オスカーワイルドの小説『幸福な王子』は、長く読み継がれる童話文学の名作である。
王子とツバメが自己犠牲によって貧しい人々を救う博愛的な物語が描かれる。
児童書や絵本にもなり、小学校の教科書には「しあわせの王子」というタイトルで掲載されている。
しかしその内容は、子供向けにしてはあまりにシニカルで深みがあり、大人にこそ読んで欲しい童話と言われている。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語を詳しく解説していく。
作品概要
作者 | オスカーワイルド |
国 | イギリス(アイルランド) |
発表時期 | 1888年 |
ジャンル | 童話 |
ページ数 | 14ページ |
テーマ | 自己犠牲の愛 本当の幸福とは? |
あらすじ
ある街に「幸福な王子」の像が建っていた。両目にサファイア、腰の剣にルビー、体は純白に包まれ、心臓は鉛で作られている。美しい王子の像は街の人々の自慢だったが、実は魂の宿った王子の像は嘆き悲しんでいた。生前宮殿にいた頃には気づかなかった、貧しい人々の存在が彼の目に映り込んでいたのだ。
一匹のツバメがエジプトへ向かう道中に王子の像の足元で休憩する。すると王子は涙を流して、自分に装飾された宝石を貧しい人々に届けて欲しいとツバメに頼む。ツバメは早くエジプトへ渡りたかったが、言われた通り宝石を貧しい人々に届けにいく。この自己犠牲の精神によって二人は強く結ばれていく。
体の金箔を全て与えた王子は見窄らしい姿になる。ツバメも衰え既にエジプトへ行く気力が無くなっていた。そして自らの死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って王子にキスをして力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立てて割れた。
美しくなくなった王子の像は街の人々によって処分されることになった。しかし鉛の心臓だけは溶鉱炉でも溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。
その様子を見ていた神様は、「この街で最も尊いものを二つ持ってきなさい」と天使に命じる。天使はゴミ溜めから鉛の心臓とツバメの死骸を持ってくる。神様は天使を褒め、王子とツバメに天上の幸福を与えた。
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個人的考察
大人にこそ読んで欲しい童話
19世紀末のイギリス文学を代表するオスカー・ワイルドは、その生涯に『幸福な王子』『柘榴の家』二つの童話集を発表した。収録作品は以下の通りである。
■『幸福な王子』
・幸福な王子
・小夜啼き鳥と薔薇
・身勝手な大男
・忠実な友
・非凡なる打ち上げ花火
■『柘榴の家』
・若き王
・王女の誕生日
・漁師とその魂
・星の子
中でも『幸福な王子』は最も有名で長く読み継がれている童話文学の名作だ。絵本や児童書にもなり、小学校の教科書に掲載されている。
優れた童話は子供のみならず大人にも強く訴えかける。その点でワイルドの『幸福な王子』は優れた作品と断ずることができるし、新潮文庫版のあとがきには次のように記されている。
ただひとつ忘れてならないことは、ワイルドの童話を、子供は子供なりに、大人は大人の精神的年齢に従って、いまもなお読み続けている、という文学的事実である。
『幸福な王子(あとがき)』
童話である以上、優しい文体や、子供の興味を引く技巧が施されている。しかしその内容はあまりにシニカルで風刺に満ちている。
『幸福な王子』ついて語るとき、自己犠牲や博愛といった教訓が引用されがちだ。確かに幸福な王子は自らの装飾(宝石)を貧しい人々に分け与えていく。相方的存在のツバメもエジプト行きの旅を放棄してまで従事する。王子が視力を失うことを厭わず両目のサファイアを与える場面などは、特に自己犠牲の美しさを読者に訴えかける。
もしこれが子供向けの童話であれば、良い行いをした王子とツバメにはハッピーエンドが訪れるはずだ。しかし実際は、見窄らしい姿になった王子と、力尽きたツバメの死骸は、心ない街の人々によってゴミ溜めに捨てられてしまう。
