筒井康隆『残像に口紅を』あらすじ考察解説 言語の消失と断筆宣言

残像に口紅を 散文のわだち
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筒井康隆の『残像に口紅を』と言えば、章ごとに日本語の音が1種類ずつ小説の文面から失われてゆく、実験的な作品です。

初期のブラックユーモアを含む短編小説とは異なり、「小説を批判する小説」としての作風が特徴的です。

1989年に発表された作品にもかかわらず、改めて最注目・増販されるなど今でも人気の高い小説です。

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『残像に口紅を』の作品概要

作者筒井康隆
発表時期1989年(昭和64年)
ジャンル長編小説、実験小説
テーマ虚構と現実、言語に対する提言
メタフィクション

『残像に口紅を』簡単なあらすじ

章が進むごとに、日本語の音が1種類ずつ小説の文面から失われてゆく、という設定で物語が進行します。

例えば、50音中の『い』が無くなれば、『犬』や『椅子』といった言葉が小説の文面上で使えなくなります。

加えて『犬』が文面上使えなくなれば、同時に『犬』という概念も消滅してしまいます。物語の中では『犬』という生き物が初めから存在しなかったことになってしまうのです。

あるいは『わ』が無くなれば、『私』という主語が消滅しますが、『僕』『俺』などの主語などは使用可能です。つまり日本語の音が消えるごとに日本語特有のニュアンスも減っていくわけです。

序盤であれば主人公はどの音が失われたのか判断できず、どこか話しづらいという印象だけがあります。ところが、次第に自分が好んでいたウィスキーの銘柄が消え、飲食店のメニューが極端に少なり、挙句妻や子供たちさえも消滅してしまいます。

やがて音が極端に減ったことで、小説の文章はリズミカルな単語の羅列へと変化していき、最後には全ての音・言語・概念・存在が消滅して、空白によって物語が終了します。

『残像に口紅を』の個人的考察

物語というより作者の実験

詳しくは後述しますが、本作には「小説を批判する小説」として、メタフィクションという技法が施されています。言ってしまえば、作者のお遊びが過ぎて、純粋な物語性みたいなものは排除されています。

なぜなら、言語が順番に失われていくという制約がある以上、物語優位で執筆することは不可能だからです。残された言語だけで書ける展開・描写に自然と絞られていくわけです。

言葉が失われていく中でいかに小説を書き続けるか、という作者の挑戦であり、物語性にそれほど重点が置かれていないように思われます。事実、判りやすい起承転結はなく、だらだらと言葉遊びが続く作品という印象が強いです。

作中にかなり長く大胆な性描写が綴られます。これもまた、言語が制約された状況でいかに生々しい性描写を表現できるか、という作者の挑戦・企みに感じられます。

既存の小説という概念を超越した作者の実験、つまり言語が順番に失われる中で物語が進行する、という設定に興味をそそられる人も多いと思います。いつまで小説として破綻せずに続けられるのか、という好奇心が湧きますよね。

ところがいざ読み始めると、純粋な物語性の排除に対して好き嫌いが分かれるのではないでしょうか。SF的な要素はあれど、物語の世界に心酔したい人には不向きな作品かもしれません。

その章で失われた日本語の音を確認して、何のモノ・コト・概念が消滅したのかを答え合わせしながら読み進める楽しみがあって、個人的には面白かったですけど。中弛みは否めません。

メタフィクションとは

前述した「メタフィクション」という技法が、本作を語る上では重要になるでしょう。

メタフィションとは、フィクションをフィクションとして扱うことです。つまり、作中でわざと「これは作り話である」と表現してしまうような手法のことを意味します。

抽象的な表現でピンと来ないと思いますが、次のような例だと判りやすいでしょう。

探偵もののドラマにおいて、主役の探偵が「テレビの前の皆さんにだけ、犯人をお教えしましょう」と視聴者に語りかける場面が稀にあると思います。

これこそ典型的なメタフィクションです。物語の登場人物が、視聴者という現実世界の存在を認識することなどはあり得なく、それを可能にすれば登場人物が自分を物語の中の虚構の存在だと認めていることになります。

