ホフマン『砂男』あらすじ解説|砂男と自動人形と火の意味を考察

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sandman (2) ドイツ文学

小説『砂男』は、19世紀のドイツの作家ホフマンの代表的な怪奇小説である。

子供の目玉を奪いに来る「砂男」に怯え、精神的に狂っていく青年の物語が描かれる。

また物語の後半では、青年が「自動人形」の女性に恋するという、いささか不気味な展開になるのだが、これらは一体何を意味するのか。

そこで本記事では、あらすじを紹介した上で、「砂男」「自動人形」に注目し、青年が精神的に狂った原因を考察していく。

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作品概要

作者  E.T.A.ホフマン  
ドイツ
発表時期1817年
ジャンル短編小説
怪奇小説
ページ数63ページ
テーマ少年時代のトラウマ
エディプスコンプレックス
潜在意識と関連妄想

あらすじ

あらすじ

ナタナエルは幼い頃に母親から、夜ふかしをする子供の目玉を奪いに来る「砂男」の存在を聞かされていた。のちに作り話だと打ち明けられるが、しかしナタナエルには、実際に夜中に砂男が階段をのぼる足音が聞こえ、父親の部屋に入っていく気配が感じられる。

ある夜、砂男の正体を確かめるべく、父親の部屋に隠れていると、その正体は弁護士のコッペリウスだった。コッペリウスに目玉を奪われそうになったナタナエルは気を失う。後日、再びコッペリウスが訪れると、父親の部屋で謎の爆発が起こり、父親は焼死し、コッペリウスは行方不明になる。

青年になったある日、下宿先にコッペリウスに似た商人コッポラが現れる。コッペリウスが名前を変えて襲いに来たのだと思ったナタナエルは、少年時代のトラウマが蘇り精神的に病んでいく。そこで、一時的に恋人クララの元へ帰省する。クララは、ただの思い込みだと説得するが、ナタナエルは気が触れたみたいに妄言を口走り、喧嘩が絶えない。

下宿先が火事になり、新居に移り住むことになる。そこへ再び商人コッポラが現れ、望遠鏡を売りつけられる。その望遠鏡で向かいの家の娘オリンピアを眺めているうちに恋に落ちる。彼女の家のパーティに招かれたナタナエルは、オリンピアとダンスを踊り、いっそう惚れ込む。オリンピアは「ああ、ああ」と不可解な言葉しか喋らず、目に感情が宿っていないので、人々は気味悪がっているが、それでもナタナエルは夢中だった。

求婚を決意してオリンピアを訪ねると、彼女が「自動人形」だと発覚する。ナタナエルは正気を失い、「火の輪よまわれ!」と発狂して失神する。

意識が戻ったナタナエルは、恋人クララに介抱されたことで、彼女への愛情を取り戻す。そして2人で見晴らしのいい塔に登り、景色を眺めていると、商人に売り付けられた望遠鏡がポケットに入っていた。その望遠鏡を覗いた瞬間に再び正気を失い、クララを塔から投げ落とそうとする。駆けつけた兄によってクララは救出されるが、ナタナエルは自ら飛び降りて死ぬ。集まった群衆の中にはコッペリウスの姿があった・・・

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個人的考察

個人的考察-(2)

作者ホフマンについて

『砂男』の作者ホフマンは、19世紀のロマン主義文学を代表する、ドイツの作家である。

E・T・A・ホフマン自画像

ロマン主義文学とは、ざっくり言えば虚構の文学である。人間の精神面に注目して、現実にはあり得ない神秘体験を描いたりする。

その中でもホフマンは、幻想小説・怪奇小説を得意とし、現実と幻想が入り混じった奇々怪々な作風が特徴である。その世界観が気持ち悪く感じる人もいるだろうし、実際に『砂男』はかなり不気味だ。

そんなホフマンの小説の多くは、バレエ曲の題材になっている。『砂男』を題材に「コッペリア」が作られ、『くるみ割り人形とねずみの王様』を題材に『くるみ割り人形』が作られた。

また『牡猫ムルの人生観』では、人間の言葉を話す猫を通じて人間社会を風刺する、当時では斬新な設定を描いたのだが、これを元に約百年後の日本で、猫の視点で人間社会を風刺する夏目漱石の『吾輩は猫である』が生まれたと言われている。

