サリンジャー『フラニーとズーイ』あらすじ解説|村上春樹翻訳

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フラニーとズーイ1 アメリカ文学

サリンジャーの小説『フラニーとズーイ』は、連作二編の小説をまとめた作品だ。

『ライ麦畑でつかまえて』と並ぶ代表作で、他作品にも登場するグラス・サーガの物語が描かれる。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察していく。

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作品概要

作者  サリンジャー(91歳没)  
アメリカ合衆国
発表時期「フラニー」1955年
「ズーイ」1957年
ジャンル連作長編小説
ページ数292ページ
テーマ宗教思想
思春期の自意識の葛藤

あらすじ

あらすじ

■『フラニー』
女子大生のフラニーと恋人のレーンは、この週末を一緒に過ごす計画を立てる。ところがレストランで昼食を取る最中に、二人の会話にすれ違いが生じる。過剰な自意識に悩むフラニーには、スノッブ的な振舞いをするレーンと心が通じ合わない。フラニーは自分の持っている『巡礼の道』という本の話をする。それは、絶えず祈る方法を習得する放浪者の物語だった。しかしレーンは、本の話題よりも、デートプランばかりを気にしている。やがてフラニーは店内で失神し、レーンがタクシーを呼びに行く間、絶えず祈る練習をするのだった。

■『ズーイ』
週末を恋人と過ごさずにニューヨークの自宅に戻ったフラニーは、そのまま食事も摂らずに寝込んでしまう。心配した母親のベシーは、5歳年上の兄ズーイに助けを求める。ズーイが言うには、自分もフラニーも、幼い頃からシーモアとバディ二人の兄に植え付けられた宗教思想や東洋哲学のせいで、現実世界と折り合いがつけられないらしい。ズーイは必死でフラニーを説得するが、彼持ち前の饒舌さは、ますますフラニーを混乱させる。最終的にズーイは、兄シーモアから教わった、「太ったおばさん」の話をする。「太ったおばさん」のために演技を続けなければいけない、という抽象的な教訓を伝えるのだ。するとベッドに横たわるフラニーは、初めて微笑みを見せるのであった。

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個人的考察

個人的考察-(2)

「グラス家」の長大サーガ

作中には、4人の人物しか登場しない。そのうち、恋人のレーンを除いた、フラニーとズーイと母親は、「グラス家」の人間だ。

加えて作中では、実際には登場しないが、会話の中で度々「グラス家」の兄弟たち(バディやシーモアなど)の存在が取り上げられる。そもそも「ズーイ」の方の物語は、兄のバディがグラス家のホームビデオを撮影している、という設定で描かれている。

このように多くの兄弟たちが、「既に皆さんご存知でしょうが」といった感じで、次々に登場するため、困惑した人も多いかもしれない。

それと言うのも、実はサリンジャーは自身の短編作品の中で、度々「グラス家」の人間を扱った物語を描いているのだ。つまり、本作『フラニーとズーイ』は、グラス家の長大なサーガを描いた作品のひとつなのである。

▼以下、グラス家を描いた作品一覧である。

・バナナフィッシュにうってつけの日
・コネティカットのひょこひょこおじさん
・小舟のほとりで
『ナインストーリーズ』収録

・フラニーとズーイ
※『フラニーとズーイ』収録

・大工よ、屋根の梁を高く上げよ
・シーモア-序章-
※『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』収録

・パプワース16、1924
※『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』収録

例えば、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』では、兄のシーモアが、生まれたてのフラニーの子守りで、道教の逸話を聞かせる場面などが描かれている。

あるいは『フラニーとズーイ』では既に死んだことになっている、兄シーモアがなぜ自殺したのか、そのグラス家最大の謎に迫る『シーモア-序章-』も興味深い。

ちなみにサリンジャーの故郷であるアメリカでは、彼が発表した30の短編作品のうち、『ナインストーリーズ』に収録される9作品しか単行本化されていない。サリンジャー本人の意思で、読めなくなっているのだ。

ところが日本ではなぜか多くの作品が単行本化されているため、ぜひグラス家の関連作品も手に取っていただきたい。

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フラニーの悩み①他者への嫌悪感

続いて物語の考察に入るが、まずは物語の中核とも言える、フラニーの悩みについて触れていこうと思う。

フラニーは恋人のレーンと週末を過ごす予定だったが、ランチでの会話がまるで噛み合わず、途中で失神してしまう。ニューヨークの自宅に戻ってからは、食事も摂らずに寝込んでいた。そんな彼女は『巡礼の道』という宗教本を持っており、何か信仰について固執しているみたいだった。

一体フラニーは何に悩んでいたのか?

