川上未映子『ヘヴン』あらすじ解説|ニーチェとキリスト教の衝突

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ヘブン11 散文のわだち

川上未映子の小説『ヘヴン』は、いじめを題材にした著者初の長編作品です。

いじめられても自分の弱さには価値がある、というキリスト教の弱者賛美と、それを真っ向から否定するニーチェのニヒリズムとが衝突する、哲学的な内容になっている。

2022年には英国ブッカー国際賞にノミネートされ、世界中で評価されています。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者川上未映子
発表時期  2009年(平成21年)  
ジャンル長編小説
ページ数311ページ
テーマいじめ問題
宗教の問題
ニーチェの哲学
受賞芸術選奨新人賞
紫式部文学賞

あらすじ

あらすじ

斜視が原因で虐めを受ける「僕」は、ある日『わたしたちは仲間です』という手紙を受け取る。差出人は、同じく虐めを受ける女子のコジマだった。二人は文通を繰り返し、直接会うようになり、夏休みの初めに「ヘヴン」という絵を一緒に観に行く。

こうして二人は親交を深め、「僕」はコジマの存在が支えになる。コジマには、全ての物事には意味がある、試練を乗り越えることが大切、という信念がある。そして斜視の目は「僕」にだけ与えられた紋章で、それが好きだと言ってくれた。

強烈ないじめで顔に酷い怪我を負った「僕」は、通院した際に、斜視が治る事実を知る。それをコジマに告げると、彼女は突然涙を流し、それ以来口を利いてくれなくなる。いくら手紙を出しても返事を貰えず、コジマは日に日に痩せ、自分の知らない遠い存在になっていく。ようやく公園で会う約束に漕ぎ着けるが、しかしそこには虐めを敢行するクラスメイトたちが待ち伏せていた。そしてそれが最後に見たコジマの姿になる・・・?

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個人的考察

個人的考察-(2)

新境地にして最高傑作

2007年に『わたくし率 イン 歯ー、または世界』でデビューした川上未映子は、翌年『乳と卵』で芥川賞を受賞し、リズミカルな大阪弁を駆使した独特な作家として注目を集めた。

次いで2009年に発表された、初の長編小説『ヘヴン』は、大阪弁から標準語に変わり、過去作より哲学要素を強めた、作者にとって新境地の作品となった。

2022年には英国のブッカー国際賞にノミネートされ、受賞は逃したものの、世界中で高く評価されている。そもそも川上未映子は、『夏物語』で米TIME誌ベスト10に選出され、世界40ヵ国以上で刊行されるほど、国際的に注目を集める日本人作家である。

彼女が世界で評価される要因の1つは、やはりその哲学テーマを取り入れた作風であろう。

本記事では『ヘヴン』で描かれる哲学テーマ、とりわけ善悪の問題に注目する。

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コジマのキリスト教的価値観

物語は、「僕」とコジマ、虐めを受ける者同士が交流を開始するところから始まる。

「僕」には個人的な哲学がなく、ただ虐めを苦に病んでいるだけだが、一方のコジマはキリスト教を彷彿とさせる哲学を持つ。そして彼女の哲学は、虐めに加担する百瀬という男の哲学と衝突する。その衝突はニーチェ哲学が基盤になっている。

まずはコジマの哲学に注目する。

コジマが虐められる理由

コジマは汚い身なりで風呂に入らないため、貧乏で不潔だと虐められている。しかし、その背景はやや複雑である。

確かにコジマは元々貧乏だった。父親の事業が上手くいかない貧しい境遇で育ったのだ。しかし今は違う。貧乏が原因で夫婦関係が悪化し、離婚することになり、母親は裕福な男と再婚した。コジマは母親に着いて行ったため、実際はもう貧困ではないのだ。

ではなぜコジマは、汚い身なりで風呂に入らない生活を続けるのか?

