カミュの代表作『カリギュラ』は、狂気的なローマ皇帝の生涯を描いた戯曲である。
『異邦人』『シーシュポスの神話』と併せて、不条理三部作と言われている。
不朽の名作として日本で何度も舞台化され、小栗旬や菅田将暉が主演を務めて話題になった。
その一方で、物語の内容が哲学的で難解だという声も多い。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の意味を解説していく。
作品概要
作者 | アルベール・カミュ |
国 | フランス |
発表時期 | 1944年 |
ジャンル | 戯曲 |
ページ数 | 184ページ |
テーマ | 不条理 神の不在 |
あらすじ
若き皇帝カリギュラは、最愛の妹の死後に失踪する。三日後に帰還すると、穏健だったはずの彼は暴君に豹変していた。彼は<月>を手に入れたいと望み、自分を神格化して狂気的な圧政を始める。
それから三年間、カリギュラは民衆から財産を奪ったり、気まぐれに臣下を殺したり、その妻を犯したり、権力を駆使して暴挙を繰り返す。彼は世界に不条理を与えるペストのような存在になることを望んでいる。一部の臣下は彼を崇拝するものの、大多数の人間は忍耐の限界に達し、着々と暗殺計画を進める。
情婦セゾニアはカリギュラに、純粋な心と愛に生きるつもりはないかと問う。彼はそれを拒否し、破壊の権力による幸福を望み、セゾニアを絞め殺す。そこへ暗殺者が襲来し、遂にカリギュラは殺される。ところが彼は死際に「俺はまだ生きている」と叫ぶのだった。
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個人的考察
カミュと演劇
小説家としての印象が強いカミュは、それ以上に熱心な演劇家であった。
左翼劇団「労働座」を経て、23歳の頃に自身で「仲間座」を創設し、脚本、演出、俳優、裏方まで務めた。生涯に自作の戯曲を5つ、翻訳した戯曲を6つ発表した。
本作『カリギュラ』は1941年に完成し、同時期には小説『異邦人』、随筆『シーシュポスの神話』が書き進められた。この3作品は共通のテーマを持つため、併せて「不条理三部作」と呼ばれている。
しかし1941年の時点では、『カリギュラ』の舞台化は実現しなかった。その後1944年に改稿がなされ、翌年にパリのエベルト座で初演が行われた。計189回の公演は大好評だった。それはカミュにとって、生涯で唯一の名声だったかも知れない。
カミュは人気作家ではなかった。むしろ、あらゆる立場の人間から批判され、文壇からも孤立した敵多き作家だった。それは彼の故郷アルジェの植民地支配における政治思想や、随筆『反抗的人間』をめぐるサルトルとの論争に端を発する。その詳細はここでは割愛するが、1947年 に『ペスト』を発表して以来、死までの約十年間、カミュは小説家として殆ど沈黙することになった。
一方で、演劇に関しては活発だった。カミュの伝記には「彼の最後の十年を支配したのは、文学ではなく演劇だった」と記されている。敵多き作家カミュにとって、演劇の世界だけが自由な表現場だったのかも知れない。
『カリギュラ』は『異邦人』と同じく、むしろそれ以上に、不朽の名作として現在まで語り継がれている。日本では何度も舞台化され、小栗旬や菅田将暉が主演を務めて話題になった。
しかし不朽の名作でありながら、その内容は哲学的で、難解だという声も多い。
そこで次章からは、難解な物語に秘められたテーマを考察していく。
ローマ皇帝カリギュラについて
カリギュラは実在した歴史上の人物で、ローマ帝国三代目の皇帝である。元々は穏健な君主であったが、ある事件をきっかけに狂気じみた独裁者に変貌したことで知られている。
彼が24歳の若さで即位した時、市民から熱烈に歓迎された。というのも、前皇帝の緊縮財政が市民の反感を呼び、その不人気の裏返しで、新皇帝カリギュラが人気を集めたのだ。当初、彼の政治は幸福に満ちていたと言う。兵士たちに賞与を支給し、前皇帝の時代に罪に問われた者を解放し、税制で苦しむ市民を保護し、剣闘士など娯楽にも積極的だった。