何が彼女を失神させ、寝込ませたのか?

その答えは『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンと同様のものと言える。つまり、俗世間の人間に対する嫌悪感だ。

フラニーは、恋人のレーンが自分の学術論文をひけらかし、スノッブ(教養のある人間)に振る舞う態度を目障りに感じていた。あるいは、レーンの友人に象徴されるような、自分の知っている有名人の自慢話をする人種に嫌悪感を抱いていた。他にも、自分を「悟りの開いた人間」と思い込む大学教授を散々に扱き下ろす。

このようにフラニーは、知識を溜め込んだだけのくだらない自惚れ連中にうんざりしているわけだ。

「知ったかぶりの連中や、うぬぼれの強いちっぽけなこき下ろし屋に私はうんざりしていて、ほんとうに悲鳴を上げる寸前なの」

『フラニーとズーイ/サリンジャー』

作中の表現を使うなら、株式市場で財産を築いて、大統領の顧問になったような人間に対して、「賢人」という言葉が使われる、世間の価値観にどうしても相入れないのだ。

このフラニーの世間の人間に対する嫌悪感は、兄のズーイも共通して持っている感情だ。ズーイは俳優をしているのだが、「クリエイティブな人種」を嫌っている。彼らは真っ当に優れた仕事をするのではなく、批評家やスポンサーや大衆に賞賛されるために仕事をしているに過ぎないからだ。

要するに、世間体に媚びて、不純に知識や名誉を求める連中、社会的な価値観に侵された自惚れ連中を認めることができないのだろう。いわば、社会と折り合いを付けることができずに苦しんでいるわけだ。

そして、フラニーやズーイが世間と折り合いを付けられないのは、兄であるバディやシーモアの教育のためである。

バディからの手紙に記される通り、母親はズーイに対して、俳優業の傍らで学位を取得して安定した人生を歩むことを期待している。しかし兄バディは、学位を持っていてもカスみたいな人間はたくさんいる、と母親とは反対の意見を持っている。

こういった兄バディ、ないしはシーモアの社会に対する反抗的な姿勢は、彼らが宗教思想や東洋哲学に触れ、人生について深く考えているからだろう。実際にバディは人知を離れた場所で世捨て人のような生活を送っているし、シーモアは自ら命を絶ってしまった。

そんな兄たちの思想が、フラニーやズーイにも影響され、結果的に二人は社会と折り合いが付けられずに悩んでいるのだ。

ある意味で、社会の醜く汚れた価値観に汚されず、純粋な心を持ち続けているのだろう。

以上のような兄たちの思想や価値観については、グラス家の関連作品を読んでいただければ、より理解が深まるのでおすすめだ。

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フラニーの悩み②過剰な自意識

フラニーがなぜ世間の人間に嫌悪感を抱いているのかは、前章で考察した。

加えてフラニーにはもうひとつ重大な悩みがある。それは過剰な自意識の問題で、それこそが読者の心を掴むポイントであり、サリンジャーが描く青春小説の魅力とも言える。

つまりフラニーは、世間の人間を扱き下ろすと同時に、自分自身もそういうくだらない人間になりかねない事実に苦しんでいるわけだ。それを象徴する出来事は、フラニーが芝居をやめてしまったことだろう。

フラニーは芝居で舞台に立つ自分に、過剰な自意識が働き、まるで舞台の上でエゴを振り撒いているような感覚になってしまった。つまり、芝居が好きだという純粋な気持ちの他に、他人から喝采を受けることが好き、という不純な思いが確実に自分にはあり、それが恥ずかしくて堪らないようだ。言うなれば、フラニーが嫌悪する「不純に知識や名誉を求める連中」と、自分とが、さして変わらない存在だと感じ、苦しくなったのだろう。

