青森」に戻り、そこから実家「金木」を訪問。
⑤身内と気まずい時間を過ごした後、父の生家「木造」を訪問。
⑥最後は旅の本命「小泊」を訪れ、乳母のたけと再会。
ざっと旅の流れは以上の通りである。
各土地で旧友と再会し、彼らと飲み明かす旅模様の合間に、津軽の風土や少年時代の思い出が挿入される。そして旅の終わりに、育ての親であり、唯一母性を与えてくれた「たけ」と再会を果たして筆が置かれる。
自伝的小説の側面が強いので、風土記といえど読みやすい内容になっている。また太宰文学に一貫する生家との因縁を知る上でも重要な文献である。
以上の概要を踏まえた上で、もう少し太宰と津軽の関係について考察する。
生家との関係性
太宰文学を語る上で、旧家との暗い宿命は切っても切り離せない。
太宰治こと津島修治は、「金木」の大地主の家に第10子として生まれた。父は金木銀行の頭取で、衆議院議員や貴族院議員を務める政治家でもあった。
私の父は非常に忙しい人で、うちにいることがあまりなかった。うちにいても子供らと一緒には居られなかった。私は此の父を恐れていた。(中略)私は、あの時の恐怖を惟うと今でも、いやな気がする。
『思い出/太宰治』
太宰が14歳の頃に父は他界した。ほとんど父のことを知らぬまま、漠然と恐怖を与える存在として太宰の中に存在し続けた。代表作『人間失格』においても、少年時代の太宰がどれほど父を恐れていたかが窺える。
一方で母は病弱な上、多忙な政治家婦人であったため、太宰の育児には関与していない。生まれて1年ほどで「五所河原」の叔母の家に移され、女中の「たけ」に養育された。小学校入学と同時に生家の「金木」に戻るが、太宰は長い間、叔母を生みの親だと思っていたらしい。
このように両親の愛情を受けず、むしろ彼らに恐怖を抱いていた太宰は、生涯旧家との因縁に苦しみ、それは自己否定という形で文学に反映される。処女作品集『晩年』には既に因縁の翳りが窺え、最終的には『人間失格』という形で自己否定がなされたわけだ。
言い換えれば、太宰文学の一生は、旧家からの逃亡の歴史である。格式高い旧家に生まれながら、酒や薬や愛欲に堕落したのは、旧家の因縁から逃亡するための自己否定だったのだろう。
また当時は革命の季節、プロレタリア文学の流行に見られる通り、共産主義の風潮が蔓延していた。共産主義にとって労働者を搾取する地主は敵である。地主の息子である太宰が左翼運動に従事したのも、階級人としての自分を否定することで、旧家からの逃亡を試みたのだろう。
それらの挫折の末に、太宰は幾度も自殺未遂を起こし、生家との因縁を深めることになる。
私は兄から、あの事件に就いてまだ許されているとは思わない。一生、だめかも知れない。
『津軽/太宰治』
「金木」の生家を訪れた太宰は、一転して気疲れを覚える。父亡き後、太宰は兄に対して父同様の後ろ暗さを感じていた。「あの事件」とは無論、自殺未遂である。1930年に太宰はバーの女給と入水自殺を図って世間を騒がせる。太宰は自殺幇助罪に問われ、その後始末をしたのが兄だった。この事件を兄が一生許すわけないという後ろめたさが、10年も帰郷したなかった原因の1つと考えられる。
ゆえにこの津軽旅行は、太宰にとって重大な事件だったのだろう。
志賀直哉との確執
少し余談になるが、作中では「ある五十年配の作家」の批判がしつこく記される。言うまでもなく志賀直哉のことである。
書かれてある世界もケチな小市民の意味もなく気取った一喜一憂である。(中略)「文学的」な青臭さから離れようとして、かえって、それにはまってしまっているようなミミッチイものが感ぜられた。
『津軽/太宰治』
太宰治と志賀直哉の確執は有名だが、実は二人の幼稚な戦いは本作『津軽』に端を発する。言ってみれば太宰から喧嘩をふっかけたのだ。
というのも、太宰は「無頼派」と呼ばれ、新しい文学によって既存の文学の壁を乗り越えようというポリシーのもと執筆に取り組んでいた。そんな彼にとって、既存文学の象徴とは、昭和初期に文壇の大家としてのさばっていた志賀直哉だったのだ。
志賀の方も黙っておらず、のちに太宰のヒット作『斜陽』を悉く批判する。それに対して太宰は怒りを爆発させ、随筆『如是我聞』にこんな文をしたためる。
いったい、この作家は特別に尊敬せられているようだが、何故、そのように尊敬せられているのか、私には全然、理解出来ない。どんな仕事をして来たのだろう。ただ、大きい活字の本をこさえているようにだけしか思われない。
『如是我聞/太宰治』
「暗夜行路」大袈裟な題をつけたものだ。彼は、よくひとの作品を、ハッタリだの何だのと言っているようだが、自分のハッタリを知るがよい。その作品が、殆んどハッタリである。(中略)いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。
『如是我聞/太宰治』
太宰が躍起になったのは、実は津軽の旅中に、旧友たちがこぞって志賀直哉を讃嘆したからである。その頃の太宰はまだ日の目を見ぬ貧乏作家だった。世間どころか旧友にすら認められぬ嫉妬から、感情的に志賀直哉を批判したのだと思われる。
そんな愚痴っぽい自分を、津軽人の性格を持ち出して弁解するところが、太宰の可愛らしさである。本州最北端の津軽半島は、歴史上、権力者の勢力が届かず、そのため独自の文化を築き上げた稀な風土を持つ。敗北を知らぬゆえ、津軽人は勝ち気で頑固な性格らしい。太宰が志賀直哉を目の敵にするのも、津軽人の勝ち気な性分によるところ、なんて彼らしい諧謔である。
太宰が求めた母性愛
旧友との再会や、生家への帰省を経た太宰は、最後に本当の目的地「小泊」を訪れる。生まれて1年で生家を離れた太宰を養育した、乳母の「たけ」が住んでいるのだ。
私はその人を、自分の母だと思っているのだ。(中略)私の一生は、その人に依って確定されたといってもいいかも知れない。
『津軽/太宰治』
「たけ」と再会してしばらく二人の間に会話はなかった。それでも太宰は沈黙の中に安心と平和を感じていた。生みの母は気品高く立派だったが、「たけ」のような安堵感を与えることはなかった、とさえ記される。
両親から愛情を受けず、旧家との因縁に縛られた太宰にとって、幼少時代に「たけ」が与えた母性だけが、唯一救いだったのかも知れない。この旅の本当の目的は、失われた母性を追い求めるところにあったのだろう。また太宰の愛欲に溺れた生涯そのものが、母性愛の追求だったのかもしれない。
太宰は本書の最後に、旅中に再会した人々はかつて生家に仕えた人間であり、彼らは友人だと記して筆を置く。生家からの逃亡を図った太宰は、10年ぶりに帰郷し、見落としていた自分の居場所を再発見したのかもしれない。
しかしこれ以降、彼の心に二度と平和は訪れなかった・・・
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映画『人間失格』がおすすめ
『人間失格 太宰治と3人の女たち』は2019年に劇場公開され話題になった。
太宰が「人間失格」を完成させ、愛人の富栄と心中するまでの、怒涛の人生が描かれる。
監督は蜷川実花で、二階堂ふみ・沢尻エリカの大胆な濡れ場が魅力的である。
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