坂口安吾『堕落論』あらすじ解説|堕落こそが人間の復活

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堕落論 散文のわだち

坂口安吾の作品『堕落論』は、戦後文学を代表する随筆です。

終戦直後の混乱の中で、あえて「堕落する人々」を逆説的に捉え、日本人が未来に向かうための指標を示しています。

本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。

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作品概要

作者坂口安吾
発表時期  1946年(昭和21年)  
ジャンルエッセイ
随筆
評論
ページ数26ページ
テーマ政治批判
人間の復活
敗戦後の指標

300字要約

あらすじ

敗戦後の日本人の堕落、それは人間が人間に戻った結果です。人間は元から、生きている限り堕落するものなのです。

天皇制や、武士道や、耐乏の精神は、堕落を阻止する効果があります。しかしそれらは歴史のカラクリであり、それらが作用する限り、人間の性質が開花することはあり得ません。政治の変革が、人間に真の幸福をもたらすことはないのです。

表面の綺麗事を取っ払い、堕ちるべき道を正しく堕ちることが、人間の発展に繋がります。堕落の途中で、必ず制度というカラクリが作られ、それを崩すことで、人間は進歩するからです。そういった堕落の連続の中で、自分自身と真に向き合うことだけが、人間にとっての唯一の救いなのです。

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『堕落論』の内容を詳しく

結論「堕落は人間の本質」

敗戦後の日本は世相が変わりました。

生き残った兵士は闇市で商売をし、健気な未亡人は新しい相手を求める。戦中なら考えられなかったこれらの堕落の原因は、決して敗戦による日本人の心の変化ではありません。

人間は本質的に、生きている限り堕落するものなのです。

従って、政治や制度など、様々なカラクリによって、人間は堕落を防ごうとします。しかし、堕落を防いだからといって、人間そのものを救うことはできません。

政治の変革といった他者からの借り物が、自分を救うことなどあり得ないからです。人間の幸福は個の生活にのみ存在します。社会制度という目の粗い網では、個の幸福をすくい上げることは不可能なのです。

だからこそ、人間には正しく堕ちる道を堕ちる必要があります。堕落という孤独の中で、自分自身を発見し、自分の手で救う以外に、真の幸福に辿りつく方法はありません。

つまり、兵士は闇市で商売をし、未亡人は新しい相手を見つけることで、敗戦後の混乱を乗り越えていくことができるのです。

「未亡人」について

戦時中、文学者は未亡人の恋愛を描くことを禁じられていました。

女性を一生涯夫に追従させるために設けた、軍人政治家の魂胆です。これには根本的に、人間の堕落を阻止する意図がありました。

堕落の阻止には、「美しいものを美しいままで終わらせたい」という人間の一般的な心情が含まれています。世間の処女に対する信仰は、その最もたる実例です。少女たちの堕落を制限する裏には、美しくあり続けて欲しいという他者の願望が潜んでいます。あるいは、若くしてこの世を去った人間に対して、一種の崇拝を抱くのも同様です。生き長らえて恥を重ねるよりも、若く美しい状態で死んだ方が格好であると、誰しもが考えているのです。

つまり、人間は堕落を人生の汚点のように考えます。そのため、様々な制度やカラクリによって、墜落を防ごうとするのが、歴史の常だったわけです。

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「武士道」のカラクリ

武士道は、人間の弱点に対する防壁を目的として生まれた精神です。

武士には復讐という道理が存在します。自分がいくら不利な境遇に陥っても、仇討ちのために敵を追い続ける、執念深い規律です。しかし、人間の憎悪は長続きするものではなく、「昨日の敵は今日の友」のような楽天的な性分さえあります。

つまり、権力者はこういった人間の本質を見抜いていたからこそ、あえて武士道の精神を普及させたのです。二君に従えたり、生きて捕虜になることは恥であるという考えを植え付けることで、意図的に日本人を君主に従順な戦闘者に仕立て上げたのです。

日本人は規約に従順ですが、人間の本心は常に規約とは逆の方向を求めます。こういった人間の本質的な堕落を阻止するために、意図的に生み出されたのが武士道であり、それは歴史のカラクリなのです。

「天皇制」のカラクリ

天皇制とは天皇によって生み出されたものではありません。天皇制が日本人の性癖に相応しいと、権力者たちが政治目的で設けた体制なのです。

権力者は、自らの隆盛を保つためには絶対君主が必要だと理解していました。そのため、天皇を擁立し、自らも服従する形式を取ることで、裏で自分の威厳を示し、実質的に全体を司る手段を見出したのです。平安時代の藤原氏の頃から続くカラクリです。

太平洋戦争においても、軍人たちは戦争をする建前として、天皇を便利に使っていました。

国民は本心では戦争をやめたくて仕方がなかったにもかかわらず、天皇の命令という大義名分によって継続しました。挙句、「天皇の命令なので、忍び難いけれども忍んで負ける」などは、国民の都合のいい虚栄心です。結局は全ての事態を天皇の意思という大義名分にすることで、責任を逃れ、堕落を阻止しようとしたのです。