このように幸先よく始まった政治は、カリギュラの病気によって一変する。一説では、入浴と飲酒とセックスに耽って感染症になったと言われている。そして病気から復活したカリギュラは、まるで別人のように狂気的な独裁者に変貌していた。(カミュの『カリギュラ』では妹の死に置き換えられている)
病気から復活したカリギュラは、彼が回復するなら命を奉げてもよい、と誓った忠実な臣下を呼び出し、約束を守らせて殺害する。他にも妻を追放したり、義父や従弟に自害させる。そして自分を神格化し、神話の人物に扮装するようになる。エルサレムのユダヤ神殿に自分の銅像を建てることも命じた。
こうした暴挙の末に、不満を募らせた臣下によって、カリギュラは暗殺されたのだった。
不可解なのは、なぜカリギュラが、病気の前後でここまで豹変したかである。その理由を知るには、カミュの『カリギュラ』に秘められたテーマを解読する必要がある。
カリギュラが変貌した理由
カリギュラは最愛の妹の死後に失踪し、3日後に帰還すると狂気的な暴君に豹変していた。実在のカリギュラは自身の病が原因だったが、いずれも「死」がきっかけになっている。死を意識した時に別人に変わったのだ。
この「死」の謎を紐解く鍵となるのが、カミュ文学(実存主義)の代名詞と言える「不条理」である。
かつて人間の生死は神が定めていた。人間の死には意味があって、それは神の意図だと考えられていたのだ。これを否定したのが実存主義である。実存主義は神の存在を否定し、人間の生死には何の意味もないと説いた。この思想の起点にはペストの流行などが関係している。人類は疫病による大量死を経験した。罪を犯したわけでも、神に背いたわけでもない人間が不条理に死に、それはとても神の意図するものとは考えられなくなった。その結果、神の存在を否定するようになり、良いことをしようが悪いことをしようが人間は不条理に死ぬ、という実存主義的な考えが生まれたのだ。
カリギュラの妹もまた、罪を犯したわけでも神に背いたわけでもないのに、ある日突然病気で死んだ。その不条理な妹の死に直面し、カリギュラは神の不在を悟ったわけだ。
神の不在を悟ったカリギュラは、「月」を手に入れようと考える。それは「不可能なもの」を手に入れたい願望の表れで、つまり神が不在の世界で、自分が神になることを望んだのだ。言い換えれば、不条理を与えられる側から、不条理を与える側になろうと考えたわけだ。
人間が神になるなど不可能である。しかし彼には権力がある。権力には不可能を可能にする力がある。だから彼は権力を駆使して、民衆の財産を奪い、人々を殺しまくったわけだ。
それはまるで、傷つけられたくなければ、自分が傷つける側に回ればいい、という陳腐な考えのように見える。しかしカリギュラには、もっと強烈で、想像を絶するような目的があった。詳しくは次章にて解説する。
神になったカリギュラの目的
カリギュラが自身を神格化し、不条理を与える側に立った目的は2つあったと考えられる。
1つは秩序の破壊、もう1つは神の不在の証明である。
■秩序の破壊
狂気的な暴君カリギュラの政治は、ひたすら秩序に反するものだった。民衆から財産を奪い、人々を気まぐれに殺し、売春宿に通った者に勲章を与え、通わない者を死刑にし、わざと飢饉を起こして、気が向いたら止める。
側から見れば滅茶苦茶な政治だが、カリギュラは意図してそれを実行した。例えば、肉欲の罪を説く西洋の宗教観では、売春宿に通った者に勲章を与えるのは、あべこべの秩序だ。そんな風に権力を駆使して秩序を破壊すること、あるいは秩序を思い通りに作り変えることで、彼は自然の摂理さえも変える力を手に入れようとしていたのだ。
万物のありようを変えることができないのなら、太陽を東に沈ませ、苦しみを減らし、人を不死にする、それができないのなら、驚くべきこの権力が何になる。
『カリギュラ/カミュ』
