カットアップされた細切れの青春 村上春樹の『風の歌を聴け』あらすじ考察

風の歌を聴け 散文のわだち




村上春樹の小説『風の歌を聴け』をご存知ですか?

1979年に発表された彼のデビュー作です。

当時29歳の村上春樹は、ジャズ喫茶を経営しながら、夜更けに少しずつ文章をしたためていたそうです。そうして完成した作品の断片をシャッフルで並び替えるなど、試行錯誤した本作は、群像新人文学賞を受賞します。

私小説なのか、虚構なのか、エッセイなのか、コラムなのか、果たしてジャンルが定まらない本作は、新人賞の審査では支持を得ます。しかし、講談社の内部では、「こんなチャラチャラした小説は文学ではない」と批判の声も多かったようです。

吐き捨てるように言うなら、海外の翻訳小説を模倣したような文体で、舞台も設定もストーリーもぼんやりとしています。ファンの間では名高い1作です。しかし、迸る熱意を求めるにはあまりにキザでお洒落過ぎます。皆さんはそれが好きなんでしょう。もちろん私も例外なく。ご安心ください。彼の後の作品で描かれる「死生観」や「2層構造の世界観」などのテーマが、本作にも断片的に散りばめられています。そのあたりに注目しながら解説していこうと思います。

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『風の歌を聴け』の作品概要

作者村上春樹
発表時期1979年(昭和54年)
ジャンル 小説
テーマ執筆に対する想い、死生感、青春の喪失感
受賞群像新人文学賞

『風の歌を聴け』の300字あらすじ

完璧な文章などといったものは存在しない

冒頭で執筆の苦悩を訴えた上で、1970年の夏の出来事が綴られます。

大学生の僕は故郷に帰省し、バーで友人の「鼠」とビールを飲んでばかりいます。鼠は女性関係で悩んでいるようです。

他方で僕は4本指の女性と出会い、交友関係を持ちます。彼女の胸中にも蟠りがあるようです。

いずれも詮索はしません。あるいはこれまでの人生においても、「認識できるもの」と「認識できたもの」の間には深い溝が存在します。僕はいつも真実を知ることなく失っていくのです。

再び帰省した時には、女性の消息は分からなくなっていました。

作家を目指す鼠は、毎年クリスマスになると自分の小説を送ってきます。

『風の歌を聴け』のあらすじを詳しく

①完璧な文章など存在しない

完璧な文章などといったものは存在しない

大学生の頃に出会った作家が「僕」に言った言葉です。その言葉通り「僕」は文章を書くことに対してジレンマを抱えています。これまでの人生、8年間を執筆に費やし、遂に20代最後の歳を迎えました。

「僕」は文章については「デレク・ハートフィールド」という作家から多くを学びました。ヘミングウェイやフィッツジェラルドと同世代の作家です。彼は芸術家特有の不毛な闘いの末に、ビルの屋上から飛び降りましたが、それほど人々の記憶には残っていません。

要するに文章を書く行為は酷く苦痛な作業なのです。それでも「僕」が執筆を続ける理由は、生きることの困難さに比べれば簡単だからだそうです。

理屈臭くて、キザな村上春樹、これは果たしてエッセイなのか?

いや、ここから1970年の夏の物語が始まります。

②友人「鼠」との物語

金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。

友人の鼠がバーのカウンターで怒鳴りました。

その夏、大学生の「僕」は、故郷の港町に帰省していました。そして一夏中、行きつけの「ジェイズ・バー」で、友人の鼠とビールを飲んでばかりいました。

鼠は大学生になって出会った友人です。親しくなった経緯は曖昧で、気づいたら2人で明け方に泥酔した状態で車を運転していました。なぜ初対面の人間と同じ車内にいたのかは、全く記憶がありません。ただ、それ以来2人は意気投合し、親しくなったようです。

