太宰治『人間失格』あらすじ解説|教科書に載らない自叙伝

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人間失格 散文のわだち

太宰治の小説『人間失格』は、日本歴代3位のベストセラー作品です。

山崎富栄との自殺直前に発表され、実質最後の自伝的小説になりました。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者太宰治(38歳没)
発表時期  1948年(昭和23年)  
ジャンル長編小説
半自伝的小説
ページ数192ページ
テーマ人間不信
道化師の人生

あらすじ

あらすじ

「恥の多い生涯を送って来ました。」

葉蔵の恥多き生涯が幼少時代から語られる。父親との軋轢や、女中の過ちに苦しむ葉蔵は、いつしか道化の仮面を被って生きるようになる。そんな偽りの自分を他者に暴かれることに酷く怯えていた。

青年期を迎えると、人間に対する恐怖心を紛らわすため、酒・煙草・左翼思想に溺れる。その破滅的な生活の末に、カフェの女給と入水自殺を図り、自分だけが生き残る。不祥事を起こした葉蔵は父親に勘当される。

元より画家を志していた葉蔵は、未亡人シヅ子の紹介で漫画家になる。だが自分が他人を不幸にする感覚に居た堪れなくなり、シヅ子の元を飛び出してしまう。

その次に出会ったのは、煙草屋の娘・ヨシ子だった。彼女の無垢な人柄に胸を打たれた葉蔵は結婚を決め、ようやく地に足を付ける。だがヨシ子はあまりに無垢ゆえに強姦され、再び葉蔵はどん底に落ち込んでしまう。

酒と薬の中毒でついに吐血した葉蔵は、精神病院の檻の中に閉じ込められる。その時に自分は人間を失格したのだと痛感した・・・

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個人的考察

個人的考察-(2)

葉蔵はキリスト教を疑い続けた

主人公の「葉蔵」は、度々「神」の存在を引き合いに出して、過激な独白を繰り返します。

ここでの「神」は、まさに「イエス・キリスト」のことを指します。

重要なのは、葉蔵はキリスト教の視点から物事を捉えているのではなく、キリスト教の視点を引き合いに出して、神に対する疑念を露呈しているということです。

つまり、葉蔵はキリスト教を疑い続けていたのです。

正確には、疑うというよりも、信じることができなかったというニュアンスが相応しいかもしれません。なぜ、葉蔵はキリスト教を信じられなかったのか、各場面を取り上げながら考察していきます。

隣人を愛するということ

幼少の頃に実の家で息苦しさを感じていた葉蔵は、食事の時間が苦痛だったと告白しています。家族が薄暗い部屋に集まって、厳粛な雰囲気で食事を取るのが苦手だったようです。葉蔵にとっては、「飯を食わなければ死ぬ」という言葉が、脅しのように感じれます。

つまり、食事を取るという人間の根本的な営みによって、「家族」という息苦しいコミュニティに無理やり閉じ込められるような窮屈さを感じていたのだと思います。

人間が生活の営みの中で感じる「当たり前の幸福」という観念が、葉蔵にとっては当たり前ではありません。むしろ苦痛だったのです。そういう世間と自分との間にあるズレに、彼は幼少の頃から苦しんでいました。

「自分の不幸を隣人が背負ったら生命取りになる」という表現が文中に記されています。

これは決して自分だけが酷く不幸で、他人の不幸など大したものではないと言っているわけではありません。飯を食うだけで解決するような苦しみが、その人にとっては地獄のような痛苦かもしれません。

ただa葉蔵には隣人の苦しみの性質や程度が分からないのです。

「なぜ隣人は痛苦に発狂せず、絶望せず、生活と闘い続けることができるのだろうか。エゴイストになり切って、自分を疑ったことがないからそんな楽な生き方ができるのではないか」

そんな風に葉蔵は周囲の人間を疑い続けています。逆に言えば、「自分だけがなぜ人の世の生活に折り合いをつけることができないのか?と自分自身を疑っているように感じられます。