このようにワイルドの童話では、良い行いをした者は基本的に救われない。『幸福な王子』のように神に祝福される場合もあるが、少なからず現世で彼らの行為は認められない。
そこにはワイルドの人間に対する痛烈な皮肉が込められている。美しい人間愛を説きながら、人間を痛烈に批判するという、二つの側面を持った童話だからこそ、子供は子供なりに、大人は大人なりの解釈ができるのだろう。
次章からは『幸福な王子』に込められたメッセージを詳しく考察していく。
キリスト教的な自己犠牲と救済
ワイルドの作品は聖書との関連性が強く、本作『幸福な王子』の根底にもキリスト教的な精神が流れている。
キリスト教の最大の特徴は、現世利益を否定するところにある。簡単に言えば、現世で徳を積んだ者が死後に天国で祝福される、という考え方だ。その徳とは、貧しい者に分け与え、困っている者に手を差し伸べる行為を意味する。
富あるものは貧しい者に与えよ
『マルコ福音書,第十章二十一節』
しかし実際の人間社会は利害関係で成り立っている。富あるものはひたすら富を蓄え、貧しいものはパンさえ買えない。
実は幸福な王子も生前は貧しい者に全く目を向けなかった。彼が住んでいた「無憂宮」と飛ばれる宮殿には、悲しみが入ることが許されず、周囲に高い塀がめぐらされ、外の貧しい世界が見えないように作られていたのだ。
しかし皮肉にも街中に銅像として建てられた王子の目には、現実の惨めで苦痛に満ちた貧しい人々の姿が入り込んでくる。それで王子は初めて「幸福」について自己内省する。快楽に浸った生前の裕福な人生は本当に幸福だったのか。本当の幸福とは自らを犠牲にしてでも他者に施すことではないか。
こうしてキリスト教的な自己犠牲の精神に気づいた王子は、自らの銅像に装飾された宝石を、ツバメの手助けを借りて貧しい人々に分け与えていく。ツバメも間接的にその行為に従事するのだが、実際のところ彼はエジプト行きの旅を放棄してまで生涯王子に従事したので、彼もまた自己犠牲の精神を貫いたことになる。
その結果、見窄らしい姿になった王子の銅像は取り払われ、ツバメは衰弱して力尽きる。
一連の様子を見ていた神様は、天使に言いつけて二人を連れて来させ、彼らに黄金の街に住まわせることを約束する。これがいわゆるキリスト教的な天上の幸福だ。現世で徳を積んだ二人は死後に神様によって祝福されたのだ。
もし子供に読み聞かせるなら、良い行いをした人は天国に行ける、神様は君の行いをちゃんと見てる、といった風に博愛的な教訓を与えることができるだろう。
しかし大人が読む場合にはそんな甘い納得では済まない。いくら良い行いをしてもその行為が現世において認められない人間社会の冷酷な姿をありありと突きつけられる。ワイルドが最も風刺しているのは、二人をゴミ溜めに棄てた心ない街の人々だろう。
そこで次章ではワイルドが風刺した街の人々について考察する。
空虚なブルジョア社会への風刺
物語の冒頭では幸福な王子の像について説明がなされる。宝石で装飾された美しい王子の像は街の人々の賞賛の的で、特に市会議員の心情が次のように記される。
(幸福な王子の像について)「風見の鳥みたいに美しい」と、芸術的な趣味の所有者との評判を得たがっていた市会議員のひとりが言ってから、「ただ、それほど役には立たんがね」とつけ加えました。それは非実際的な人間だと考えられはしないかと、それが心配でそう言ったのでしたが、じつは非実際的な人間ではなかったのです。
『幸福な王子/オスカー・ワイルド』
周りくどい言い回しだが、市会議員は「芸術がわかる通な人間」だと思われたいが、「役に立たないものを賞賛する人間」だとは思われたくない、見栄っ張りで俗物的な人間なのだ。
彼の考える「役に立たないもの」とは、大学教授が口にした「もはや美しくないのだから、もはや役に立ちはしない」という言葉によって補完される。要するに、王子の像が華やかで美しいうちは価値を認めるが、装飾が剥がれて見窄らしくなれば無価値と考えるわけだ。
こうした街の人々の俗物性は、王子の銅像の作りにも反映されている。純白で覆われルビーやサファイアで装飾された王子の銅像は、心臓だけ鉛でできている。鉛は非常に安価な金属だ。表面だけを豪華に装飾する作り、その表面だけを見て美しいと賞賛する街の人々はあまりに俗物的な存在だ。