今も貧しい父親との関係を「しるし」として自分に刻み込むためだ。それは「僕」にとっての斜視と同じで、その人間を構成する「弱者」の紋章とも言える。

弱いからってそれは悪いことじゃないもの。わたしたちは弱いかもしれないけれど、でもこの弱さはとても意味のある弱さだもの。

『ヘヴン/川上未映子』

これは試練なんだよ。これを乗り越えることが大事なんだよ。

『ヘヴン/川上未映子』

「弱者」の紋章を価値あるものと考え、それが原因で虐められようと、試練を耐え忍ぶことに意味があると考えているのだ。弱者を賛美し、苦境そのものに価値を見出す思想だ。

まさにキリスト教の考えであり、ニーチェが批判したところのルサンチマンでもある。

弱者を賛美するルサンチマン

ルサンチマンとは、弱者は「善」であり、強者は「悪」だという価値転倒を表す言葉だ。

例えば、「貧しい者こそ幸福」「現世で苦しんだ者は来世で天国にいける」といった考えだ。

実際にコジマは「僕」の斜視を賛美し、「僕」にだけ与えられた特別な魅力だと主張した。そして、そのせいで虐めを受けようと、耐え忍ぶことに価値があり、最終的には神様が苦しみや努力を理解してくれると信じている。

なにもかもをぜんぶ見てくれている神様がちゃんといて、最後にはちゃんと、そういう苦しかったこととか乗り越えてきたものが、ちゃんと理解されるときが来るんじゃないかって

『ヘヴン/川上未映子』

いわば、現世で徳を積んだ者に与えられる天上の幸福、とでも言えようか。

しかし、このルサンチマンを痛烈に批判したのがニーチェだ。

弱者の賛美は強者に対する憎悪から発生する、しかも来世の救済を願うのは、現世の生を否定し諦めることだ、というのが批判の内容だ。

確かにニーチェの主張にも一理ある。苦しんだ分だけ来世で救われるという考えは、ある種、強者に対する想像上の復讐でしかないからだ。それに福祉の世界では、弱者を弱者と認めることで、彼らの支援を充実させるが、ルサンチマンによって弱者を肯定すれば、彼らは現世において永久に障壁と対峙することになるのだ。

どちらが正解とも言えない。ここで提示したいのは、コジマが強固なルサンチマンの持ち主ということだ。だからこそ、「僕」が斜視の手術を検討した途端、コジマは二度と口を利かなくなる。彼女にとっては、弱者の紋章である「斜視」は賛美すべきものであり、それを手術で治すのは、価値ある試練から逃げ出し、強者に追従することを意味するのだ。

君は、そうしたいなら、目を治して、あの連中に従えばいいと思う。

『ヘヴン/川上未映子』

強いやつらの真似をして、何とか強いやつの側になって、そういう方法で弱くなくなればいいの? そういうことなの? 違うでしょ? これは試練なんだよ。これを乗り越えることが大事なんだよ。

『ヘヴン/川上未映子』

ここまで弱者の賛美が過剰になれば、むしろ個人のエゴになってしまう。「僕」が斜視を治すのは「僕」の自由であり、そこにコジマの主義思想を押し付けるのはナンセンスだ。

しかしコジマがここまで過剰になるのには相応の理由があった。それは両親の問題だ。

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弱者を最後まで憐れむこと

コジマの母親が、貧しい父親と結婚した理由、それは「可哀想に感じたから」だった。しかし結局、母親は貧困に耐えきれず離婚した。

コジマは母親を恨んでいた。しかしそれは父親を捨てたからでも、新しい男と結婚したからでもない。コジマが本当に恨んでいたのは、「最後まで父親を可哀想と思い続けなかったこと」に対してだ。

キリスト教の慈悲、弱者の賛美、それらを途中で放棄したことが許せなかったのだ。

この母親に対する嫌悪感から、コジマは弱者を最後まで憐れむことに強く取り憑かれ、その対象が「僕」の斜視に向けられた。そして「僕」が斜視を治す行為は、彼女にとって自分の信念を否定される結果になり得たのだ。それはコジマにとって裏切りに映ったのだろう。

こうして、弱者同士の共鳴は、思想上の理由から呆気なく崩れてしまった。

「僕」が最後に見たコジマ、それはクラスメイトに酷い虐めを受けた時だった。皆の前でコジマとセックスをすることを強要されたのだ。「僕」は必死で抵抗した。あと一歩でクラスメイトを石で殴りつけるところだった。しかしその手をコジマが抑え、そして彼女は自ら皆の前で服を脱ぎ、不敵な笑みを浮かべていた。

右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ

彼女は最後まで、苦しい試練の価値を信じ、それを乗り越えた先の救済を夢見ていたのだ。

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百瀬のニーチェ的ニヒリズム

このようなコジマの思想に対し、真逆の考えを持つのが、虐める側に属する百瀬だ。彼の思想こそ、ニーチェ的なニヒリズムである。

ニーチェのニヒリズムに代表される言葉といえば、「神は死んだ」である。

古代の西洋では、神は絶対的な存在・真理であり、善悪の基準や、道徳の価値を司っていた。だが人類は自然科学によって、地動説や進化論など、神の絶対性を覆す答えを見つけ出した。その結果、絶対的な善悪、絶対的な基準、絶対的な価値は崩壊していったのだ。

