宇佐見りん『かか』あらすじ考察 独特な方言で描かれる母娘の苦悩

かか 散文のわだち
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宇佐見りんの小説『かか』は、文藝賞に加え、史上最年少で三島由紀夫賞を受賞した、デビュー作です。

次作『推し、燃ゆ』で芥川賞を受賞しましたが、『かか』で受賞しても良かったのでは、という声が上がるほど、革新的な問題作です。

『かか』作品概要

作者宇佐見りん
発表時期2019年(令和元年)
ジャンル中編小説
テーマ母と娘
肉体的な一体化
受賞文藝賞
三島由紀夫賞

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『かか』あらすじ

あらすじ

19歳のうーちゃんが、かか(=母親)との関係に葛藤し苦悩する物語です。

とと(=父親)の浮気が原因で家族は実家に戻り、かかは病み、自傷行為や大量飲酒を繰り返し、家庭は荒廃します。うーちゃんはかかと肉体的な一体化をしており、かかが自傷行為をすると、うーちゃんも同様の痛みを感じてしまいます。それ故に、うーちゃんはかかを世界一愛していると同時に、憎悪も抱いているのでした。

ととと結ばれなければかかは壊れずに済んだという考えから、うーちゃんは性交渉によって子を孕まされる「女性」性に対する嫌悪感を持っています。いつしか嫌悪感の構造は逆転し、父母を結ばせたのは自分が生まれたからであり、自分のせいでかかが後戻りできなくなったのだと感じるようになります。

うーちゃんは信仰に基づき、和歌山県熊野の神社を目指して旅に出ます。旅の目的は、自分がかかを産み直すことです。ととに捨てられ狂い、孤独と絶望の中で老いていくかかを、自分が産み直すことで救済しようと考えたのです。SNSに擬似的な救いを求めるうーちゃんが辿り着いた熊野には、ハッピーエンドともバッドエンドともつかぬ、呆気ない現実が待ち構えているのでした。




『かか』個人的考察

個人的考察

新たな純文学の天才の登場

宇佐見りん氏のデビューは、文学界で話題になりました。

大学在学中の20歳で新人賞デビューしたことも1つの要因ですが、「最年少」という括りなら、綿矢りさや金原ひとみなど珍しくありません。彼女のデビューが注目されたのは、「新たな純文学の書き手」というフレーズに集約される、斬新さであったように思います。

そして、その斬新さの予感は的中し、次作『推し、燃ゆ』は見事芥川賞を受賞しました。

宇佐見りん氏の斬新さを個人的な見解で言い表すなら、おそらく現代的なテーマが放つ、「人間の空恐ろしさ」にあると思います。

『かか』も『推し、燃ゆ』も、現代人が抱える孤独がテーマの根底にあり、それを取り巻く生活には「SNS」や「推し」というある種の虚構的な世界が併立しています。

そして氏の描く作品は、虚構世界からの脱却を、文学的な克服装置として用いていません。あまりに残酷な現実と、都合のいい虚構世界、そのいずれもが主人公にとっては不可欠なものとして描かれています。

『かか』の主人公うーちゃんは、克服ではなく、衝動的に「SNS」のアカウントを削除します。『推し、燃ゆ』の主人公は、一方的に「推し」を剥奪されます。そしていざ現実に放り出された時に、彼女たちはどうしようもない孤独と虚無に見舞われます。

例えば、綿矢りさ氏の小説『インストール』であれば、チャットの世界から脱出し、現実と向き合うことで主人公は克服を遂げます。対する『かか』の場合は、「SNS」のアカウントを削除しても、「SNS」は確実に生活から消えることはなく、そして孤独な現実は孤独なまま存在し続けるのです。

その痛いくらいリアルな生活の構造を描き、ハッピーエンドでもバッドエンドでもない、際限ない現実を残したまま物語を終了させる。それはあまりにも我々の現実を忠実に表現しているため、「空恐ろしさ」を感じるのでしょう。