ともあれ、『砂男』に見られる、ホフマンの不気味な作風は、非常にドイツ文学的と言える。それはドイツ文学の巨匠ゲーテに始まる、人間の精神面を追求した作風の系譜であり、またカフカの超現実的で不気味な作風へと受け継がれているように思う。

『砂男』が人間の精神面を追求した小説だとすれば、砂男に怯えて発狂する主人公の精神状態は何を表しているのだろうか。

次章では、フロイトの精神分析を用いて詳しく考察していく。

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砂男(ザントマン)について

引用:Wikipedia

『砂男』の物語は、大きく分けて二部構成からなる。前半部分では「砂男」なる不気味な存在に怯えるナタナエルの少年時代が描かれる。

この砂男は、ドイツ民謡で知られる「ザントマン」に由来する。「ザントマン」は英語に翻訳すれば「サンドマン(砂男)」になる。

ザントマンは睡魔の妖精で、夜ふかしする人々の目の中に砂を投げ込み、すると人々は目を開けられなくなり眠ってしまう、という日本における妖怪のような存在だ。ドイツでは夜更かしする子供に「ザントマンがやってくるぞ」と怖がらせて寝かしつける習慣があった。

しかし、ホフマンの「砂男」は、人々を眠らせる存在ではなく、人々から目玉を奪い取る存在として描かれる。本来、砂男は目の中に砂を投げ込み、そのせいで目を開けられるなくなった状態を、睡眠と結びつけている。ところがホフマンの場合は、目の中に砂を投げ込む行為は、まぶたを閉じさせるどころか、目玉が血まみれになって肉体から飛び出してしまうのだ。

この、砂男によって目玉を奪われる行為は、一体何を表現しているのか。

フロイトの研究によると

精神分析学者のフロイトは、論文『不気味なもの』において、ホフマンの『砂男』を、エディプスコンプレックスと関連づけている。

エディプスコンプレックスとは、男根期の子供が母親に性愛感情を抱き、それが父親の存在によって達成されないことへの潜在的な嫉妬を指す。同時に子供は、競争相手である父親から去勢される恐怖を感じる。いわば子供は成長過程において、母性を取り合って父親に嫉妬し、自分を損なう存在として父性に恐怖を感じるようにできているのだ。

主人公ナタナエルにとって父親は、テーブルにどっしりかまえてタバコを吸う、威厳ある父性の象徴だった。そして夜の九時になると、なぜか母親は悲しげな顔をして、早くベッドに行かないと砂男が来るわよ、とナタナエルを寝かしつける。そしてナタナエルが眠った後、父母二人だけの時間が始まる。それは子供にとって、母親に対する性愛感情を父親に奪われるエディプスコンプレックスを意味する。

そしてナタナエルにとって、母親との性愛関係を裂く直接的な要因は「砂男が来る」という事象に起因しており、ゆえに砂男は父親の分身とも言える。砂男の正体は弁護士のコッペリウスだと判明するが、彼が夜毎に父親の書斎に入っていくことからも、ナタナエルは、父親の厳しい父性を具現化した存在として、コッペリウスを砂男になぞらえていると考えられる。

そして、砂男が目玉を奪いに来るという強迫観念は、エディプスコンプレックスにおける、父親に去勢される恐怖感を表していると、フロイトは主張している。

もっとも去勢の不安は成長に伴い、現実にはあり得ないことだと無意識化に抑圧されるようになる。こうしてエディプスコンプレックスを克服した子供は社会に飛び立つのだが、しかしフロイトによると、ふとしたきっかけで再び意識し、不安に駆られることがあるようだ。

まさしく青年期になったナタナエルは、下宿先にコッペリウスそっくりの商人コッポラが訪れたことで、砂男の恐怖感が蘇り、精神的に病んでいく。それは少年期のトラウマとも言える去勢の不安(砂男に目玉を奪われる不安)が、ふとしたきっかけで再発した結果に他ならない。

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ナタナエルの心理的な関連妄想

商人コッポラに遭遇したことで、砂男の恐怖が再発したのだが、それらは全てナタナエルの関連妄想(幻想)と言って差し支えない。

恋人のクララは、ナタナエルに宛てた手紙に次のように記している。

あなたが口になさっている恐ろしいことというのは、ただあなたの心の中だけの問題であって外の世界とほとんど関係がないのではありますまいかい。

『砂男/ホフマン』

その証拠に、コッペリウス(砂男)そっくりの商人は、実際は別人のコッポラなる人物だと判明する。ナタナエルがコッポラをコッペリウスに見紛ったのは、少年時代のトラウマが彼に関連妄想を起こさせたからに他ならない。

