井伏鱒二の『山椒魚』あらすじ考察 頭でっかちな人間は出口を失う

山椒魚 散文のわだち
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井伏鱒二の小説『山椒魚』をご存じですか?

1929年に発表された短編小説で、現在でも国語の教科書に採用され広く親しまれる名作です。「山椒魚が岩屋から出れなくなる話」と聞けば、汗ばんだ教室の風景が蘇るのではないでしょうか。

井伏鱒二の最初に発表された作品ですが、60年余りの作家人生で何度も加筆修正されています。原型は1923年に発表された『幽閉』という小説であり、それが改稿されて『山椒魚』というタイトルになりました。その後も多くの変更が加えられています。作家としての原点であると同時に、生涯彼の人生に尾を引いたテーマが描かれているということでしょう。

ちなみに後年に結末の数行が削除されるなど、大幅な変更が施され議論を呼んだことでも有名です。今回は結末削除前の作品を基にあらすじ考察を行います。

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『山椒魚』の作品概要

作者井伏鱒二(いぶせ ますじ)
発表時期1929年(昭和4年)
ジャンル短編小説、寓話
テーマ人間社会の風刺
作者自身の孤独

『山椒魚』 のあらすじ

谷川の岩屋に住む山椒魚は、ある時自分が岩屋の外に出られなくなっていることに気づきます。住処に閉じこもって過ごしているうちに、二年の年月が経過し、体が成長したがために頭が出入り口につっかえるようになったのです。

ろくに動き回ることもできない狭い岩屋の中で、山椒魚は自らの惨めな境遇に対して虚勢を張ります。それどころか、集団で移動するメダカたちの滑稽な右往左往に、なんて不自由な生き物だろうと、自身の状況を棚に上げて他者を嘲笑する始末です。無論、外に出る手段は一切思い浮かびません。

ある夜、岩屋のなかに小海老が紛れ込んできます。山椒魚を岩石と勘違いして卵をうみつけているようです。しきりに物思いにふけっている小海老の様子を見て、「屈託したり物思いに耽ったりするやつは莫迦だ」と山椒魚はまたしても他者を嘲笑します。

いよいよ自身の境遇に焦りを感じ始めた山椒魚は、何度も外へ出ようと試みますが、全てが徒労に終わり、遂には涙を流して神に嘆きます。

「ああ神様! あなたはなさけないことをなさいます。たった二年間ほど私がうっかりしていたのに、その罰として、一生涯このあなぐらに私を閉じ込めてしまうとは横暴であります。私は今にも気が狂いそうです。」

『山椒魚/井伏鱒二』

山椒魚は目蓋の裏の暗闇に没頭し、「寒いほど独りぼっちだ」と言ってすすり泣きます。

ある日、岩屋に蛙が飛び込んできます。自身の惨めな境遇のあまり悪心を抱いた山椒魚は、 蛙を岩屋の外に出られないようにします。どうせ救われないなら他者も道連れにしようと企んだのです。閉じ留められた蛙は岩屋内の窪みに逃げ込み、 虚勢を張ります。二匹ともが外に出られず、互いにいがみ合ったまま1年が過ぎ、2年が過ぎました。

長い年月の末に、蛙の深い嘆息を聞いた山椒魚は、もう降りてきてもいいと和解を呼びかけます。しかし蛙は空腹で動けず、既に死期を悟っていました。

自身の惨めな境遇に巻き込まれた蛙に対して、 山椒魚は 「お前は今何を考えているようなのだろうか」と尋ねます。すると蛙は「今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ」と答えるのでした。




『山椒魚』 の個人的考察

山椒魚は孤独な知識人の末路!?