とにかく、鼠は金持ちに対して恨みを抱いています。とは言え、鼠自身が金持ちの家庭で育ったお坊ちゃんのようです。

果たして、彼に何があったのでしょうか。

③4本指の女性との出会い

場面は変わり、喉の渇きで目が覚めた「僕」は、他人の家にいました。

隣には女が眠っています。名前は思い出せません。特徴的なのは、彼女の左手が四本指だという点です。

彼女との出会いは、ジェイズ・バーの洗面所にてでした。鼠と連絡がつかなかったため、バーで1人でビールを飲んでいました。そして店を出る前に洗面所に寄ると、泥酔した彼女が床に倒れていたのです。店中の人に彼女の身元を尋ねてみましたが、誰も知らなかったので、「僕」が家まで送り届けることになりました。

泥酔状態だった彼女は昨夜の記憶が無いため、見覚えのない「僕」に対してかなり警戒しています。「僕」は決して彼女に悪さをしてはいませんが、不可解な状況に彼女の疑念は積もるばかりです。

「僕」は彼女を車で職場まで送り届け、不思議な距離感のまま別れます。

再び場面は移り変わり、「僕」はジェイズ・バーで1人ビールを飲んでいます。

見覚えのない女性が「僕」に小銭を貸してほしいと頼んできます。どうやら電話をかけたいようです。以降彼女は電話とトイレに行く作業を何度も繰り返します。鼠のいないバーで僕は一人きり。見知らぬ彼女は頻繁に誰に電話をかけているのでしょうか。

ちなみに本作はチャプターがシャッフルされているため、時系列が複雑です。小銭を貸した女性は恐らく、洗面所に倒れていて家まで送り届けた女生と同一人物です。

④4本指の女性と再会

後日、偶然立ち寄ったレコード屋さんで、4本指の女生と再会します。少なからず彼女はまだ警戒しているようです。

数枚のレコードを購入した「僕」は、何気なく彼女を食事に誘います。しかし警戒心の強い彼女は、毒舌を吐いて、誘いには乗らないのでした。

彼女の働く店で買ったレコードの内の何枚かは、鼠の誕生日にプレゼントします。

3日後に、4本指の女性から電話がかかってきます。ジェイムズ・バーの誰かから「僕」の電話番号を聞き出してかけてきたようです。なんでも散々冷たい態度をとったことを後悔しているようでした。そして今度は彼女の方から、ジェイズ・バーで会う約束を持ちかけてきます。

ジェイズ・バーで彼女と交友関係を深め、翌日には家に招待されます。特段意味のある会話をするわけでもなく、二人の交友関係は不思議な距離感で親密になっていきます。

ある晩、二人で夕食に出かけた際に、彼女が幻聴に悩まされていることを聞かされます。それから彼女が最近中絶の手術をしたことも知ります。「僕」にはそれ以上深く詮索するつもりはありませんでした。

精神的にまいっている彼女は、寝言で「お母さん・・・」と呟くのでした。




⑤「僕」の過去の交際

「僕」はこれまで3人の女性と交際しました。

1人目は、高校のクラスメートでした。お互いに愛し合っていると信じ込んでいましたが、高校卒業後間も無くお別れします。

2人目は、新宿駅で出会ったヒッピーの女の子でした。少しの間「僕」のアパートに滞在していましたが、突然「嫌な奴」という置き手紙を残して去って行きました。

3人目は、大学の図書館で知り合った女性でした。しかし、彼女は付き合った翌年にテニスコートの脇の雑木林で首を吊って自殺しました。

⑥鼠の抱える蟠り

その夜は珍しく、鼠は一滴もビールを飲みませんでした。その代わりにジムビームのロックを5杯も飲みます。

鼠は何か悩みを抱えていますが、打ち明けようとしません。ただ、「とある女性に会ってほしい」と妙なお願いをされます。

後日、「僕」はオリーブ・グリーンのスーツを着込んで、鼠の会わせたい女性に会うために待ち合わせ場所へ車で向かいます。

しかし、いざ到着すると、鼠は「会わせるのはやめた」と言います。

それからしばらく鼠の調子は悪くなります。相変わらず、悩みの種の女性については話してくれません。その代わりに小説を書きたいという志を彼から伝えられます。

鼠の小説に対する持論。小説とは自己の啓発のために書くか、蝉のために書くかのどちらかなのです。

そして「僕」は、女性関係に悩む鼠に対して何かを察するように、「金持ちも貧乏人も関係なく、みんな同じだ」と主張します。すると、鼠は「嘘だと言ってくれ」と反論するのでした。