そもそも砂男という架空の存在を、コッペリウスに見立てたのも、彼が自分に対して嫌がらせをする老人だったことが原因で、つまり自分を損なう(父性的な)存在のコッペリウスを、関連妄想で砂男と思い込んでいたのである。

いわばナタナエルの見ている世界は心中の虚構であり、現実を見る目を失っているのだ。その状態はある意味、砂男によって(現実を見る)目玉を奪われた状態を暗示している。

物語の冒頭では、不吉な運命が雲のようにナタナエルの頭上を覆い、太陽の光を通さず、色彩が失われていると記される。それはつまり、ナタナエルが暗闇の中にいて、外部の世界を見ることができない盲目な状況であることを表している。ゆえにナタナエルは、砂男やコッペリウスなど、心中の強迫イメージを、現実世界に投影させて、無関係のコッポラをコッペリウスだと思い込んだりしているのだ。

そして心中の虚構を現実に投影させる役割を最も担っているのが、商人コッポラに売りつけられた望遠鏡である。

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望遠鏡と自動人形について

商人のコッポラが新居に訪れた際に、彼は机の上に大量の眼鏡を並べ、それを「目玉」と呼んでナタナエルに売りつけようとする。ナタナエルにはそれが燃え上がる眼差しに感じられ、気味が悪くて断るのだが、唯一普通に見えた望遠鏡を買うことになる。

そして、その望遠鏡で向かいの家の娘オリンピアを見た瞬間に、彼女の目に火が灯ったように見え、その美しい風貌に恋に落ちる。

ところがオリンピアが自動人形だと発覚し、その自動人形から外れた目玉を投げつけられた瞬間に、ナタナエルは狂気の炎に包まれ、「火の輪よ回れ!」と叫んで気を失う。

当初、砂男に対する恐怖感に始まった物語が、後半部分で急に自動人形を生身の人間と勘違いして恋に落ちる、という不可解な展開をなすのだが、これも心中の虚構を現実に投影させるナタナエルの関連妄想の結果である。

ホフマンの小説は、望遠鏡や鏡といった小道具を通じて、現実と虚構が反転する構造が頻繁に使われる。つまりナタナエルが望遠鏡越しに見た世界は、現実と虚構が反転しているのだ。ゆえにナタナエルは自動人形に対して、心中の美女を投影させ、生身の人間と思い込んで恋に落ちてしまったのだ。

また物語の終盤では、恋人のクララに対する愛情を取り戻し、彼女と見晴らしのいい塔に登るのだが、そこでふと望遠鏡越しにクララを見た途端、彼女を木の人形だと勘違いし、発狂してクララを塔から突き落とそうとする。

これは自動人形を生身の人間に思い込んだのとは反対に、生身の人間を自動人形と思い込んだ結果である。このように、望遠鏡越しに見た世界は、現実と虚構が反転してしまうのだ。

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火がもたらす災い

作中では、災いの予兆として、火に関する表現が繰り返し登場する。それは少年時代にナタナエルが見た、父親とコッペリウスの奇妙な会合に端を発している。

少年時代のナタナエルは、砂男の正体を確かめるべく父親の部屋に忍び込んだ。すると父親とコッペリウスが炎を灯した炉の中で、何やら作業をしていた。そしてコッペリウスは炎の中から目玉のようなものを取り出し、それをナタナエルの目に押し込もうとする。これも砂男が目玉を奪うことに対する恐怖感が生み出した、ナタナエルの幻想だと思われる。

実際に二人が火を使って何をしていたのかは、恋人クララの推測通り、錬金術の実験だと考えられる。しかしナタナエルにとっては、火と目玉(砂男)を結びつける決定的なトラウマとなったため、それ以来、火は災いの前兆として繰り返し登場する。

青年になったナタナエルが、コッペリウスに似た商人コッポラに遭遇したことでトラウマを再発させ、恋人クララのもとに帰省した際に、彼女はこんなセリフを口にする。

あなたの目をじっと見つめて拝聴しなくてはならないとしたら、珈琲は煮溢れる、朝食は抜きってことになりますよ!

