芥川龍之介の『鼻』あらすじ考察 決して満たされない自尊心

鼻 散文のわだち
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芥川龍之介の小説『』をご存知ですか?

1916年に発表された短編小説で、作品集『羅生門』に収録されています。

あの明治の大文豪、夏目漱石が絶賛したことでも有名な、初期の代表作になります。

鼻の長いお坊さんの心理描写に焦点を当てた本作は、童話や昔話のようにコミカルなテイストで描かれています。しかし、ぐっと心を掴まれるような、あるいは自分の身の上に置き換えて考えてしまうような、人間の深層心理を的確に捉えた作品になっています。

「滑稽だなあ」とほくそ笑みながらも、その滑稽さは決して他人事とは思えないのです。

それでは、『鼻』のあらすじと考察を説明していこうと思います。

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『鼻』の作品概要

作者芥川龍之介
発表時期1916年(大正5年)
ジャンル短編小説
テーマ利己主義、人間の醜さ

の300字あらすじ

禅智内供は長い鼻を持つことで有名なお坊さんです。

彼は50年間この醜い鼻に悩まされ、自尊心を傷つけられてきました。

ある日、弟子が「鼻を短くする方法」を人伝に知ります。弟子に促されて、その方法を試すと、なんと禅智内供は、見事常人と変わらない鼻を取り戻します。これで自尊心を傷つけられることはないと、彼は満足のようです。

しかし鼻が短くなった途端、人々は今まで以上に彼を笑うようになります。不幸な人間が報われることがつまらないという心理が働いたためです。

禅智内供は、こんなことなら長い鼻の方がましだと嘆きます。その願い通り、彼は再び長い鼻に戻ります。今度こそ誰も自分を笑わないだろうと彼は確信するのでした。

『鼻』のあらすじを詳しく

①長い鼻を気にしてばかりいる禅智内供

京都の池の尾に住む「禅智内供」は、15センチほどの長さの鼻を持つことで有名なお坊さんです。

ソーセージのような鼻が、上唇あたりからあごの下までぶら下がっています。

出家した修行僧の頃から、天皇に仕えるようになった50歳の今まで、内心ではずっとこの鼻を気にしていました。しかし、気にしていることを人に知られるのが嫌で、表面上はすまし顔を貫き通しています。

禅智内供が長い鼻を気にする理由は2つありました。

1つは私生活における弊害です。食事の際には、弟子に木の板で鼻を持ち上げてもらわないと、ろくにご飯を食べることもできません。

しかし、こういった生活の中での不便さはさほど問題ではありませんでした。

実際に彼が苦しんだ理由は、長い鼻によって自尊心が傷付けられることです。

周囲の人間は、「禅智内供は出家してよかった」と言います。

なぜなら、「もし結婚できる身だとしたら、あんなに長い鼻を持つ男の妻になる女はいないから」とのことです。あるいは、「妻を貰えないような鼻だから出家したのだろう」と噂する者までいました。

デリケートな禅智内供は、その度に自尊心を傷つけられるのでした。

②無駄な努力をしてさらに気になる

自尊心が傷つけられることに苦心した禅智内供は、長い鼻を短く見せる努力をします。

しかし、鏡を覗き込んであれこれ試してみるほど、かえって長く見えるような気がして、さらに苦心するのでした。

その他にも可能性がある方法は全て試してみたのですが、依然として鼻は長いままです。

また、禅智内供は、寺に出入する多くの人の鼻を物色していました。あるいは、様々な書物の中の人物の鼻を気にかけていました。

自分と同じ境遇の人間を見つけて、少しでも安心したかったのです。

しかし、自分と同じような長い鼻を持つ人間は、いくら探しても一人も見つかりません。

③鼻が短かくなる方法があった!?

ある日弟子が、「知り合いの医者から鼻を短かくする方法を教わった」と言います。

禅智内供はいつも通り、鼻など気にしていない態度を装います。しかし、内心では弟子が自分の無関心な態度を説き伏せて、教わった方法を試させようとするのを待っています。

そんな禅智内供の企みに気づいている弟子は、彼の期待通りに、医者から教わった方法を試すように勧めるのでした。

鼻を短くする方法は、「熱湯で鼻を茹でて、その後に人に踏ませる」という簡単なものでした。

禅智内供は弟子の言う通り、その方法を試します。長い鼻は熱湯の中に入れても少しも熱くないようです。しばらく茹でて、むず痒くなってきた頃にお湯から出し、弟子に踏ませました。すると鼻に粟粒のようなものが現れ始めます。それを毛抜きで取ると、鳥の羽の中央の筋のようなものが抜けるのでした。

これらの処理を一通り済ましてから、再び熱湯で茹でると、何と、鼻は短くなっていました。

ほとんど鍵鼻と変わらないほどです。

もう自分を笑う者は誰もいない」と、禅智内供は鏡を見つめながら満足そうに瞬きをするのでした。




④人は他人の不幸が大好き

あれだけ気にしていた鼻が短くなり、自尊心を回復したように見えた禅智内供。

しかし、数日が過ぎると、彼は周囲の態度の違和感に気付きます。

鼻が長かった頃よりも一層、自分のことを嘲ているように感じるのです。

初めは、急に自分の顔の様子が変わったから笑っているのだと思っていました。しかし、鼻が長かった時には感じなかった、いやらしい嘲笑いが今は感じられるのです。

周囲の人間は、なぜ彼のことを以前よりも馬鹿にした態度で笑うのでしょうか?

