遠藤周作『イエスの生涯』あらすじ解説|キリストの伝記小説

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イエスの生涯 散文のわだち

遠藤周作の作品『イエスの生涯』は、遠藤独自のキリスト像を描いた伝記小説です。

貧しい大工のイエスが、やがてゴルゴダの丘で十字架にかけられるまでの経緯が語られます。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者遠藤周作
発表時期  1973年(昭和48年)  
ジャンル長編小説
伝記小説
ページ数264ページ
テーマ同伴者イエス
愛のメシア

あらすじ

あらすじ

貧しい大工だったイエスが、預言者ヨハネの元を訪ねることで物語は始まる。

当時のユダヤ人はローマに支配されており、ユダヤ教の主流派はローマに妥協したグループになっていた。その中で主流派から追放されたグループ、あるいは反ローマの感情を持つ人々は、ヨハネの元に集い、新たなメシア(指導者)の登場を待ち侘びていた。イエスは、そういった人々に混じりつつも、「愛の神」という独自の思想を密かに抱いていた。

ヨハネの処刑後、人々のイエスに対する期待が高まり、弟子や民衆の支持が集まる。しかし結局は皆が「反ローマ・ユダヤの指導者」を求めており、「愛」を説くイエスの本意は誰にも理解されない。ゆえに「何もできない男」という印象が徐々に芽生え、多くの人間がイエスの元を離れていく。極め付けは「最後の晩餐」である。民衆がメシア(指導者)を求める中、イエスは決して彼らの期待には応えない。その結果人々は幻滅し、ユダの裏切りによってイエスは逮捕される。他の使徒たちもイエスを見捨てて逃げ出してしまう。

ローマに媚びを売ることで立場を維持していたユダヤ教の領主や司祭は、イエスを邪魔に思っており、また民衆の幻滅と相乗効果に働き、イエスは死刑を宣告され、ゴルゴダの丘で十字架にかけられる。誰にも理解されないまま死を強いられたイエスは、息を引き取る直前まで、民衆を恨むことなく、むしろ民衆の救済を祈り、人々の罪を背負ったまま死んでいったのであった・・・。

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個人的考察

個人的考察-(2)

イエスを取り巻く権力のしがらみ

あらすじにも記した通り、当時のユダヤ人はローマに支配されていた。その結果、支配を妥協するグループと、反ローマの感情を持つグループに分かれていた。

当然ローマの支配を受け入れたグループは、それなりの権力が保持されるため、結果的に主流派になるわけだ。いわば魂を売ることで、地位を優先していたのである。

一方で、反ローマの感情を燃やす少数派のグループは、新たなメシア(指導者)の登場を待ち侘びていた。再びユダヤ人の権威を取り戻し、ローマから独立することを求めていたのだ。

その中でイエスはいずれに属していたわけでもない。形式的には少数派のグループから派生した人物とされていたが、上記のような権力争いとは無関係の思想を持ち続けていた。この双方を超越した立場である故に、イエスは民衆に都合良く利用されたと言える。反ローマの人間からはユダヤ復興の指導者を期待され、権力側の人間からは危険人物として監視されていた。

とは言え、殆どのユダヤ人がローマの支配を許容していたわけではない。事実、「過越祭」と呼ばれるユダヤ教の宗教記念日が近づくと、民衆の反ローマの気分は高まっていく。当然ローマはこの「過越祭」を警戒していた。しかし最も警戒していたのは、ユダヤ教主流派の領主や司祭といった上層の人間たちだ。彼らはローマに媚びを売ることで立場を保持していた。そのため民衆が反ローマの暴動でも起こせば、自分の立場が危うくなってしまうのだ。

このようにローマとユダヤは敵対関係にありながら、上層が権力的に癒着しているため、反ローマの不穏分子は双方の利害一致によって排除されてしまうのである。

以上の権力のしがらみの中で、イエスは全ての立場の人間から見捨てられた。ローマの人間やユダヤ主流派の人間は、当然イエスを邪魔に思っていた。一方で指導者を期待していた反ローマの人間は、イエスが「何もできない男」と知ると一気に幻滅し、たとえ死刑になろうが、どうでもいいとさえ思ってしまったのだ。

このような孤独なイエスは、なぜ誰にも理解されなかったのか、次章で考察する。

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誰にも理解されない孤独なイエス

「敵を愛そう。あなたを憎む人に恵もう。あなたを呪う人も祝そう。あなたをざんする人のためにも祈ろう。右の頬を打たれれば左の頬を差し出そう。上衣を奪う人には下着も拒まぬようにしよう」

『イエスの生涯/遠藤周作』

これは有名なイエスの教え、アガペー、つまり無償の愛を意味する。

元来ユダヤ教では、無償の愛という考えが重要視されていなかった。存在しなかったわけではないが、どちらかと言えば、神とは畏敬の念を抱くような、罰や怒りを象徴するものだったのだ。無論、預言者ヨハネも、そこに集う民衆たちも、こういった思想を信仰していた。しかし、イエスだけは違和感を抱いていた。彼の中には、「愛の神・神の愛」という思想が芽生えつつあったからだ。

実際にイエスは旅の中で、人々から差別される癩病らいびょう患者や娼婦などに寄り添い、彼らの孤独や弱さに慰みを与えた。人間は美しいものに目を引かれ、醜いものからは目を逸らす。しかしイエスは醜いものにこそ目を向けることを忘れなかった。