それは相対主義といった概念とも繋がる。例えば戦争においては、それぞれの国の大義名分があり、それぞれの正義がある。このように、善悪などは、時代・状況・立場によって変化するし、故に絶対的な善悪などは存在しないというわけだ。

そんなニヒリズムな百瀬は、虐めにも善悪は存在しないし、単なる偶然の結果に過ぎないと考えている。つまり、「僕」が虐められるのは偶然で、虐める側は悪とか、それを耐え忍ぶ側は善とかはなく、そもそも全ての物事に意味なんてない、と言うのだ。

それに対して「僕」は、絶対的な善悪の存在は分からないが、人間的な心、つまり良心の呵責や同情といった気持ちはあるだろう、と反駁する。その例として、自分がされたら嫌なことは他人にしない、という人間の善の心を訴える。

しかし百瀬は、人間は自分がされたら嫌なことを平気で他人にするものだ、と一蹴する。例えば、父親は自分の娘が売春をしたら悲しむが、他人の娘が出演するアダルト動画を観るし、他人の娘が売春をする店に行く。つまり、自分の娘に対しては善の心が働くのに、他人の娘に対してはむしろ悪に加担しているのだ。まさに相対主義の実例である。

このような相対主義の末路が、強いものが弱いものを叩く社会であり、虐めそのものなのだ。そして叩かれたくなければ叩き返せ、と百瀬は言う。コジマが信じる、右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ、と真逆の考えだ。

なぜ百瀬がここまで徹底したニヒリズムを持っているのかは判らない。

一つ判っているのは、百瀬はいつもプールの授業を見学しており、病院に通院している。その理由は最後まで明かされないが、彼の背景には何か苦悩があり、その弱さが過剰なニヒリズムに繋がっているのかも知れない。

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斜視を治した先の世界

コジマとの離別を経験した後、「僕」は斜視の手術を受ける。そして生まれ変わった目で、十二月の並木道を眺める。

世界にははじめて奥ゆきがあった。世界には向こう側があった。僕は目をみひらき、渾身のちからをこめて目をひらき、そこに映るものはなにもかもが美しかった。

『ヘヴン/川上未映子』

斜視だった頃の「僕」は、奥行きが掴めず、物体との距離の取り方が下手だった。それは実際的な視野の問題と同時に、彼の精神的な部分ともリンクしている。

「僕」には個人的な哲学がなく、コジマの考えに圧倒させられたり、百瀬の考えに翻弄されるだけで、自分がどうしたいのか、という思いが欠落していた。とりわけ、「逃げることは負けだ」「試練を乗り越えることが大事だ」「斜視を治すのは強者に追従することだ」というコジマの考えは、少なからず「僕」の精神を束縛していた。

その思想が間違いとは誰にも断言できない。もしコジマにとって支えになるなら、それはきっといいことなのだ。しかし「僕」には「僕」の苦痛があり、「僕」には自分の目で見て選ぶ権利がある。

斜視を直し、世界の奥行きを知った時、「僕」は初めて自分の目で見える世界に一歩を踏み出したのかも知れない。

「ヘヴン」に込められた意味

タイトルの「ヘヴン」は、コジマが好きな絵に由来する言葉だった。

その絵についてコジマは、「辛いことを乗り越えた恋人が、二人でいる部屋、そこがヘヴン」だと説明する。そしてコジマは「僕」をヘヴンに連れて行きたいと話していた。

ふたりが乗り越えてたどりついた、なんでもないように見えるあの部屋がじつはヘヴンなの

『ヘヴン/川上未映子』

しかし実際に美術館に訪れた二人は、ヘヴンの絵を鑑賞する前に帰宅する。それは物語の終盤で二人の関係が拗れ、ヘヴンにたどり着けない運命を示唆していたのかも知れない。

一方で、二人は文通の中で、1999年、二十二歳になった頃、お互いがどこで何をしていようと、会おう、という約束を交わしていた。

果たして二人が再会できたのかは判らない。もしその時までに、お互いが自分のやり方で苦境を乗り越え、そうして再会できたなら、そこが本当の「ヘヴン」なのかも知れない。

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