吉本ばななの小説『キッチン』は、1989年の年間ベストセラー2位を記録した著者の処女作です。
同年の1位は、同じく吉本ばななの『TUGUMI』がランクインしています。
本記事では、あらすじを紹介した上で、物語の内容を考察しています。
作品概要
作者 | 吉本ばなな |
発表時期 | 1987年(昭和62年) |
受賞 | 海燕新人文学賞 |
ジャンル | 短編小説 |
ページ数 | 62ページ |
テーマ | 死生観 絶望からの再生 |
あらすじ
■『キッチン』
早くに両親を亡くした主人公「みかげ」は、祖母に育てられました。
ところが愛する祖母も亡くなり、みかげは飽和した悲しみにぼんやりと過ごしています。精神的にはかなりまいっているようです。
祖母は生前、花屋で働く「田辺雄一」という青年を可愛がっていました。その不思議な縁に導かれ、みかげは田辺家に居候することになります。
雄一の実の父、今は母になったゲイの「えり子さん」との出会いも通して、みかげは人生に対する哲学を見出し、絶望から再生します。
悲しみを克服するみかげの周囲には、「家族」と「キッチン」が、揺るぎなく、無口な優しさを持って存在するのでした。
■『満月-キッチン2-』
田辺家との出会いにより、絶望の淵から復活した「みかげ」でした。しかし、その年の秋にえり子さんが殺されます。
みかげは既に、料理研究家のアシスタントとして、自らの人生を突き進んでいました。えり子さんの死は当然みかげにとって衝撃でしたが、それ以上に息子である雄一の心に大きな傷を作ります。
孤独に打ちひしがれた雄一は、一人旅に出ます。彼には自分の家族の問題にみかげを巻き込んではいけないという考えがあるのです。
一方、仕事で伊豆に来ていたみかげは、出張先でとても美味しいカツ丼と出会います。彼女はそのカツ丼を雄一に食べされるために、猪突猛進に彼に会いにいくのでした。
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あらすじを詳しく
①祖母の死
主人公「みかげ」は、幼い頃に両親を亡くしたため、祖父母に育てられました。
中学に上がる頃には祖父も亡くなりました。そして先日、最愛の祖母までもがこの世を去ってしまったのです。
とうとうみかげは、肉親という存在を完全に失いました。
飽和点に達した悲しみの中で、彼女は酷く取り乱すわけでもなく、ぼんやりと生活を送っています。
孤独に酔いしれた彼女にとって、唯一心落ち着く場所は台所でした。祖母が死んで以来、みかげは台所で眠るようになります。
②田辺家との出会い
無気力に過ごすみかげの元に、突然田辺雄一という青年がやって来ます。
雄一は、死んだ祖母が親しくしていた花屋のアルバイトの青年でした。唐突ではありますが、みかげはほとんど素性を知らない雄一に、一緒に住むことを提案されます。
導かれるがまま田辺家へやって来たみかげは、雄一の母親「えり子さん」と対面します。その容姿から夜の仕事をしている想像はつきましたが、えり子さんのあまりの美しさに、みかげは目を奪われます。
さらに、えり子さんが男であることを告げられ、みかげは驚きを隠せません。
雄一は幼い頃に母親を亡くしています。母親の死後、えり子さんは女になることを決心し、今では実の父でありながら、母親として雄一を育てているのです。
田辺家に居候することになったみかげは、台所付近のソファで眠る生活を送ります。同じ屋根の下に人がいて、近くに台所があるという生活は、少なからずみかげの孤独を紛らわしてくれました。
③蔓延る喪失感
田辺家への居候生活が始まったみかげは、悲しみと幸福の間を行き来しています。
愛されて育った故に感じる寂しさ、愛する人が時と共に闇の中へ消え去っていく感覚を彼女は常に抱えています。
荷物整理のため実家に行くと、「祖母の死」に加えて、「かつて祖母と過ごした時間の死」を嫌でも実感します。見慣れたはずの元の家は、まるで自分にそっぽを向いているようで、既に別の時間を刻み始めています。