『砂男/ホフマン』

狂気に取り憑かれたナタナエルの視線には、珈琲を煮溢れさせるだけの火が灯っており、これから起こる災いの予兆になっている。そしてクララと別れて下宿先に戻ると家が火事で燃えており、ますます災いの予兆は強まる。

その後、コッポラが眼鏡を売りに来た際に、その眼鏡から「燃え上がる眼差し」を感じてナタナエルは気味が悪くなる。最終的に彼は望遠鏡を買うことになる。その望遠鏡で向かいの家の娘オリンピアを見ると、彼女の目に火が灯っており、その美しい風貌に一目惚れする。災いをもたらす火は、ある面では恐ろしく、ある面では魅力的に見えるのだ。

そして、これら一連の火にまつわる予兆は、オリンピアが自動人形だという事実、その自動人形から外れた目玉を投げつけられ、狂気の炎に包まれて発狂する事態に帰結する。発狂したナタナエルが「火の輪が回る!」と叫んでいたのも、火がもたらした災いの結果と言える。

ナタナエルにとって火は一種の関連妄想の装置として機能し、その火によって精神を発狂させたのだ。

ちなみに、目玉や望遠鏡などの視覚道具が、火と結びついているのは、レンズの素材であるガラスが、砂を燃やして生成されるからだろう。

そう、火と砂を掛け合わせることで、レンズという名の目玉が誕生するのだ。そのレンズ越しに見る「燃え上がる眼差し」の先には、少年時代のトラウマに端を発する狂気的な虚構が広がっていたのだと思われる。

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最後にコッペリウスが現れた理由

自動人形の一件で正気を失ったナタナエルは、クララの看病で回復するのだが、彼女と見晴らしのいい塔に登った際に、ふと望遠鏡を覗いたことで再び正気を失い、クララを塔から投げ落とそうとする。

幸いクララは彼女の兄によって救出されるが、一方のナタナエルは自ら飛び降りて死ぬ。

ナタナエルは飛び降りる直前に、群衆の中にコッペリウスを発見している。そして、それが引き金となって飛び降り自殺を図る。

実際に群衆の中にコッペリウスが存在したのは定かではない。この物語はナタナエルの友人という第三者の客観的な視点で語られるにもかかわらず、たびたびナタナエルの主観が入り込んでくる。既に命を落としたナタナエルが、飛び降りる直前にコッペリウスの存在を発見したなどは、当人にしか知り得ないことであり、それを第三者の友人が語るなどあり得ない。

そのため、群衆の中にいたコッペリウスは、ナタナエルが心中で生み出した幻覚と考えることができるし、個人的にはそう思っている。

ナタナエルが少年時代に経験した、砂男による眼球不安は、コッペリウスによって引き起こされたものであり、それは彼の妄想に過ぎないのだが、青年期になってもトラウマとして深層心理に残り続けていた。ゆえにナタナエルはコッペリウスを恐れながらも、コッペリウスがいずれ自分を損なう存在でなければいけないという強迫観念に取り憑かれていたのだと思う。

これは芥川龍之介の『歯車』という作品との関連性が見られる。『歯車』の主人公は、人から「レインコートを着た幽霊」という心霊話を聞いたことで、至る場所にレインコートを着た人間を発見するようになり、それは自分の死を暗示するものとして機能していく。

同じくナタナエルには、コッペリウス(砂男)の存在が絶えず付きまとっていた。その存在が暗示する破滅の運命にナタナエルは潜在的に引っ張られ、飛び降り自殺という結果に至ったのではないか。

精神分析学者のフロイトは、「抑圧されたものの回帰」という概念を提示している。例えば、アル中で暴力的な父親を持つ子供は、父親の存在を無意識下に抑圧して排除しようとするが、大人になってから自分もアル中で暴力的になる傾向にある。無意識下に抑圧したものは、あるタイミングで表層に回帰してしまうのだ。

ナタナエルの場合も、少年時代に無意識下に抑圧したコッペリウス(砂男)の存在が、青年になって回帰したことで、身を滅ぼすことになったのだと考えられる。

最後にコッペリウスが本当に存在したかはさして重要ではない。ナタナエルが砂男のトラウマに回帰して死んだ結末は、深層心理で導かれた運命だったということが、この物語の最も重要なテーマではないだろうか。

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