しかし、イエスの愛の教えは誰にも正しく理解されることがなかった。なぜなら「愛」は現実において無力だからである。

弟子も民衆も「愛」ではなく、現実的なものしか彼に求めてこなかった。盲人たちは眼の開くことだけを、びっこは足の動くことだけを、癩者は膿の出る傷口のふさぐことだけを要求してくるのだった。

『イエスの生涯/遠藤周作』

いくら人々の孤独に寄り添い愛を与えても、結局は病気の人間は病気が治ることを期待し、貧しい人間はお金を求めているのである。ゆえに人々はイエスに奇蹟のみを期待し、それが叶わないのなら愛など不必要だったのだ。

反ローマの民衆も同様である。彼らが求めているのはユダヤ人の権威・勝利・独立であり、その実際的な結果が得られない以上、イエスの愛などは不必要だったのだ。

このように目先の利益や奇蹟だけを求める人間には、イエスの教えは全く理解できなかった。イエスに従事していた使徒たちでさえまるで理解していなかった。ユダは分かりやすく裏切りを図ったが、逮捕されたイエスを見捨てたという意味では、他の使徒たちも自らの保身のために裏切ったのと同様なのである。

こうしてイエスは誰にも理解されないまま死んでいったのだ。

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『沈黙』に見る同伴者イエス

遠藤周作の代表作に『沈黙』がある。江戸時代のキリシタン弾圧をめぐるポルトガル人司祭の壮絶な葛藤を描いた物語だ。

『沈黙』では「同伴者としてのイエス」を描き、遠藤はカトリック教会から批判を受けた。信仰こそ正義であり、棄教を罪とみなす、父性的なキリスト教の価値観において、イエスならきっと踏み絵を許してくれるだろう、共に苦しんでくれるだろう、という遠藤独自の解釈は理解されなかったのだ。やむなく棄教したにしろ、それでも信仰を失った人間が救われるなど、正当なキリスト教の価値観からすれば異端なのだ。

この『沈黙』という作品以来、遠藤周作は同伴者イエス、弱者のためのイエスというテーマを追求し続ける。本作『イエスの生涯』においても、同様のキリスト像が描かれている。

人々はイエスの奇蹟に目を向けがちである。超自然的な力を発揮したり、病気を治したり、果ては死者を生き返らせたりもする、その非科学的な奇蹟こそが、人々がイエスを偉大なる存在と認める要因になっているのは事実である。

しかし遠藤周作はイエスの「奇蹟の物語」には殆ど注目しない。それよりも、病人や娼婦など差別される人間を最後まで見捨てずに寄り添う、「慰めの物語」を中心に描いているのだ。つまりは、同伴者イエス、弱者のためのイエスである。

裏切り者のユダは地獄に落ちたのか、という議論はしばしば為される。遠藤周作は、裏切り者のユダでさえイエスは救ったと考えている。弱さゆえに裏切りを図った人間でさえ、イエスは見捨てない、それが本作で描かれる「イエスの愛」の真意なのだろう。

このテーマについて詳しく知りたい方は、ぜひ大名作『沈黙』を読んでいただきたい。

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非科学的な聖書をどう捉えるか

聖書は非常に複雑で、多く矛盾を孕んでいる。

なぜなら、聖書はイエス本人が記したわけではないからだ。イエスの死後に弟子たちが彼の思想を布教し、作家たちによって聖書が作り上げられたのだ。本人が書いていない以上、そこには作家独自の解釈、あるいは理想が反映されるのは仕方がないことなのである。

ともすればイエスが起こした非科学的な奇蹟が事実であるかは誰にも確かめようがない。中でも、イエスの復活については最も謎であろう。

遠藤周作はこのイエスの復活について幾つかの仮定を記している。もちろん実際に処刑されたイエスが復活したという純粋な解釈もできる。あるいは、イエスの死後に人々の心の中に偶像的に復活したという解釈もできる。

他にも謎はある。生前は誰も理解せず、使徒までもが本心からは認めてはいなかった「イエスの愛」が、なぜ死後に人々に信仰されるようになったのか。つまり、死刑になったイエスを見捨てた使徒たちが、なぜその後殉教を覚悟して布教するようになったのか。

このように聖書には謎が溢れているのである。聖書作家は、都合のいい部分だけを記し、理路整然としない部分は無視しているため、まだまだ宗教学者たちは研究を続けている。

審議のほどが明確ではない点について、遠藤周作は事実とも嘘とも断言していない。あるいは事実ではないとしても、魂の真実である、と記している。聖書を読むときには、事実ではない魂の真実を否定することはできない、と自身の立場を記して筆を置いている。

一度死んだ人間が復活するなど、科学的に事実とは考えにくいが、信仰するものの魂においては真実なのである。人間の条件は事実や実際だけでは規定できない、と遠藤は言っている。

論理的な正しさだけを追求し、科学的な正当性だけを信仰し、目先の利益と他者を論破することに取り憑かれた、現代病の我々にとって、今一度、信仰や愛について考え直すきっかけになる作品である。現実において無力な「愛」を信仰しなかった時、人々は争いを始める。今はまるで愛なき時代だ・・・。

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映画『沈黙』がおすすめ

遠藤周作の代表作『沈黙』は、スコセッシ監督がハリウッドで映画化し話題になった。

禁教時代の長崎に潜入した宣教師は、想像を絶するキリシタン弾圧の光景を目撃し、彼らを救うために棄教の選択を迫られる・・・・

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