人間に必要なのは大義名分ではなく、素直に欲し、嫌な物を嫌だという赤裸々な心です。それこそが人間の正しさ、真の人間的幸福です。カラクリが日本の観念に作用する限り、真実の人間に復帰することは不可能なのです。

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自由という不自由

作者は戦争の恐怖の中で、偉大なる破壊を愛していました。

爆撃の中では、人間は無心で運命に従います。そこには堕落という概念は存在せず、不思議な満足感があったのです。あるいは、爆弾の恐怖はあれど、泥棒や追剝の心配はありませんでした。

しかし、終戦後に自由を許された途端、人々はなぜか不自由を感じました。根本的に人間は不自由であり、運命に従う理由がなくなった途端、紛らわされていた本当の不自由が露わになるからです。

つまり、カラクリから解放された人々は、永久に不自由だという観念の中で、堕落するしかありません。生きる限り堕落する、それが人間の本質なのです。その本質を救うのは政治でも制度でもなく、正しく堕ちる道を堕ちる中で個人が自分自身と向き合う以外に方法はありません。

要するに、自分を救えるのは、自分以外あり得ないということです。

孤独こそが救い

堕落とは孤独なもので、自らに頼る以外術がない宿命を帯びています。

善人は、義理や約束など、虚しいカラクリに安眠し、社会制度に身を据えて、平然と死んでいきます。しかし、堕落者は常にそこからはみ出して、孤独と戦いながら、自分自身と向き合っているのです。

つまり、人間の幸福とは個人の生活の中にしか存在せず、堕落という孤独の中で、自らと向き合う以外では手に入らないものなのです。

政治や制度が唱える国家や国際という規模の問題は、目の粗い網のようなもので、個人の問題をすくい上げることは不可能です。だからこそ、個人は然るべき堕落によって、自分自身と向き合う必要があります。

尚且つ、人間が完全に堕落し切ることなどあり得ません。人間の精神は強靭でないため、必ず堕落の途中で、何かしらのカラクリに引っかかり、落下が食い止められます。それはいわゆる、天皇制や、武士道や、耐乏の精神といったカラクリです。

人間が堕落し、カラクリが成立し、それを崩してまた堕落する、この繰り返しによって、人間は前進していくのです。

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個人的考察

個人的考察-(2)

堕落を推奨する理由とは?

坂口安吾が唱える堕落論は、性悪説的な側面を有した思想だと考えられます。「人間は本質的に、生きている限り堕落する」という理論がまさにそうです。それに対して、法律や制度や規律など、個人を超越した規則を設けることで、人間の本質的な堕落を防いでいるという理屈が記されていました。

では坂口安吾はなぜあえて堕落を推奨したのでしょうか。おそらく、それは戦後の荒廃した国民に、生きる手段を提示するためだったのでしょう。

太宰治の『斜陽』という小説では、戦後の没落した貴族の姿が描かれていました。主人公は貴族を捨て自らの欲望に忠実に行動することで戦後の新道徳を受け入れました。一方で、弟は旧式の道徳に固執したからこそ、「僕は貴族です」という言葉を残して自殺する羽目になりました。

同様に、かつての道徳にすがって「堕落してはいけない」と自分を脅迫すれば、誰もが貧しい戦後の社会を生きていくことは不可能だと、坂口安吾は理解していたのだと思います。

社会に形成されたペルソナに追従すれば、時代や道徳が移り変われば自分で自分の首を絞めることになります。対して堕落の中で自分の本当の欲望と向き合って手に入れた幸福は、時代や道徳が変わろうが一貫して生きる余地を与えてくれるのです。

堕落とは、全ての人間の生を肯定する、とても優しい概念なのです。

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芸術家としての堕落を肯定?

坂口安吾は、善人とは義理や約束など、虚しいカラクリに安眠し、社会制度に身を据えて、平然と死んでいく者だと記しました。

その一方で、堕落者は常にそこからはみ出して、孤独と戦いながら、自分自身と向き合っているのだと主張します。

これらは作家としての自分の生き方を肯定するような持論が含まれているように思われます。芸術家とは社会からはみ出し、落伍者扱いされる存在です。女や酒や薬に耽け、世間から見縊られることもあるでしょう。だからこそ坂口安吾は、芸術家とは自分自身との戦いの中で真の幸福を追求しようとする孤独な生き物だ、ということを訴えていたのではないでしょうか。

彼の別の随筆の中でも、芸術家と一般人に明確な線引きをして、芸術家がいかに苦悩と戦っているかという主張を記していました。

戦後の国民の堕落を肯定する以上に、坂口安吾は自身の芸術家としての生活の荒廃を肯定する目的で本作を綴ったのではないか、と個人的には考えています。

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