村上春樹の作品『1973年のピンボール』は、『風の歌を聴け』に続く2作目の小説です。
前作で描かれた「僕」と「鼠」の物語が続編的に再び描かれています。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 村上春樹 |
発表時期 | 1980年(昭和55年) |
ジャンル | 長編小説 |
ページ数 | 149ページ |
テーマ | 死生感 青春の喪失感 |
あらすじ
1973年、翻訳事務所で生計を立てる「僕」は、ひょんなことから双子の女の子と共同生活を始めます。平凡な労働と奇妙な共同生活の中、そこはかとない孤独を抱える「僕」は、ある時ピンボールに心を捕われます。1970年にジェイズ・バーで鼠が好んでプレイしており、その後「僕」も憑りつかれたように夢中になった過去がありました。主人公は、当時プレイしていた「スペースシップ」と呼ばれる台を捜し求めるのでした。
一方、鼠は1970年に大学を辞めて以来、ジェイズ・バーに通って、厭世的で堕落した日々を送っていました。1973年に、鼠は設計事務所で働く女性と関係を持ちますが、彼はそのことで酷く悩んでいるようでした。あらゆる蟠りに囚われた鼠は、ジェイズ・バーでの最後のビールを飲んで、この街を出ていく決心をするのでした。
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個人的考察
デビュー間もない頃の小説は初期三部作、鼠三部作として括られることがあります。主人公「ぼく」の並行世界で描かれる物語になっています。
あるいは、『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』など、後の作品へと引き継がれる設定も多く含まれています。
ちなみに本作は芥川賞候補に選ばれましたが、受賞はしませんでした。
『ノルウェーの森』の直子の存在
「直子」と言えば、代表作『ノルウェイの森』で、精神病により自殺するヒロインでした。『1973年のピンボール』においても、同一の存在だと思われる直子が登場します。
1969年に20歳だった「僕」は、直子から故郷の街についての話を聞いていました。それから4年が経過した1973年に、「僕」は実際に彼女の故郷に足を運んでいます。帰りの電車では「全ては終わっちまったんだ、もう忘れろ」と自分に言い聞かせており、直子が既に死んでいる事実が記されます。
つまり本作を通して「僕」が抱える、そこはかない孤独の正体は、直子の死に起因する後悔やトラウマだと考えられます。
部屋に住み着いた双子が、ビートルズの『ラバーソウル』のレコードを再生する場面では、「僕」は気分が浮かない様子でした。『ラバーソウル』には『Norwegian Wood(ノルウェーの森)』という楽曲が収録されています。
要するに村上春樹にとって、「直子」という女性と「ノルウェーの森」という楽曲は、この頃から既に結びついたのでしょう。それを後に長編の物語『ノルウェイの森』として具現化させたのだと推測できます。
ピンボールは直子のメタファー
直子の死による悲しみが尾を引く日常の中で、「僕」の心を捉えたのはピンボールでした。
かつてジェイズ・バーで鼠とビールを飲んでいた1970年の夏には、「僕」はそれほどピンボールに熱中していませんでした。どちらかと言うと鼠の方が、92500点というハイスコアを叩き出すくらい夢中になっていました。
ところがその年の冬に、「僕」は東京のゲームセンターで取り憑かれたように「スペースシップ」というピンボール台に夢中になります。鼠のスコアを上回る15万点を叩き出すほど気狂いのように熱中していました。その頃の出来事を「暗い穴の中で過ごしたような気がする」と表現していました。直子の死による悲しみから逃避するために、ピンボールにのめり込んでいたことが推測できます。
ところが、ゲームセンターはドーナツ屋さんに建て替えられ、「スペースシップ」の行方は判らなくなってしまいます。1973年に再びピンボールに捕らえられた「僕」は、行方の判らなくなった「スペースシップ」を見つけ出し、テレパシーのような会話を交わします。
「僕」が「スペースシップ」を「彼女」と呼んでいることから、死んだ直子のメタファーであることが判ると思います。
つまり、『1973年のピンボール』の本筋とは、1970年に直子が死んだ悲しみを払拭できない「僕」が、1973年に彼女の幻影と遭遇し、ようやく彼女の死を受け入れて、悲しみを克服する物語だと言えるでしょう。
ピンボール台との会話に鉤括弧が使われない点からも、いわゆる現実世界での会話ではなく、現実世界と死の世界を跨いだ会話であることが考察できます。