彼は妹の死によって、「人間は死ぬ、そして人間は幸福ではない」という真理に到達した。そんな世界は耐えられない代物であり、だから彼は自然の摂理を変えたいと望んだ。
いわば、人間を死から解放しようとする、不可能への挑戦である。
財産を奪ったり、虐殺したり、そんなものは序章に過ぎない。不条理を与える行為の先に、神の力をも超越した、人間を不死にする力を手に入れようと考えていたのだ。
この世界は、そのままでは、たえられない代物だ。だからおれには月が要る、あるいは幸福、あるいは不死、常軌を逸しているかもしれないが、この世のものではない、なにかが必要なんだ。
『カリギュラ/カミュ』
■神の不在の証明
カリギュラが自身を神格化した、もう1つの目的は、神の不在の証明である。
彼は自らの罪深い生涯を通じてそれを証明しようとした。
彼の罪とは、神に成り代わり、神以上の存在を望んだことだ。ギリシャ神話では、「太陽」に到達しようとしたイカロスは、その傲慢さによって墜落した。その神話が本当なら、「月」を渇望するカリギュラは、イカロス同様に神の裁きを受けるはずだ。
確かに彼には裁きが下された。最終的に不満を募らせた臣下に暗殺されたのだ。しかし暗殺の場面で不可解なのが、死ぬ間際にカリギュラが「俺はまだ生きている!」と叫んだことだ。矛盾した台詞に聞こえるが、しかしこの台詞にこそ神の不在の証明が込められている。
つまり、いくら罪を犯しても、結局は人間が定めた罰によって殺されるのであり、神には裁かれない、とカリギュラは訴えていたのだ。人の手によって殺されても神には殺されない、という意味を込めて、「俺はまだ生きている!」と叫んだのである。
裁かれるべき自分が死なず、潔白な妹が不条理に死ぬ。そのことによってカリギュラは、神の不在を証明したのだった。
『異邦人』へ繋がる倫理問題
以上のようにカリギュラ(実存主義)が、神の不在を証明した結果、1つの設問が生まれた。
神によって裁かれないなら、人を殺してもいいのじゃないか、という設問である。
振り返ってみれば、人類の歴史は、人殺しの歴史である。神の不在が証明される以前(神が存在した時代)には、聖戦という言葉に象徴されるように、神のための戦争という大義名分によって、人殺しを肯定してきた。しかし神が不在ならば、そんな大義名分も不要、自由な人殺しの可能性が生まれる。
こうした倫理問題に焦点を当てたのが、代表作『異邦人』である。
『異邦人』のムルソーは、「太陽のせい」という不条理な理由でアラブ人を射殺する。裁判にかけられたムルソーは、母親の葬儀で涙を流さなかったこと、母親の葬儀の翌日に情事に耽ったことを理由に、背徳的な人間性を問われ、それが死刑判決の決めてとなった。
これも『カリギュラ』同様、神ではなく、人間の定めたルールによって裁かれる男の運命が描かれている。神が不在の世界では、人間の定めたルール(母親の葬儀では涙を流すべき)に反する者は、人間の手で殺されるのだ。
だが同時に、神が不在であるゆえに、世間の罰で裁かれようが、自分の罪を認める必要性は発生しない。神が不在なら、絶対的な善悪も不在だからだ。だからムルソーは、死刑を宣告されてもなお、自分の正しさを主張することができたのだ。
神の不在とは、良く言えば自分だけの正しさを所有する権利、悪く言えば人殺しを正当化する権利の獲得である。それは同時に倫理の崩壊を意味する。
倫理が崩壊した世界では、人間が神のごとく振る舞うことができる。神に代わって断罪することができる。ルールに反する者を、SNSで吊し上げて叩き潰すとき、我々は神である。
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映画『異邦人』がおすすめ
カミュの代表作『異邦人』は、1967年に巨匠ヴィスコンティ監督によって映画化された。
マストロヤンニと、アンナ・カリーナ共演の幻の名作と言われている。
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