キリスト教には「自分を愛するのと同様に隣人を愛せ」という教えがあります。裏を返せば、「自分を愛せない人間は他人を愛することもできない」ということになります。

葉蔵は自分を愛するどころか、罪の意識さえ抱いていました。彼が隣人の不幸を理解できないのは当然です。

しかし、重要なのは、「葉蔵にとって隣人は信用するに値しない人間ばかりだった」ということです。事実、彼は幼い頃から父の取り巻きの醜さを見て育ちました。いくら無償の愛を注いでも、利益が伴えば人は簡単に裏切るという、醜い本質を知り過ぎていたのです。

隣人を愛することができない葉蔵が選んだ最後の手段は、道化になるという悲しい求愛でした。

道化になることが、彼と人の世を繋ぎ止める最終手段だったのです。愛するでも裏切るでもない、差し障りのない手段で、無理をして人間と付き合っていたのでしょう。

やがて、偽りの自分を演じることで周囲を騙しているという、自己嫌悪が彼の中で増幅します。

この負のスパイラルに陥った葉蔵は、自分は愚か、隣人を愛せるわけがなかったのです。彼にとっては、隣人を無償で愛するというキリスト教の考えには相容れない部分があったのでしょう。

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他人の罪を許すということ

葉蔵は自分の意見や気持ちを表現できない子供でした。父からのお土産の場面では、自分が欲しいものを上手に伝えられません。それどころか、いらないものを拒むこともできません。

嫌なことを嫌と言えず、好きなものには後ろめたさを感じてしまうのです。

そんな繊細で気弱な葉蔵が、「女中に性的な暴力を受けていた」と告白する場面があります。

なぜ女中の憎むべき罪を周囲の人間に訴えなかったのでしょうか。葉蔵の見解が記されています。

彼は「キリスト主義のため、つまり他人の罪を許すというアガペー的な観点から女中の罪を告発しなかったのではない」とはっきり主張しています。

葉蔵は根本的に周囲の人間のことを信用していません。だから本当の自分を表に出すことができなくなっています。加えて、自分も道化を演じて周囲の人間を欺いているという罪の意識があります。人間不信と罪の意識が彼の本心を囲い込んで、感情の出口を塞いでいるのでしょう。決して他人の罪を許すというキリスト教に対する信仰心があったわけではなく、苦しみを訴える行為を、世間と自分が手を組んで拘束していたのです。

他者に救いを求めることができない、キリストの救いさえも届かない、そんな残酷な人の世で、葉蔵は静かに狂っていったのです。

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印象派・ポスト印象派との出会い

葉蔵は竹一から見せられた印象派・ポスト印象派の作品に感銘を受けます。このことが彼の後の人生選択に大きな影響を与えます。

では、なぜ葉蔵は印象派の作品にそこまで胸を打たれたのでしょうか。

ここにもキリスト教との関係性が考えられます。印象派が芸術史でどういう立ち位置かということが重要になります。

元来、西洋画はキリスト教とは切っても切り離せない存在でした。「宗教画=西洋画」だったのです。

しかし、印象派の台頭により西洋画と宗教の間に乖離が生まれます

印象派は宗教をテーマにするのではなく、自分自身が目で見た世界をそのまま絵画に落とし込むという主義に発展した芸術なのです。

キリスト教に疑念を抱く葉蔵にとっては、自分が感じた通りに世界を描く印象派、あるいは現実の混沌を力強い筆捌きで表現するポスト印象派の思想が共感の対象だったのでしょう。

作中では、ゴッホの名が登場します。精神病になっても作品を生み出し続け、最後は自らの手でこの世を去った、ゴッホと太宰治。

芸術家特有の破滅的な美学が、二人を同じ運命に導いたのでしょうか。

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ツネ子との入水自殺について

ツネ子と出会ったことで、葉蔵の心情に変化があります。

彼女と過ごした一夜は、葉蔵の人生で二度とないくらい幸福で、解放的でした。しかし堀木の些細な言葉で、自分は勘違いしていたことに気づきます。葉蔵は、疲れて貧乏くさい、みすぼらしい女であるからこそ、ツネ子に親和感を抱いていたのです。