これは表現者にとっての永遠のテーマだ。

「一生誰にも理解されないが、自分の好きなことを続ける」と「多くの人間に賞賛されるが、やりたくないことをやらなければいけない」という究極の選択がある。もちろん人間には、他人に認められたい、褒められたい、という欲求があるため、大抵の人間は、こういった究極の選択に上手く折り合いを付けて生きていく。

ところが、フラニーにはそれができないのだ。他人に褒められたいという欲求を持つ自分をどうしても許せず、自分が世間のくだらない人間みたいに侵されることが耐えられないのだ。

こういった「名誉と芸術の葛藤」は、作者サリンジャーが抱えていたものだと考えられる。

サリンジャーはある時期を境に、塀で囲んだ住居に身を隠し、社会から断絶された環境で、誰にも公開しない小説を執筆し続けていた。世間の賞賛を必要とせずに、自分が信じる芸術だけを追求する。それは並大抵の意思ではなし得ないことだし、実際にサリンジャー自身も悩んでいた問題なのだろう。

彼の作品では、度々ハリウッド映画が非難されるが、いわゆる世間に媚びて商業的に売り出される表現物に嫌悪感を抱いていたのだろう。そして、そういったサリンジャーの意志が、本作ではフラニーに投影されているようだ。

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「太ったおばさん」の意味

世間のくだらない人間に対する嫌悪感、しかし自分自身もそうなりかねない強迫観念、それらに苦しめられたフラニーは、信仰の世界に救いを求めるようになる。

だからこそ、フラニーは兄シーモアが残した『巡礼の道』という宗教本を持ち歩いて、何か救いとなる答えを模索していたのだろう。

最終的にフラニーを苦悩から救い出したのは、ズーイが口にした「太ったおばさん」だった。おそらく読者は、唐突に持ち出される「太ったおばさん」に困惑し、よく分からないまま読み終えてしまったことだろう。

「太ったおばさん」とは、かつて兄のシーモアが、フラニーとズーイに伝えた教訓のようなものだ。テレビ番組に出演する際に、汚れた靴を履いていたズーイに対して、シーモアは、常に「太ったおばさん」にお見せするという意識を持って、靴を綺麗に磨くよう助言する。

そもそも「太ったおばさん」とは誰なのか?

ズーイが言うには、「太ったおばさん」とは、イエス・キリストのことらしい。つまり、常にイエスに自分の行いをお見せするという意識を持って生きることを、訴えていたのだ。

さらにズーイは、アーティストが意識しなければいけないのは、自分自身にとっての完璧さだけだと口にする。他人の存在などはまるで問題ではないのだ。

フラニーはずっと世間の人間を意識して、彼らを嫌悪したり、自分がそうなる恐れに怯えたりしていた。その結果、過剰な自意識に囚われ、自分の好きな芝居さえ出来なくなった。しかし、フラニーが本当に意識するべきは、イエス(神)の存在であり、つまり、世間の人間にどう思われるかなどは気にせず、芝居が好きだという純粋な感情だけを大切にすればいいのだ。

世間の人間などは関係なく、自分が神にお見せしても恥ずかしくないと思える、正直な生き方を貫けばいい、ということだろう。

これまでのフラニーは、祈りに固執していた。祈りを習得することで、何かしらの救済が得られると信じていたのだ。しかし実際に必要なのは、祈りよりも行動であり、その行動を神にお見せすることが重要だったのだ。

その事実に気づいたフラニーは、最後には天井を見つめながら微笑みを溢す。彼女の中のわだかまりが晴れ、行動(例えば好きな演劇を)する心積りができたのかもしれない。

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映画『ライ麦畑の反逆児』

サリンジャーの半生を描いた映画『ライ麦畑の反逆児』が2017年に公開された。

『ライ麦畑でつかまえて』の創作秘話や、表舞台を去った隠居生活など、謎に満ちたサリンジャーの生涯が明らかになる。

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