⑦後日談

29歳になった「僕」は、結婚して東京で暮らしています。

鼠は相変わらず小説を書き続けています。毎年クリスマスになると書いた小説を送ってくれます。「僕」の誕生日がクリスマスイブのため、鼠の小説の原稿には必ず「ハッピー・バースデイ そして ホワイト・クリスマス」と綴られています。

あの1970年の夏以降、冬に再び故郷に帰省しました。しかし、4本指の女性はレコード屋を辞め、アパートを引き払っていました。今日まで二度と会うことはありません。

⑧あとがきにかえて

最後に、小説を書くきっかけになった、作家「ハートフィールド」について再び言及します。

「僕」は後にアメリカに渡り、「ハートフィールド」の墓を訪ねたようです。

宇宙の複雑さに比べれば、この我々の世界などミミズの脳味噌のようなものだ。

ハートフィールドが残した言葉です。

そうであってほしい、と「僕」も思っているのでした。

そして物語は幕を閉じます。




『風の歌を聴け』の個人的考察

鼠の女性問題の真実

掴み所がなく、謎を多く残したまま幕を閉じる本作。

最も気になるのは、鼠が抱えていた女性問題ですよね。

結論から説明すると、鼠が悩んでいた女性の正体は、「僕」が他方で親交を深めていた4本指の女性です。

それを決定づける描写がいくつか綴られています。まず1つ目が指の問題です。

「鼠はそれっきり口をつぐむと、カウンターに載せた手の細い指をたき火にでもあたるような具合にひっくり返しながら何度も丹念に眺めた。僕はあきらめて天井を見上げた。10本の指を順番どおりにきちんと点検してしまわないうちは次の話は始まらない。いつものことだ。」

『風の歌を聞け/村上春樹』

冒頭で既に、鼠が指の本数を気にしている場面が描かれています。何気ない描写の中の一部のため見落とした方も多いかもしれません。しかし、本作で指の本数を気にする行為は、確実に4本指の女性に関係している以外考えられません。

また、自分の指を点検する鼠は、金持ちに対する嫌悪感を露呈しています。自分自身が金持ちの息子であるにもかかわらず、金持ちを非難しているのです。おそらく、鼠は4本指の女性と交際していました。しかし、裕福な家庭であるため、鼠の両親は4本指と言う風変わりな女性との交際を認めなかったのではないでしょうか。そのため、鼠は自ら裕福な家庭に属しながら、金持ちを批判していたのでしょう。

あるいは、「僕」が鼠とバーで過ごす中で、小説についての話題が取り上げられます。鼠はもし自分が小説を書くならという仮定で、即興で物語を話し始めます。その鼠の物語の中に「ジョン・F・ケネディ」の名前が登場します。一方で、「僕」が洗面所でぶっ倒れていた4本指の女性を家に送り届けた場面で、昨夜の記憶がない彼女は自分がどんな話をしていたかを尋ねてきます。その時に「僕」は、彼女が「ジョン・F・ケネディ」の話をしていたことを明かします。おそらく、鼠と4本指の女性と間で交わされていた名前だったからこそ、「僕」は双方から同じ名前の話題を耳にしたのでしょう。

さらには、4本指の女性から中絶の手術を受けたばかりであることを明かされます。思い返すと、「僕」と彼女が初めてジェイズ・バーで会った時、彼女は電話とトイレを行ったりきたりしていました。偶然にも「僕」はその日、鼠とは会えずに一人でビールを飲んでいます。つまり、彼女の電話の相手は鼠であり、トイレには妊娠検査薬を試しに行っていたことが推測されます。

僕は二人が交際していることを知らずに、双方と個人的に関係を深めていたのです。それが冒頭で記されていた、「認識しようと努めるもの」と「実際に認識するもの」の間に横たわる溝なのでしょう。「僕」は真実を知らないまま、これまでも多くのものを失ってきたのです。

「僕」の過去の女性関係

作中には、鼠や4本指の女性とは別に、「僕」が過去に交際していた女性についても語られます。その中でも、1番目に交際した高校のクラスメイトは誰だったのか考察できました?

