村上春樹の小説『ドライブ・マイ・カー』は、短編集『女のいない男たち』の巻頭作です。
2021年に映画化され、数々の賞を総なめし話題になりました。
本記事では、原作のあらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 村上春樹 |
発表時期 | 2013年(平成25年) |
ジャンル | 短編小説 |
ページ | 51ページ |
テーマ | 孤独感 死者がもたらす蟠り |
関連 | 2021年に映画化 |
収録 | 短編集『女のいない男たち』 |
あらすじ
主人公の家福はそれなりに評価されている脇役俳優です。車で仕事場に向かうのが彼の日課でしたが、接触事故を起こして免許停止になったため、雇い運転手として渡利みさきという若い女性を紹介してもらいます。
慎重過ぎず、粗くもないみさきの運転に安心しきった家福は、助手席で亡くなった妻のことをよく考えました。同業者だった妻は、生前に別の男と関係を持っており、家福が判っている限りでは4人の男の影がありました。
妻が亡くなって半年後、家福は偶然テレビ局で妻の浮気相手だった高槻と遭遇しました。なぜ妻が自分以外の男を必要としたのかという蟠りを抱えている家福は、その真相を探るために、浮気については知らない素振りを演じて高槻に接近します。
高槻は下手な演技ができるタイプではなく、浮気相手として家福の妻を真面目に愛していたことが判ります。家福は心の底では、高槻のことを社会的に懲らしめたいと考えてました。しかし、曇りのない心の底から滲み出た高槻の言葉に、なぜか家福は憑き物から解放されるような感覚になります。
半年程度頻りに顔を合わしていた高槻とは、それ以降全く会わなくなりました。運転手のみさきにどうして会わなくなったのかを尋ねられると、「演じる必要がなくなったから」と家福は口にします。
依然として、妻がなぜ別の男を必要としたのかは判らないままです。結局はどうしようもないことだと受け入れて演技をするしかないのです。ただし、別の自分を演じて、再び元の自分に戻ると、前と同じ場所には戻ってこないのだと家福は実感しています。そんなことを考えながら、家福はみさきが運転する車の助手席で眠りにつくのでした。
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個人的考察
作品集『女のいない男たち』に収録されている小説はいずれも、何らかの形で女性を失った男性という一貫したテーマで描かれています。
今回紹介する『ドライブ・マイ・カー』は、妻を失った男の物語です。
妻が残した蟠りに対して主人公はどのように向き合うのか、その繊細な心情を考察します。
急に高槻と会わなくなった理由
家福が高槻に接近したのは、ただ単になぜ妻が自分以外の男を必要としたかを理解したかったからです。とは言え、終盤で語られるように、高槻の手がかつて妻の肌に触れたことを想像すると堪らない気持ちになり、彼を社会的に懲らしめようと考えていたのも事実です。
ところが、最後に会った時に高槻が口にしたセリフが家福の中で特別な響きをもたらし、憑物がすとんと落ちるような感覚になります。事実、最後に握手した際の高槻の手の感触は、これまでのように妻との不快な想像を掻き立てることがなくなっていました。高槻が口にした言葉の真意は後ほど考察するとして、家福の心情がこの前後で大きく変化したのは確実です。
俳優業を営んでいる家福は、高槻に接近するに当たって、別のペルソナを演じていました。当然、妻と不貞を犯した男ですから恨んでいないわけがありません。つまり、2人の不貞を知らない別の人格を演じない限り、高槻と「友達」にはなれなかったのでしょう。実際に家福が別のペルソナを演じることで、月に何度も顔を合わすほどの友人にまで発展します。
ところが、高槻の言葉に心情が大きく変化した家福は、演技ではない本来の自分で高槻と向き合っていることに気づいたのだと思われます。その根拠として、高槻と会わなくなった理由を「演技をする必要がなくなったから」と家福は口にしていました。もとより演じることでしか繋がりを伴わない相手ですから、演技という垣根が無くなり、本当の友達になった瞬間にはもう会う必要性がなくなったのでしょう。それはつまり、舞台でキャラクターを演じている時には設定上友人だったキャストと、舞台を降りた途端に一切の関係性がなくなってしまうような感覚だと推測されます。
高槻を許した理由
社会的に懲らしめてやりたいとすら想っていた高槻を、事実上許してしまったのはなぜでしょうか。それは前述の通り、最後に会った際に高槻が口にしたセリフに起因していることは明らかです。
「本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかない」
『ドライブ・マイ・カー/村上春樹』
家福は妻に対してずっと盲点を抱えているような感覚がありました。彼女のことを判ろうと努力しても、見えない部分が多くあり、その決定的な出来事が自分以外の男と性的な関係を持っていたことです。
深い悲しみに捕われた家福は、生前の妻の心情を解明しようと、そのことばかりに取り憑かれていました。挙句、何も判らないから自分は盲点を抱えているというある種の自己嫌悪に陥ってさえいました。
このことから判るように、家福の鬱屈とした悲しみには自己が不在だったように思われます。つまり、自己を顧みず、相手の心情を解明することに必死になったばかりに、出口のない蟠りに捕らえられていたのでしょう。極端に言えば、自分を棚に上げて、妻と浮気相手にだけ原因を見出そうとしていたのです。
そんな状況の家福は、先に引用した高槻のセリフに、はっと気づかされる部分があったのでしょう。どれだけ愛し合っても相手の心を覗き込むのは不可能であるため、結局は自分の内面を見つめ直すことでしか相手を理解することはできない、という自省です。
本当に家福が盲点だったのは、人間同士の繋がりを肉体優位に考えていたことではないでしょうか。高槻のセリフによって、自己の内面と向き合うことが出来たからこそ、「肉体ではなく他に大切なものが存在する」という考えに至ったのだと思います。妻の魂を尊重することの重要さに改めて気づき、高槻の指が妻の肌に触れたという問題はそれほど重要ではないと感じられたのでしょう。運転手のみさきが口にした「奥さんはその人に心なんて惹かれていなかったから寝たんだ」というセリフが象徴するように、人間の本当の繫がりを証明するのは身体ではなく心だと言うことでしょう。家福は自分の内面にこのような結論を見出したからこそ、悲しみと和解することが出来たのだと思います。
演技によって和解するということ
「別の自分を演じた後に、元の自分に戻ると、前とは違う場所に戻っている」という哲学が本作の最も重要なテーマでしょう。これまでの考察を踏まえれば、あえて詳しく記さなくてもその真意が理解できるはずです。
高槻と友人になった家福は別の人格を演じていました。それ故に、元の自分に戻った時点で彼との繋がりは消滅しました。ただし、家福自身は妻の謎に捕われたままの振り出しの自分に戻ったわけではなく、悲しみと和解した自分になっていました。別の人格が高槻と接点を持ったことで、元どおりの自分ではない本来の自分に戻ることが出来たのです。つまり、物事に向き合うために偽りの自分を演じたとて、その全てが無駄になるわけではなく、本当の自分にも良い影響を与えるということでしょう。
妻が浮気した原因は彼女が死んだ以上、決して解明することが出来ません。同様に世の中の悲しみとは大抵どうにもならない事象から生まれるものです。だからこそ、どうにもならない悲しみを克服するためには偽りの自分を演じることが求められるのでしょう。なぜなら、偽りの自分が悲しみを受け入れた時、本当の自分にも克服の影響は作用するはずだからです。
人生に起こり得るどうしようもない悲しみは素の自分で真っ当に立ち向かうのではなく、都合の良い別人格を演じることで立ち向かう、そうすれば結果的に克服や和解に到達できるのだ、というメッセージをこの作品から考察することが出来ました。
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