二年間岩屋にこもっていた結果、体が大きくなり、頭がつっかえて外に出れなくなってしまった山椒魚でした。これはもちろん寓話であり、思弁家の人間を揶揄した物語でしょう。

自分の殻にこもって、あれやこれや考えをめぐらし、知識をため込み過ぎると、結果的に自分の身を滅ぼすことになるという教訓が記されていたのかもしれません。

事実、山椒魚は閉塞された状況であっても、メダカの群れた行動を嘲笑したり、物思いに耽った小海老を馬鹿にします。本当はメダカや小海老の方が自由に移動し、外の明るい世界を堪能しているのです。山椒魚は単に体の成長によって外に出れなくなったのではなく、彼らを小馬鹿にすることで自らの行動を制限し、結果的に身動きが取れない状況になっていたのでしょう。頭がつっかえるという描写も、頭でっかちな様子をユーモラスに描いているのだと思われます。

最終的には神様に嘆き、「寒いほどひとりぼっちだ!」と惨めな状況を露呈する羽目になります。ある意味、芸術家特有の内省的な性格を象徴しているようにも感じられます。ともすれば、小説家である自らの境遇を山椒魚の嘆きによって表現していたのかもしれません。

蛙の存在は何を象徴していた?

今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ

この最後の一文にぐっと胸を掴まれた読者も多いのではないでしょうか。一般的な学校教育では、最後に山椒魚と蛙が和解した、という考察によって美談にすり替えられることが多いです。ところが、「今でも」という言葉が象徴するように、蛙は初めから横暴な山椒魚に腹を立てたりはしていなかったのです。むしろ、惨めな山椒魚の境遇を哀れんでいたとも考えられます。

事実、井伏鱒二は後年に最後の一文を削除し、次のような文章にすり替えます。

更に一年の月日が過ぎた。
二個の鉱物は、再び二個の生物に変化した。
けれど彼等は、今年の夏はお互い黙り込んで、
そしてお互いに自分の嘆息が相手に聞こえないように注意してゐたのである。

『山椒魚/井伏鱒二』

一説では、山椒魚と蛙が和解したと捉えられることを作者が嫌って、意図的に匹の険悪な状態を継続させたと言われています。ともすれば、哀れな山椒魚に心の救いを与えるという意図は初めからなかったのかもしれません。

蛙が最初から怒っていなかったという結末は、見方を変えれば山椒魚の惨めさを助長させる効果があります。自らの哀れな境遇のあまり蛙を陥れた結果、その蛙にまで哀れに思われる山椒魚は救いようがないほど惨めでしょう。空腹のために蛙は死期が近づいていますが、依然として山椒魚は生き続けることが予感されます。蛙が死んで、再び寒いほどの孤独に逆戻りした時の山椒魚の後悔と罪悪感を想像すれば、強情な人間がいかなる結果を招くか明確ですね。

こんな風に考察すれば、 「寒いほど独りぼっちだ」 という言葉がより生々しく感じられませんか?

読書感想文

本作『山椒魚』を大人になって再び読んでみると、「これは自分の物語だ!」と感情移入してしまう人も多いのではないでしょうか。私も例外ではなく、山椒魚の頭でっかちな様子を自己に投影させて、侮辱されているような気分にさえ陥りました。

児童文学版の『山椒魚』も存在し、なぜか私はそちらの印象が強く残っており、当時は山椒魚が岩屋から出れなくなる境遇を滑稽だとしか感じませんでした。あるいは通常の『山椒魚』を読んだ思春期においても、それほど深刻な物語とは受け取りませんでした。今思い返せば、その頃の自分は岩屋の内外を自由に行き来できる身であったということでしょう。それからしばらく、自己という殻の内側にこもる楽な生き方を覚えた我々は、気づかないうちに観念的な獣をぶくぶくと太らせ、遂には出口を失ってしまったのです。村上春樹は『1973年のピンボール』という作品で、「物事には入口と出口が存在するが、例外もある」と綴りました。つまり、出口を失った者の惨めな境遇は「寒いほどの孤独」であり、大抵は我々も山椒魚なんですよ。

とは言え、自分にとっては身動きの取れない小さな出入口だとしても、他者にとっては自由に行き来できる出入口の場合もあります。例えば、蛙が迷い込んできたように。その時に我々は侵入者とどう向き合うべきなのか。場合によっては、別の出口が見つかるのかもしれません。なぜなら入口が一つであっても、出口は一つとは限らないのですから。別のドアをノックしろ!

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以上、井伏鱒二の『山椒魚』のあらすじ考察を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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