それはつまり、不幸な者同士の親和に過ぎなかったのです。

そしてついに葉蔵はツネ子と入水自殺を決行します。しかし自分だけが生き残ってしまいます。その結果、葉蔵は自殺幇助罪という、人を自殺に誘導した罪に問われます。

そこにもキリスト教に対する疑念が感じられます。キリスト教では自殺も、自分を殺すという罪に値します。葉蔵はツネ子を死に追いやった罪だけを突きつけられ、自らの自殺未遂は誰にも問題視されません。葉蔵が本来裁かれるべき自分殺しの罪が無視されることで、自分の存在価値に対する違和感、あるいは喪失感を抱いていたように思われます。

それは、神の無償の愛が自分には施されないという失望だったのかもしれません。

シヅ子との生活(シゲちゃんの言葉)

未亡人シヅ子の家に転がり込んだ葉蔵は、彼女の娘のシゲちゃんと良好な関係を築きます。シゲちゃんからは「お父ちゃん」呼ばれるくらいには家庭に馴染んでいます。

ある日シゲちゃんがこんな質問をしてきます。

「お父ちゃん。お祈りすると、神様が何でも下さるって、ほんとう?」

それに対して葉蔵は、「シゲちゃんには何でもくれるだろうけど、自分は何も貰えない」と答えます。

「自分は神にさえ、おびえていました。神の愛を信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。」

『人間失格/太宰治』

これまでは、キリスト教に対する疑念を暗に示しているだけでした。しかしシゲちゃんとの会話の場面では、はっきりと信仰に対する疑問を露呈しています。

現実世界に絶望し、神に救いを求めた結果、神の無償の愛すら信用できない葉蔵の息詰まる嘆きです。

あるいは、自分は道化を演じて周囲の人間を欺いているから、罰として地獄に堕ちるのだと、罪の意識ばかりが増えているようです。

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ヨシ子の純粋さに見る人間の愚かさ

ヨシ子は人を疑うことを知らない純粋無垢な少女でした。

しかしその純粋さにつけ込んで、出版社の男が彼女をレイプします。

その時に葉蔵は、ヨシ子が汚されたことよりも、ヨシ子の信頼が汚されたことに酷く苦心します。

『人間失格』最大のテーマ、「人を信じるということ」がここで完全に打ち砕かれたわけです。

元より葉蔵は人を信用することに恐怖を抱いていました。しかし、疑うことを知らない純粋なヨシ子と出会い、葉蔵は少なからず人間不信を克服し始めていたように思います。今までは、自分自身が人の世から愚かな仕打ちを受けてきました。しかしヨシ子と出会ったことで、初めて葉蔵は外界に微かな希望を感じていたのではないでしょうか。しかし、ヨシ子の信頼は外部の裏切りによって汚されてしまいました。その出来事が葉蔵に次のような結論を導いてしまいます。

人を信じても良いことなんて一つもない。人を疑わなければ、その純粋さを利用して悪事を働こうとする人間がいる。いつだって信じた方だけが不幸になり、怯えて生きていく羽目になる。

改めて、葉蔵は人の世に絶望してしまうのです。

葉蔵はヨシ子の純粋さを「神の如き無知」と表現します。

これは葉蔵にとって、神に対する最大の皮肉であったように思われます。ヨシ子の疑わない純粋さを称賛すると共に、人の世では神の教えなど何の役にも立たないことを訴えているのではないでしょうか。

つまり、神は人間の愚かさを何も知らない無知な存在だと非難しているのでしょう。

最後まで葉蔵は、キリスト教の考えに共鳴することはありませんでした。

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唯物論について

堀木に連れられ、葉蔵は共産主義の読書会に参加します。そこでマルクス経済学の講義を受けた彼は、唯物論に対する見解を述べます。

そもそもマルクスの唯物論とは、歴史や文化や法律は、物質の生産と消費を伴う経済が土台になって作られたという考え方です。

さらに元を辿ると、インド哲学にまで遡ります。インド哲学における唯物論では、観念や精神や心などの根底には物質があると考えられていました。人間は死んでも元の物質に戻り消滅するだけで、死後の世界は存在しないと、宗教的な思想を否定した考えた方です。