ある時、みかげは元彼の「宗太郎」に呼び出されます。彼の話では、みかげが田辺家に居候していることが大学中で話題になっているようです。それどころか、みかげの居候が原因で、雄一は恋人とトラブルになったようです。
みかげは宗太郎と交際している時、彼の陽気な素直さを本気で愛していました。彼の明るさが、みかげの心をあたためたのです。
しかし、みかげが今必要としているのは、宗太郎のような純粋な明るさではなく、田辺家に存在する妙な明るさだと実感します。
みかげは、田辺家の無干渉な優しさに、少なからず救われているのです。
④実家との決別
祖母と住んでいた家を完全引き払った帰り道は、既に日が沈みかけていました。
バスの中で、見知らぬ女の子とおばあちゃんが会話を交わすを様子を見て、みかげの喪失感はどっと増します。堪えきれず涙を流す彼女は、慌てて次の停車場で降ります。祖母が死んでからほとんど泣いていなかった彼女は、今になって声をあげて激しく泣きました。
路地で泣きじゃくる彼女は、ふと近くの建物から鍋の音や食器の音を耳にします。そこは厨房でした。途端に彼女は、暗くて明るい気持ちになり、田辺家へ向かって歩き出すのでした。
⑤みかげの雄一に対する想い
みかげは決して雄一に恋しているわけではありません。
しかし彼との生活の中で、いつか好きになってしまうかもしれないという、優しい予兆を感じています。それと同時に、早くこの家を出なくてはいけないという相反する気持ちも存在するのでした。
路地でこれしきに泣いた日の夜、みかげは夢を見ます。
今日引き払った家の台所の流しを磨いている夢でした。後方では雄一が床を拭いて、家を引き払う手伝いをしてくれています。雄一は、田辺家を出ようと考えるみかげを引き止める台詞を口にします。「本当の元気を取り戻せば引き止めても出ていくことは知っている、それまでは自分を利用しろ」と雄一はみかげに訴えるのでした。掃除を再開した二人は菊池桃子の「Night Cruising」を口ずさみます。そして、帰り道に屋台のラーメンを食べる約束を交わします。
夢から覚めたのは夜中の2時でした。みかげとほぼ同時に雄一も目を覚まします。
雄一は空腹のせいで目が覚めて、起き抜けにラーメンを食べたくなったようです。みかげが何気なく「夢の中でもラーメンって言ってたね」と呟きます。すると雄一は不思議そうな目でみかげを見つめます。そして「君の前の家の台所の床はきみどりだったかい」と尋ねます。
みかげは「さっきは磨いてくれてありがとう」と夢の中のお礼を告げるのでした。
⑥悲しみを克服するみかげ
みかげは考えていました。いつか別の場所で、この田村家を懐かしく思う時が来るのだろうかと。あるいは、いつか再び田村家の台所に立つことがあるのだろうかとも考えます。
ただ今言えるのは、自分の近くには、優しい雄一という青年と、彼の父親であり母親でもあるえり子さんがいるという事実だけです。そのことだけが、みかげにとって悲しみの底から這い上がる力になり得るのです。
この先も絶望と希望の往復の間に、たくさんのキッチンと出会うことを彼女は想像するのでした。
そして物語を幕を閉じます。
個人的考察
「キッチン」は何を象徴していたのか
本作はタイトル通り、「キッチン・台所」に因んだ物語です。
祖母の死後、孤独の底に沈んだ主人公「みかげ」の心情の変化が、各場面ごとの「キッチンの在り方」によって表現されています。
前提として理解しておくべきなのは、物語の中で「キッチン」という言葉は1度しか登場しないということです。
最終段落直前の「夢のキッチン」というワンフレーズ以外は、全て「台所」や「厨房」という言葉で表現されています。孤独の底から這い上がり、精神的に復帰した時にだけ「キッチン」という言葉で綴られていました。
要するに「キッチン」は、みかげが絶望の淵から這い上がり、家族という存在、そこに内包される愛情を取り戻した時にだけ現れる象徴的な場所だということでしょう。
家族という存在はキッチンによって繋ぎ止められている、だからこそ、祖母と過ごした家を引き払うためにキッチンを掃除するのは、みかげにとって辛い行為だったに違いありません。それを夢の中で手伝ってくれた雄一は、彼女を暗闇から救い出した存在として描かれていたのです。