代表的な作品例で言うと、映画『ファニーゲーム』では、猟奇的な犯人が突然画面越しに観客に語りかけるというメタフィクションが使用されており、当時かなり話題になりました。

このように作品自体が虚構という前提で描かれると、虚構と現実の境界線が曖昧になってしまいます。登場人物が自身の虚構を認めている、あるいは虚構の物語が現実に接近してしまうような印象を抱くでしょう。

『残像に口紅を』では、主人公は小説家の佐治という人物です。彼は物語の登場人物であると同時に、日本語が順番に消えるという文学的実験の首謀者でもありました。

日本語が消える物語を書いているのは主人公で、日本語が消える物語の世界を生きているのも主人公、と可笑しなことになっています。虚構と現実の境界線が破綻しているわけです。

筒井康隆の場合は「小説を批判する小説」というニュアンスでメタフィクションを使用しており、小説の虚構性に対して実験的なアプローチをしていたのだと思います。

「言語」VS「イメージ」

メタフィクションによる小説批判はもちろんのことですが、記号としての言語の重要性も描かれているように思われます。

『い』の音が消えると『犬』という生き物・概念も消滅してしまいます。実際に我々人間にとって、言語の消滅はイメージ(本質)の消滅と同等である、という主張が感じられます。

『あ』が消えた段階で、主人公は「香辛料にも使うイワシの塩漬けがない」「代表的な冷菓も名前が出てこない」と、もどかしさを訴えていました。「アンチョビ」と「アイス」が消滅したわけです。

このように言語が失われたのちに、多少の余韻は残りますが、やがて残像としてのイメージも完全に消滅してしまいます。

ともすれば本作の実験的な手法は、言語はただの記号に過ぎない、という考えに対するアンチテーゼのように感じられます。実際に言葉が消滅すれば概念も消滅する、だからこそ人類は言語統制に反発し、言論の自由を求めてきたのではないでしょうか。言葉が失われても概念やイメージは残り続けるという考えはただの夢想に過ぎず、思想や概念の生存には言葉が不可欠、切っても切り離せない存在でしょう。

筒井康隆は言葉を扱う立場だからこそ、言葉が失われるという逆説的な手段によって言葉に対する愛情を表現していたのかもしれません。




後の断筆宣言について

『残像に口紅を』を出版した4年後の1993年に、筒井康隆は断筆宣言をし、一切の執筆活動を辞めてしまいます。

発端となったのは、筒井康隆の『無人警察』という作品に、日本てんかん協会が「てんかんに対する差別的な表現が含まれている」と抗議したことです。

当時『無人警察』は高校の国語の教科書に掲載されていましたが、抗議が勃発したことで勝手に教科書から排除されたようです。筒井康隆には嫌がらせの電話が殺到したみたいです。今で言うネット警察みたいなものですね。

マスコミは完全に抗議側におもねっており、筒井の言い分は一切取り上げられませんでした。こういった状況に憤りを感じた筒井は、断筆宣言により約3年間の沈黙を貫きます。

この一連の問題は文壇でも賛否両論があったようです。「社会的に言語の制約があるなら新しい表現を創造すればいい」と筒井を批判する立場もあれば、表現の自由の観点から筒井を擁護する立場もあったようです。

ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ。

『筒井康隆スピーキング/筒井康隆』

最終的には日本てんかん協会と和解し、出版社の働きかけによって約3年間に及ぶ断筆宣言を解除されました。

表現の自由のもとに創造されるのが芸術なのか、差別を無くすことが芸術の本質なのか、正直答えは判りません。抗議をただの難癖だと主張する人もいるでしょうし、『無人警察』に差別的な意図など含まれていないと主張する人もいるでしょうし、当然眉をひそめる人もいるでしょう。あるいは便乗する輩も。

ただひとつ判るのは、筒井康隆は言葉を大切にする作家だということでしょう。そう考えると、順番に日本語の音が消えていく『残像に口紅を』という作品の解釈が変わってくると思いませんか?

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以上、筒井康隆の『残像に口紅を』のあらすじ考察を終了します。

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