マルクスにおいても、インド哲学においても、結局物質的なものが根底に存在し、人間の心のような問題は無関係であるという点で共通しています。葉蔵はそういった考えを自然と肯定しながらも、人間に対する恐怖からは解放されないと主張しています。

つまり「心の問題なんて重要じゃない」と言われても、納得はできても少しも楽にはならなかったのでしょう。

キリスト教的な思想とは逆の、アジア的な唯物論にもどこか相容れない部分があったのではないでしょうか。

因果の理法

「神に問う。無抵抗は罪なりや?」

葉蔵が精神病院に収容される前に、訴えた一文です。またしても神に問うのでした。通常ならキリストに対する疑念を表していると思うでしょう。恐らくはそれで間違いありません。

しかし、私はあえて仏教的な観点からこの独白を解釈してしまいました。それは「無抵抗」という言葉がなぜか胸に引っかかってしまったからです。

インド哲学、つまり仏教には因果の理法が存在します。

因果の理法とは、人が前世において成した行為の結果を自ら後世において引き受ける原則です。

今世の苦悩は前世の行いの結果ということです。そのため、今世でどう抗おうが、苦悩から逃れることはありません。さらに、人は知らないうちに無数の悪行を積み重ねてしまうので、必ず来世の苦悩に繋がってしまいます。

つまり何をしても救われることがないのです。

まさに葉蔵に与えられた宿命のように感じませんか? どれだけ悩み苦しんでも、彼は人の世の苦悩から解放されることはありませんでした。

仏教では、この因果から解脱するための唯一の方法は、何もしないことと考えられています。つまり無抵抗に生きるということです。

そうすることで、前世の結果から解放され、来世の苦悩を断ち切ることができるらしいのです。修行僧たちは座禅を組んで、因果の関与しない無の境地に辿り着こうとしたのでしょう。

それを踏まえた上で、葉蔵が口にした「無抵抗は罪なりや?」という訴えを読み返すと、仏教に対する疑念のようなものを感じませんか?

散々葛藤していた葉蔵が、あらゆるものに対する抵抗を諦めた結果、狂人になってしまいました。それどころか、人間を失格してしまいます。無抵抗の果てに待つ解脱に、彼は到達できなかったのです。日本人の根底に存在する仏教的な観念にすら裏切られたようです。

葉蔵は人に裏切られ、神に裏切られ、仏に裏切られた結果、人間ではなくなってしまったのです。

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ベストセラーであり続ける理由

最後に、『人間失格』が今日でもベストセラーであり続ける理由を考察したいと思います。

私が考える『人間失格』の魅力とは、1冊の中に多くのテーマが含まれていることです。

家族関係(愛情の欠如)
性的虐待
HSP(繊細さん)
芸術に対する関心
政治的思想
アルコール中毒
恋愛(それにまつわるメンタルヘルス)
自傷行為
ドラッグ中毒
信頼と裏切り
宗教

これらの問題は全て、『人間失格』が書かれた1948年の問題だけに留まりません。

今日を生きる我々にも当てはまる、「普遍的な苦悩の種なのです。

そして、読む人全員が葉蔵に感情移入してしまうのは、上記のテーマの中で必ず一つは自分に当てはまる問題が存在するからではないでしょうか。あるいは、これらのテーマに苦心した人々が自然に、太宰治の作品に引き寄せられてしまうのかもしれません。

私も、あるいはこの文章を読んでいるあなただって例外ではありません。

これはあなた自身の物語なのです。

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映画『人間失格』がおすすめ

人間失格 太宰治と3人の女たち』は2019年に劇場公開され話題になった。

太宰が「人間失格」を完成させ、愛人の富栄と心中するまでの、怒涛の人生が描かれる。

監督は蜷川実花で、二階堂ふみ・沢尻エリカの大胆な濡れ場が魅力的である。

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