変わりゆく「キッチン」の在り方
①寝床になった実家の台所
祖母が死んだ家で、無気力に生活を送るみかげは、「台所」で睡眠をとっていました。家族というコミュニティ、その内側に存在する愛情を具現化させた象徴的な場所が、「台所」だったのでしょう。
祖母が死んだ喪失感を受け入れられない彼女にとっては、台所こそが、自分と死者の繋がりを感じる事ができる場所だったのかもしれません。
②田辺家の台所
やがて、田辺家に居候を始めたみかげは、全く他人の家の「台所」を介して、雄一やえり子さんと親交を深めていきます。
2人の存在がみかげにとっては大きな救いになります。しかし親族ではない他人に迷惑をかけることに気後する彼女は、自ら幸福を拒絶しようとします。田辺家を出ようと考えていたのです。
つまり、田辺家の「台所」とは、悲しみと幸福の間を行き来するみかげの心情を表現していたのです。
事実、かつて台所で睡眠をとっていたみかげは、田辺家では「台所の近くのソファ」で睡眠をとります。遠からず近からずの台所との距離感が、みかげの気の迷いを表現しているように思われます。
しかし、夢の中で祖母との決別を雄一が手伝ってくれたことで、気の迷いはなくなり、みかげは2人に頼る決断をしました。その決意表明こそ、田辺家の台所でみかげが雄一にラーメンを作ってあげる行為だったのでしょう。
③他人の厨房
実家を引き払った後、バスの中で、女の子とおばあちゃんが会話を交わす様子を見て、みかげは突然涙を流します。自分と死者を繋ぎ止める糸が完全に断たれたことに対する喪失感があったのでしょう。
その直後に、近くの建物の厨房らしき場所から、鍋やお皿の音が聞こえて来ます。みかげは堪らず田辺家に帰りたくなります。死者と自分を繋ぎ止める実家の台所が無くなったことによって、他人の台所「厨房」が羨ましく感じたのかもしれません。みかげは「どうしようもなく、暗く明るい気持ち」で、田辺家の「台所」へ急いで帰ろうとします。徐々に田辺家の愛情を受け入れ始めたことを意味しているのではないでしょうか。
④実家の台所と決別することで・・・
みかげは夢の中で、雄一と一緒に実家の台所を掃除します。彼女は夢の中でも祖母を想って途方に暮れます。しかし、側に雄一という存在がいたことによって、彼女は救われます。
夢の中で雄一は、帰りにラーメンを食べに行こうと誘ってくれます。夢が覚めた後に、みかげと雄一は田辺家の台所で作ったラーメンを食べ、夢の中の約束を果たします。
過去の台所と決別し、新しい台所を受け入れるみかげの決心は、雄一の協力によって果たされたのです。
引きずり続けた過去の台所を2人で引き払い、新たな田辺家の台所でラーメンを作る、それはみかげが孤独の底から復帰する様子を表現していたのでしょう。
最後に、雄一とえり子さんと同じ場所にいることを完全に受け入れたみかげは、「台所」ではなく「キッチン」と口にするのでした。
吉本ばななが世界で人気な理由
吉本ばななが世界的に人気である理由の一つは、「家族」という普遍的なテーマが描かれていることでしょう。
とりわけ、血縁的な家族だけでなく、様々な形の家族が描かれているのが特徴です。
『キッチン』では、幼い頃に両親を亡くした主人公は、祖父母という家族の形で育ちました。それすらも失った彼女は、全く他人である田辺家に、新たな家族という形式を見出していきます。
つまり、吉本ばななの描く家族は、決して肉親に限りません。自分の居場所は自分で選べるという柔軟なコミュニティとしての家族が描かれています。そういった限定されない愛情の形式が、多くの人の共感を呼ぶ理由だと思われます。
事実、あるインタビューで吉本ばななは、「血縁だけでなく様々な形の家族を描き出すのが、イタリアの国民性に合っていたのかもしれない」と自身のイタリア人気の理由を語っていました。彼女の形式を問わない愛情の形こそが、世界で愛される秘訣に他なりません。
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