それはつまり、不幸を克服した人間を目にした時に感じる物足りなさが原因でした。

周囲の人間は彼を再び同じ不幸に陥れたいと思っていたのです。

芥川龍之介は、このような人間の心理を「傍観者の利己主義」と名付けています。

残念ながら、はっきりとした原因が分からない禅智内供は、鼻が短くなったことをかえって恨めしく思うようになりました。

⑤長い鼻に戻りたい・・・

せっかく他人とさして変わらない鼻になった禅智内供は、「傍観者の利己主義」によって、元の長い鼻が恋しくなります。

ある寒い夜、禅智内供はなかなか寝付けずにいました。すると急に鼻がむず痒くなってきます。手で触ると熱を持ってむくんでいました。「無理に短くしたせいで病気になったのかもしれない」と彼は慎重な態度で呟きます。

翌朝、目が覚めた彼に、「忘れかけていた感覚」が戻ってきます。

慌てて鼻に手を当てると、そこにあるのは昨日までの短い鼻ではありませんでした。上唇あたりから顎の下までぶら下がるソーセージのような鼻に戻っていたのです。

彼は、かつて鼻が短くなった時と同じ満足感に包まれます。

「こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。

『鼻/芥川龍之介』

彼は心の中でそう呟きました。

そして物語は幕を閉じます。




『鼻』の個人的考察

芥川龍之介は利己主義を描く天才

芥川龍之介が本作を通して伝えたかったのは、あらすじ内にも記した通り、「傍観者の利己主義」で間違い無いでしょう。どの参考資料に目を通しても、衆口一致なため、私も異論はありません。

そもそも芥川龍之介は、人間の利己的な部分に焦点を当てた作家です。

芥川龍之介が、夏目漱石に弟子入りしていたのは有名な話です。夏目漱石が彼の作品を絶賛した理由は、まさに利己主義的な問題を描いていたからです。

と言うのも、『こころ』や『三四郎』を読んだことがある人は分かると思いますが、夏目漱石の作品はどちらかと言うと、「世間」と「個人」の対立構造で描かれている印象です。なおかつ、個人が世間に敗北するのがお決まりの結末です。

例えば、「世間的に許されない恋愛感の中で苦しみ、結局叶わない」みたいなイメージです。

それに対して、芥川龍之介の作品は、人間の利己的な問題がどういう結果を招くのか、という構造で描かれることが多いです。

この『鼻』という作品においても、「不幸な自分の、個人的な望みが叶ったら、周囲の利己主義によって不幸になった」という個人の問題に焦点を当てた構造で描かれています。

また、夏目漱石の場合、「明治時代の自由恋愛が許されない背景があるから、人間が葛藤する」という現実的な脈絡が描かれています。一方、芥川龍之介は、「鼻が長いから苦しむ」という、完全に個人的な問題に葛藤している人間が描かれています。

要するに、芥川龍之介は、前時代よりも個人に焦点を当てて問題定義した作家とういうことです。

だからこそ我々にとっては、こそばゆい部分を具現化したような、妙に納得してしまう作品なのでしょう。

禅智内供の利己主義も問題!?

大抵の考察サイトが訴えるように、本作には、「周囲の人間の利己的な思いに苦しめられる禅智内供」というテーマが存在します。文中で、あえて第三者の目線でしっかり説明が入るため、それが物語の鍵であることは明白です。

しかし、実際は利己的な願望(自尊心)に囚われた禅智内供が、刹那的な救いを求めたために、かえって悪い結果に陥ったという部分の方が重要なポイントではないでしょうか。

事実、禅智内供と周囲の人間がどんな関係だったのか、ましてや弟子との関係性すら曖昧です。「傍観者の利己主義」に比重を置き過ぎるには、周囲の人間の存在があまりにもぼやけています。

結局は、禅智内供がなぜ一喜一憂したかが重要であり、それは自尊心やら、自意識過剰やらに囚われた、彼の利己主義が原因であると思います。

禅智内供は一生満たされない?

鼻が短くなり満足した矢先に、短い鼻を恨めしく思う禅智内供。最後のシーンでは、元どおりの長い鼻に戻り、ほっとしている様子です。

しかし、「もう誰も笑わないだろう」というセリフが、気持ち良いくらいのふりになっていますね。

鼻が短くなった場面でも、長い鼻に戻った場面でも、同じ一文が綴られていました。ここから読み取れるのは、当然、彼が堂々巡りするという結末です。

不幸を乗り越えて短い鼻になった禅智内供は、周囲の利己主義によって再び不幸に陥りました。しかし、元の長い鼻に戻ることで、問題は改善したように描かれています。

ともすれば、一時的に幸福になった彼は、再び周囲の利己主義によって不幸に逆戻りすることは言うまでもありません。

つまり、彼は一生満たされることがないのです。

永遠に、長い鼻と短い鼻を交互に行き来し、そのどちらにも正しさを見出すこいとができないでしょう。

もちろん周囲の利己主義によって彼はとめどないループに陥るわけです。しかし、結局は彼のデリケート過ぎる性格の故だとも思います。

「結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。」

『鼻/芥川龍之介』

つまり、どんな結果に落ち着こうが、彼は気にしてしまう性格なのです。だから、この先いくら美しい鼻を手に入れても彼は満たされないだろうし、鼻が問題でなくなれば、もっと別の何かが問題になるでしょう。

ある意味、人間の本能的な渇望を生々しく描いているように思われます。

それに対して、仏教僧の物語であるため、因果の理法、つまり「今世でどう抗おうが、全ては前世の結果であるため逃れられない」という仏教的な考えによって、禅智内供が永遠に報われない運命であることを示唆しているのではないでしょうか。

君たちも、大抵、禅智内供なんですよ。

以上、芥川龍之介の短編小説『鼻』のあらすじと考察の説明を終了します。

長い間お付き合いありがとうございました。この文章が気に入った方は、是非シェアをお願いいたします。




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