「空恐ろしさ」とは、現実の生々しさに違いなく、宇佐見りん氏はそれを狂気とも正気ともつかぬ、強靭な文章力で表現する天才なのだと思います。

「かか弁」と呼ばる世界観

本作は全編「かか弁」と呼ばれる家庭内方言で書かれています。この独特な表現について、作者が言及している、「NHK 著者からの手紙」の一部を引用します。

『かか』という話は、「うーちゃんは」というある意味での一人称と、「かか弁」という独特な家庭内方言を全編使って書かれている小説です。当初は「私は」という一人称で、文体もごく一般的な言葉を用いて書いていたんですけれども、主人公が少しおとなしくなってしまう、っていうんですかね。人間誰しも社会的な部分と幼い部分を持ち合わせているんじゃないかなって私は考えているんですけど、どうしてもおとなしめの、社会性を忘れられない小説になってしまったんです。

純文学の定義は人によって異なりますが、「人間の深い部分を描く」という点では共通していると思います。

そして「人間の深い部分」とは、社会性の裏に潜む、弱くて幼くて醜い部分ではないでしょうか。それをどのように表現するかを思案した結果、宇佐見りん氏は「かか弁」と呼ばれる家庭内だけで通じる言葉を編み出したようです。

『かか』は、主人公うーちゃんの独白体形式で綴られます。その独白にあえて砕けた家庭内方言を使用する。確かに慣れないうちは読みづらい印象を否めません。しかし、次第に読者は、「かか弁」を通して、うーちゃんの内部により入り込むことが叶い、その砕けた独白の中に「不快感」や「痛々しさ」や「空恐ろしさ」を感じずにはいられません。

文庫版の解説を担当した町田康氏も、大阪弁を基調とした独特な話し言葉を特徴とする作家です。そして『かか』を読んだ時に、自然と町田氏の描く「ユーモアの中に孕む狂気」と同様の印象を感じたのは、人間の内部を露呈するには方言が強力である、という方程式に基づいているからだと思いました。

もちろん村上春樹氏のように、俯瞰的な視線を重宝し、メタファーの多様によって核心を描き切らない美徳もあります。しかし、宇佐見りん氏は、徹底的に人間の核心を、それも皮膚の裏側の悪臭までもを、徹底的に描き切ります。

前者後者に優劣はなく、好き嫌いの問題になりますが、私はこの徹底的に描き切る宇佐見りん氏の強靭な文章力を称賛したく思います。




母子の肉体的な一体化とは

うーちゃんの苦悩は、他者(母親)への憐れみから来るありふれた痛みではありません。

うーちゃんはかかと肉体的な一体化をしており、かかが自傷行為をすれば、うーちゃんも同じ箇所に痛みを感じます。偶然にも生理の周期も同じで、本当に自分と母の境界線が存在しない感覚なのです。

うーちゃんとかかとの境目は非常にあいまいで、常に肌を共有しているようなもんでした。

『かか/宇佐見りん』

解説で町田氏が記したように、肉体的な一体化のせいで、かかの自傷行為はうーちゃんにとっての自傷行為でもあります。そのため、うーちゃんはかかに対して怒りを感じています。うーちゃんが、かかを世界一愛すると同時に、憎悪をも抱いているのは、この肉体的な同一化が原因なのです。

これは至極自尊心の問題に通じています。人間は自分を最も愛すると同時に、最も嫌悪する生き物です。そしてそういった自尊心の問題を扱った文学は掃いて捨てるほど存在します。

しかし、自尊心の問題を母との肉体的一体化によって表現する斬新さは、やはり「新たな純文学の書き手」である宇佐見りん氏の才能に他なりません。

ただし、この母との肉体的な一体化には決定的な欠点があります。それは生物の原理として、子はいずれ巣立ち、母は子よりも先に老い、死んでしまうということです。

この抗いようのない原理においては、うーちゃんとかかは吐き気がするほど明確に「他人」なのです。

あかぼうと母親を繋ぐへそのおはほかの何者でもない人間によって切断され、へそのおの痕跡はへそとして人間の中心に淋しくのこりつづける、もしへそを消してしまえるんなら、消してしまえる存在なんかが本当にいると言うんなら、むしろその痕跡ごと奪い去ってほしかった。

『かか/宇佐見りん』

うーちゃんが感じるかかとの肉体的な一体化は、母体の中では「へそのお」が実質的な役割を担っていました。しかし、生まれた瞬間に「へそのお」は切断され、「へそ」というかつての繋がりの痕跡だけを残します。

