芥川龍之介の小説『鼻』は、夏目漱石が絶賛した初期の代表作です。
鼻の長さにコンプレックスを抱くお坊さんの心理描写が、昔話のようにコミカルなテイストで描かれています。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
目次
『鼻』の作品概要
作者 | 芥川龍之介(35歳没) |
発表時期 | 1916年(大正5年) |
ジャンル | 短編小説 古典作品のリメイク |
テーマ | 利己主義、 人間の醜さ |
『鼻』あらすじ

「禅智内供」は、15センチの長さの鼻を持つことで有名なお坊さんです。内心では長い鼻を気にしていますが、気にしていることを悟られるのが嫌で、表面上は平然を装っています。しかし、周囲から嘲笑される度に自尊心を傷つけられるのでした。
ある日ひとりの弟子が、医者から鼻を短かくする方法を教わります。熱湯で鼻を茹でた後に人に踏ませれば短くなる、というのです。弟子に協力してもらいその方法を試すと、見事鼻は短くなりました。「もう自分を笑う者は誰もいない」と禅智内供は満足します。
ところが周囲の人間は、鼻が長かった頃よりも一層、禅智内供を嘲るようになります。不幸を克服した人間を目にした時に感じる物足りなさが原因で、芥川はこれを「傍観者の利己主義」と記しています。そのため禅智内供は元の長い鼻が恋しくなります。
ある寒い夜、禅智内供は急に鼻がむず痒くなるのを感じます。翌朝、鼻に手を当てると、あごの下までぶら下がるソーセージのような鼻に戻っていました。「こうなれば、もう誰も哂うものはないに違いない。」彼は心の中でそう呟くのでした。
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『鼻』の個人的考察

今昔物語を題材にした作品
芥川龍之介は古典作品を独自の解釈で描き直す名人として知られています。
本作『鼻』も、『今昔物語集』の「池尾禅珍内供鼻語」が題材になっています。
「池尾禅珍内供鼻語」は次のような物語です。
京都の池尾に鼻の長い僧がいた。彼は食事をする際には、弟子に鼻を持ち上げさせていた。ある時、弟子が鼻を持ち上げている時にくしゃみをしてしまい、食事のお粥が飛び散ってしまう。弟子の失態に対して長い鼻の僧は、「自分だから良かったものの、他の人の鼻を持ち上げている時にくしゃみをしたら大問題だ!」と叱りつける。しかし弟子は、この僧以外に鼻の長い人間などいないと、苦笑するのであった。
いわゆる、人間の頓珍漢な説教を面白可笑しく描いた物語です。
しかし芥川は、この「池尾禅珍内供鼻語」を、人間の利己主義という独自の解釈を加えて、その後の展開を創作したのでした。
この「利己主義」というテーマについて、詳しく考察していきます。
芥川龍之介は利己主義を描く天才
芥川龍之介が本作を通して伝えたかったのは、「傍観者の利己主義」で間違い無いでしょう。どの参考資料に目を通しても、衆口一致なため私も異論はありません。
そもそも芥川龍之介は、人間の利己的な部分に焦点を当てた作家です。
夏目漱石が『鼻』を絶賛したのは、まさに芥川が利己主義を描く天才だったからです。
夏目漱石の作品は「世間」と「個人」の対立構造で描かれることが多いです。例えば『三四郎』では、自由恋愛が許されない時代に苦しむ若者の姿が描かれていました。明治時代の全体主義的な風潮が漱石の主題だったからです。
それに対して芥川龍之介の作品は、人間の利己的な問題がどういう結果を招くのか、という構造で描かれることが多いです。
この『鼻』という作品においても、「不幸な自分の、個人的な望みが叶ったら、周囲の利己主義によって再び不幸になった」という個人の問題に焦点を当てた構造で描かれています。
夏目漱石の場合は「明治時代の自由恋愛が許されない背景から、若者が葛藤する」という現実的な脈絡が描かれています。一方で芥川龍之介は「鼻が長いから苦しむ」という、完全に個人的な問題に焦点を当てています。
つまり、芥川龍之介は前時代よりも個人に焦点を当てて問題定義した作家とういうことです。
だからこそ我々にとっては、こそばゆい部分を具現化したような、妙に納得してしまう作品なのでしょう。
禅智内供の利己主義も問題!?
大抵の考察サイトが訴えるように、「周囲の人間の利己的な思いに苦しめられる禅智内供」というテーマが本作には存在します。
しかし、実際は利己的な願望(自尊心)に囚われた禅智内供が、刹那的な救いを求めたために、かえって悪い結果に陥ったという部分の方が重要なポイントではないでしょうか。
禅智内供と周囲の人間がどんな関係だったのか、弟子との関係性すら曖昧です。「傍観者の利己主義」に比重を置き過ぎるには、周囲の人間の存在があまりにもぼやけています。
結局は禅智内供がなぜ一喜一憂したかが重要であり、それは自尊心やら自意識過剰やらに囚われた、彼の利己的な想いが原因でしょう。
禅智内供は一生満たされない?
鼻が短くなり満足した矢先に、短い鼻を恨めしく思う禅智内供。最後のシーンでは、元どおりの長い鼻に戻り安心している様子でした。
「もう誰も笑わないだろう」というセリフが、気持ち良いくらいのふりになっていますね。
鼻が短くなった場面でも、長い鼻に戻った場面でも、同じ一文が綴られていました。彼が堂々巡りをする運命が想像できます。
不幸を乗り越えて短い鼻になった禅智内供は、周囲の利己主義によって再び不幸に陥りました。しかし、元の長い鼻に戻ることで、問題は改善したように描かれています。
ともすれば、一時的に幸福になった彼は、再び周囲の利己主義によって不幸に逆戻りすることは言うまでもありません。
彼は一生満たされることがないのです。
永遠に長い鼻と短い鼻を交互に行き来し、そのどちらにも正しさを見出すこいとができない不幸な禅智内供なのです。もちろん周囲の利己主義によって彼はとめどないループに陥るわけですが、結局は彼のデリケート過ぎる性格が問題なのでしょう。
「結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。」
『鼻/芥川龍之介』
どんな結果に落ち着こうが、彼は周囲の人間の反応を気にしてしまう性格なのです。だから、この先いくら美しい鼻を手に入れても彼は満たされないだろうし、鼻が問題でなくなれば、もっと別の何かが問題になるでしょう。
ある意味、人間の本能的な渇望を生々しく描いているように感じます。
仏教僧の物語であるため、「今世でどう抗おうが、全ては前世の結果なので逃れられない」という因果の理法によって、禅智内供が永遠に報われない運命であることを示唆しているのではないでしょうか。
君たちも、大抵、禅智内供なんですよ。
自殺の原因となった作品?
芥川龍之介は自殺の直前に、辞世の句を残しています。
「水洟や 鼻の先だけ 暮れ残る」
この辞世の句には、「鼻」というキーワードが使われています。
自殺を決意するも、自分の中に『鼻』を夏目漱石に評価してもらったという、チンケなプライドだけが残っている、という心境を表しているのかもしれません。
執筆の苦悩、とりわけ長編小説が書けずに葛藤していた彼は、過去の栄光の呪縛に苦しんでいたのだろうか・・
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