スコアを汚したくないがために、改めてスペースシップをプレイしないと宣言する「僕」からは、直子の死を過去の出来事だと受け入れ、現在を生きようとする決心が感じられます。この三年間の暗い穴での生活を克服し、彼女との別れを受け入れることができたのでしょう。
双子がいなくなった部屋で、自らビートルズの『ラバーソウル』を聴いている場面で物語が幕を閉じるのも、既に「僕」が直子の不在による悲しみを克服している様子が想像されます。
双子の存在
物語は奇妙な双子との共同生活に始まり、彼女たちが部屋を去っていくことで完結します。名前もなければ、二人の区別もできず、果たして現実の人間であるかも疑わしいくらいです。
双子は孤独な「僕」の部屋にやって来て、直子の死による悲しみを克服した途端に部屋を去っていきます。彼女たちは物語に展開をもたらすわけではありませんが、主人公の心情の変化を象徴する存在として非常に重要です。
双子はいわゆるピンボールの左右のフリッパーを象徴していたのではないかと考察できます。つまり、孤独に囚われた「僕」というピンボールが、暗い穴に沈まないように、双子というフリッパーによって弾き返していた、という解釈です。
克服によってこれ以上「僕」が落下することがなくなったために、双子はフリッパーとしての役割を終え、部屋を去っていったのだと考えられます。
配電盤の役割
謎多き物語の中で、配電盤の存在も非常に印象的でした。
早朝に工事の人が部屋にやって来て、配電盤を古いものから新しいものへと取り替え、古いものを回収し忘れて部屋に置いていってしまいます。配電盤とはそもそも、電話を繋ぐ大元の装置であり、人と人とが言葉を交わすための中核を担う存在です。
過去に同じアパートの住人の女性にかかってくる電話を取り次いでいた「僕」は、ある種の配電盤として、人と人とのコミュニケーションを繋いでいました。
ともすれば、古くなった配電盤を貯水池に投げ入れて葬るという描写は、主人公と誰かの人間関係が壊れてしまったことを示唆しているように思われます。
一つ目に、直子との関係があげられます。文中では配電盤の交換の目的を「ハードウェアとソフトウェアの統一」と表現しています。古い配電盤のままではハードウェアとソフトウェアに齟齬が生じ、信号が正しく送受信できなくなるわけです。つまり、直子という過去の存在に囚われて古い信号を送り続けていては、エラーが生じるため、いい加減アップデートしなさい、と工事の人に言われていたのでしょう。
ともすれば、「配電盤の葬式=直子との決別」だと考えられます。
二つ目に、「僕」と「鼠」の関係に亀裂があったのではないかと考察できます。本作における1973年の世界では、「僕」と「鼠」が現実世界で交流することは一切なく、本当の意味でのパラレル(平行)として描かれます。二人の関係に亀裂があった故に、交わることのない平行線で描かれていたのかもしれません。主人公が口にする「欲しいと思ったものは何でも必ず手に入れてきた。でも、何かを手に入れるたびに別の何かを踏みつけてきた。」「三年ばかり前にそれに気づいた」という言葉が非常に印象的です。三年前と言えば、夏にジェイズ・バーで鼠とビールばかり飲んでいた1970年です。『風の歌を聴け』では、鼠が恋をしている相手とは知らずに、「僕」は四本指の女性と関係を持ってしまっていました。もしかするとそのことが後々発覚して、鼠との関係が一時的に拗れていたのかもしれません。
鼠は死んでしまったのか?
本作の終盤で鼠がジェイズ・バーで中国人のジェイに別れを告げて、街を去ろうとする描写が記されています。これは鼠が自殺したことを想起させる、という考察も存在します。
物語の冒頭では、「大抵の物事には入り口と出口がある」という文章が記されます。ところが例外として、鼠取りのように出口のないものが挙げられます。さらにはアパートに仕掛けた鼠取りに小さな鼠が引っ掛かり、4日目の朝に死んでいたという描写が綴られます。
もちろん、ここで記される「鼠」とは動物のことを指します。ただし、当然登場人物の鼠を想起させますし、ジェイズ・バーで女性について悩み続けている鼠は殆ど出口のない闇の中に陥っているようでした。ともすれば、冒頭の表現が示唆するように、ジェイズ・バーで別れを告げた鼠は、出口を見つけられないまま死んでしまったのか・・・?
その真相は、自作『羊をめぐる冒険』を読んで確かめてみてください。
映画『風の歌を聴け』
3部作の第1作『風の歌を聴け』は1981年に映画化された。
原作との相違点は多いが、映画の世界観が村上作品の雰囲気と絶妙にマッチしている。
ロケに使われた「ジェイズ・バー」は、ファンの巡礼地として神戸に残っている。
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