唐突に挿入されるラジオ番組のディスクジョッキーの文章が印象的ですよね。

ラジオ番組の中で、ビーチボーイズの楽曲をリクエストした女性がいました。彼女の要望により、「僕」宛に本番中のラジオ番組から電話がかかってきます。どうやらリクエストした女性と「僕」とは高校の同級生で、彼女からビーチボーイズのレコードを貸してもらった過去があるようです。

翌日「僕」は、4本指の女性が働くレコード屋でビーチボーイズのレコードを購入します。そして、昨夜ラジオにリクエストした女性の進学した大学に連絡をします。すると、彼女は病気の療養のため退学していました。

2度目のラジオ番組の場面では、病気の少女が姉に頼んで、手紙を番組宛てに送っている様子が描かれています。おそらく、1度目のラジオでビーチボーイズをリクエストした女性は、この病気の少女の姉であり、「僕」の高校時代の恋際相手でしょう。

病気の療養のために大学を退学したのは、妹の病気を看病するためだったと推測されます。そして、本作で「僕」の高校時代のクラスメイトは、交際していた女性か、1度目のラジオ番組にリクエストした女性しか登場しません。翌日にビーチボーイズのレコードを買って、連絡先を見つけ出そうとした「僕」の行動から見て、交際していた女性と、ラジオにリクエストした女性は同一人物と考えて問題ないでしょう。

散りばめられた「死生観」

3番目に交際した女性は、大学のテニスコートの脇の雑木林で首吊り自殺します。

彼女の死について、「僕」は独自の見解を綴っています。

若くして死んだ彼女は、そこで時間が停止してしまったため永遠に若いという感覚があるようです。そして、時が経つごとに自分は歳を重ね、永遠に若い死者と距離が離れていく感覚があります。

村上春樹が後に執筆する『ノルウェーの森』でも同様の死生観が描かれていました。いわゆる同級生キズキや直子の自殺に対して、主人公ワタナベが感じた死生観と同様なのです。あるいは、主人公の喪失感、ヒロインの精神的な問題など、後の村上春樹の作品とは切っても切り離せないテーマが、本作には既に断片的に描かれています。本人が未熟な頃の作品と評する本作ですが、多かれ少なかれ彼の功績の原点が、ここに存在しています。

読書感想文

僕は長らく村上春樹のことを好きだと認めませんでした。

高校生や大学生にもなれば、いわゆる「W村上」のいずれかの作品に触れるきっかけは誰しもあると思います。私が先に手にとったのは「春樹」ではなく、「龍」の小説でした。当然その後に春樹の小説も読み、両者ともに心を惹かれたのは間違いありません。しかし、依然として表面上私は、「春樹」ではなく「龍」ばかりを崇拝し続けていました。それは一種のプロレス的な楽しみだったのです。

例えば、モダンジャズの生き様よりもロックンロールを優先したいような。あるいは、ビートルズよりもストーンズの魅力を豪語したくなるような。さらには、はっぴいえんど中心史観よりRCサクセションを重要視するような。ひいては、フランス映画よりもアメリカンニューシネマに胸を打たれるような。

どちらも好きだけど、あえて片方を選ぶことが、10代のアイデンティティの形成には心地良かったのでしょう。だけど、どんなに生活感の見えない美女も、夜更には納豆を食うように、我々は放課後の図書室でこっそり村上春樹を読むわけです。理屈臭いとか、キザだとか、鼻につくとか、散々吐き捨てるその表情はいつだって嬉しそうなのだから。君も僕も例外なく。

村上春樹の作品が誘導してくれる、硬くて柔らかいシェルターのような世界観が好きでたまらないのです。私はいつだって、知的で、ウィットに富んで、変わった女の子にモテて、何も知らないまま失ってしまう男の子でいたいのかもしれません。たぶん君もそう。

以上、村上春樹の小説『風の歌を聞け』のあらすじと考察の説明を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。

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