表面しか見ない俗物的な人間だからこそ、王子とツバメの自己犠牲の精神に彼らが気づくことはあり得ない。二人がいくら貧しい人々を助けても、彼らにとってそれは「役に立たない」行為なのだ。彼らに見えているのは、王子の銅像の代わりに次は自分の銅像を建てたいという名誉欲だけである。
けれども王子の鉛の心臓は溶解炉に入れても溶けなかった。王子の自己犠牲の精神は物質的な価値を超越した真実の価値の世界で生き続けたのだ。だからといって街の人々が真実の価値に気づくはずはなく、鉛の心臓が溶けないならゴミ溜めに捨てるだけのことだ。
このようにワイルドは、物語を通して空虚なブルジョワ社会を痛烈に批判した。しかしそこにはワイルドの身に関するもっと個人的な想いが込められていたことを無視できない。
というのもワイルドは複雑な人物で、女優らと派手な交友関係を持つ一方、同性愛の傾向があり晩年はそれを咎められ禁錮されていた。時代は19世紀末、今と違って同性愛に対する許容はなく、キリスト教会すら同性愛者を差別する側に立っていた。ワイルドは作家としては社会に認められていても、性的志向に関しては社会に認められない苦悩を抱えていたのだ。
同性愛を悪とする社会。それはまさに物事の表層しか見ない、偏見と俗物に満ちた空虚な社会である。
王子の自己犠牲の精神は現世では決して認められなかった。そこには同性愛が認められないワイルドの苦悩と疎外感が反映されているのではないだろうか。
王子とツバメの同性愛
ワイルドの同性愛は、幸福な王子とツバメの関係性に反映されている。
生涯王子に従事したツバメは自らの死期を悟ると、忠誠の意を込めて最後に手にキスしていいか王子に尋ねる。これに対して王子は、「わたしのくちびるにキスしなさい、わたしはおまえを愛しているのだから」と答える。そして二人は唇でキスを交わし、ツバメは力つき、王子の鉛の心臓は真っ二つに割れる。
手ではなく唇にキスさせた点に、単なる友情ではない同性愛の関係性が垣間見える。そしてキスをした途端両者が永遠の眠りについたのは、現世では認められない同性愛が、死後の世界で叶ったことを意味するだろう。
実はツバメは王子と出会う前、葦に恋をしていた物語が挿入される。こちらは同性愛ではなく異性愛を象徴する挿話になっている。
二人の恋愛は夏の間ずっと続くのだが、次第にツバメは葦に対して嫌気が差してくる。無口で慎ましく見えた葦だったが、彼女はいつも風と戯れており、それが男たらしに見えたのだ。またツバメは旅好きで、一緒に出かけようと伝えても葦は首を横に振る。それで冷たく扱われたと思ったツバメは、葦に別れを告げてエジプトへ飛び立つのだった。
この挿話はツバメの自己中心的な愛情を描き出している。風に吹かれて揺れる葦に浮気をしていると責めたり、動くことのできない植物を旅に誘うなど身勝手すぎる。ツバメは異性との恋愛において、自らの女性像を強く要求し、そのことが原因で二人の関係は破綻したのだ。
しかしその後ツバメは、王子との関わりの中で献身の美しさに気づく。貧しい人々に宝石を届けてほしいという王子の願いを、初めツバメは渋々引き受けていた。しかし王子が自らの視力を失ってでも眼のサファイアを貧しい人々に与える姿を見て、ツバメは一生側にいて献身することを心に決める。自己犠牲の精神を通して二人は高い位置で結ばれたのだ。それが最終的に同性愛へと発展し、二人は口づけを交わして永遠の眠りに落ちるのだった。
これは異性愛より同性愛の方が素晴らしいと、同性愛者のワイルドが極端な主張をしているわけではない。いかなる性的志向に限らず、その愛がエゴである限り破綻は訪れるし、逆に献身によって高い位置で結ばれれば、それは永久の愛になることを伝えたかったのだろう。
つまりワイルドは、異性愛か同性愛かで善悪を判断する社会に対して、愛の価値はもっと本質的な部分にあると、自らの同性愛の正当性を訴えていたのではないか。
『幸福な王子』を通じてワイルドが伝えたかったのは、本当の幸福や、本当の愛情は、それがいかなる形式であろうと、社会通念によって否定されるべきではない、ということだろう。
彼は本当の美を知る、本当の芸術家である。
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