うーちゃんは、いっそのこと痕跡ごと奪い去られることで、かかから脱出したいと願っています。それはうーちゃんが自分の人生を生きることを意味します。うーちゃんはかかのせいで、勉強もままならず、受験に失敗し、浪人生として過ごしています。かかと肉体を共有する限り、うーちゃんは自分の人生を生きることができないままなのです。

しかし、うーちゃんは雷が鳴った時に、咄嗟に自分のへそを手で覆って隠します。雷さまがへそを取るという迷信から来る行為ですが、うーちゃんにとっては、かかとの繋がりが消滅することを拒んでの行動だったのでしょう。

つまり、うーちゃんは、かかからの脱出を願うと同時に、かかから脱出することを拒む、アンビバレントな感情の中で苦しんでいたのです。かかを世界一愛しながら、同時に憎むことをやめられなかったのでしょう。

かかを妊娠するという救済

かかに対する愛情と憎悪のジレンマに溺れたうーちゃん。

そんな彼女は、自分がかかを妊娠することで、救済を図ろうとします。自分がかかを産み直し、純粋無垢な「えんじょおさん(=エンジェルさん)」にしようと考えたのです。

かかが求めているのは、ババやととからの愛情であり、娘であるうーちゃんには成す術がありませんでした。だからこそ、自分がかかを孕むことで、初めて自分の愛情がかかに届くと信じたのでしょう。

もちろん、そんな霊的な願望が実現するはずもありません。だからうーちゃんは信仰の力に頼り、熊野の山に旅に出ることになったのです。

この信仰という名の霊的な力は、物語の中核を担っています。いわゆる言霊と呼ばれる、日本的な信仰です。

そしてその力は、SNSという現代のツールと重ね合わせながら描かれています。

詳しくは次章にて。




SNSと言霊の力

現実世界の問題に苦悩するうーちゃんは、SNSの世界に疑似的な救済を求めます。

いわゆる裏アカウントと呼ばれる界隈で、少数の匿名のフォロワーたちと交流し、現実では口にできないことを呟き、それを互いにレスポンスし合うことで満たされ合っているのです。

しかし、うーちゃんはSNSで愚痴を呟くものの、どこか一定の距離を保っており、本質的な苦悩を露呈することはありません。うーちゃんは「不幸」というものについて、ある種の気後れを感じているからです。

不幸に耐えるには、周囲の数人で自分がいっとう不幸だという思い違いのなかに浸るしかないんに、その悲劇をぶんどられてしまってはなすすべがないんです。うーちゃんの状況はなにがどうあろうと「生きてるだけまし」の一言に集約されるんでした。

『かか/宇佐見りん』

SNSのフォロワーや、従姉の明子は母と死別しており、うーちゃんの母親は生きています。その「生きている」という事実だけで、うーちゃんは他者との不幸の比較に敗北し、一層不幸に耐える術を見失ってしまうのでした。

そんなうーちゃんは、熊野の山を登る過酷な道中に、SNSで、かかが危篤状態である、という嘘の呟きを投稿します。そして最終的には、かかが死んだことにしてしまいます。

その呟きが、ある種の言霊的な力を持ったのか、従姉の明子が、かかがアレルギー反応を起こすピーナッツバターのクッキーを見舞いに持っていこうとします。その時に、うーちゃんは初めて、自分の言葉が霊的な力を持ち、現実世界に悲劇をもたらす恐怖を感じます。

結果的にかかの手術は見事成功しましたし、明子が見舞いに持っていったのはゼリー飲料でした。うーちゃんがSNSのアカウントを削除したから言霊の力が消えたのか、そもそも言霊などという霊的な力は非現実的な迷信なのか。

いずれにしても、うーちゃんは自分が発信する言葉の重さを反省することになり、ある意味不幸と向き合う上でのひとつの教訓になったように思います。

言葉の持つ力については、宇佐見りん氏が作家として活動する上で、あるいは誰もがSNSで言葉を発信できる時代だからこそ、作中でどうしても向き合う必要があるテーマだったのかもしれません。

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